善人願望の偽善と欺瞞・人間のエゴをも「あるがままに見る」

「あるがままに見る」とは人間のエゴにも目をつぶらないこと

自尊感情高く生きるとは、「嫌なこと、怖いこと、難しいことはシャットアウトして現実逃避し、ルンルンの毎日を送る」のエセポジティブになることではありません。むしろその反対で、誰にとっても向き合うのが怖い現実を、勇氣を出してきちんと見て、その時に最善と思われることを一つ一つ為す、その葛藤に耐える力をつけることです。

ところで、自己決定を避けたい人がよく口にする言葉に「何を信じたらいいのかわからない」があります。この言葉の裏には「信じるに足る何かにすがりたい」依存心が見え隠れします。

解釈や未来予測は様々ですが、起きた事実は一つです。幅広い視野で捉えた事実に立脚し、自分の良心と品位、価値観、信念に基づいて判断選択をする、その習慣を身に着ける、当たり前のようで当たり前に出来ている人は、この令和の日本ではほんの一握り、1%未満でしょう。「だってみんなが、世間が、会社が、行政が」と自分ではない誰かが言ったことに盲従し、責任転嫁し、それが楽で良い、もしくはそれが当たり前と思っている大人の方が大多数です。

そして事実に立脚するとは「物事をあるがままに見る」ことです。それは客観的な各種データを読み解くことだけでなく、人間のありようにおいても同様です。

金になるなら、自分は打たずとも人にワクチンを勧める。自分や家族には使わない薬を使う。自分や家族なら受けさせない手術を受けさせる。
こういうことを私は何十回となく目にしてきた。
その現実は〇〇主義だから、〇〇信仰だからという綺麗事では語れない絶対的な事実なんです。
人間を悪いものだと思いたくない気持ちはわかるが、そんな非現実的な理想空間は存在しない。
学生の生徒会レベルですら不正はある。
製薬など毎年罰金を払っている企業ばかりだというのに、何を信じるというのか?医者がその不正を止めるどころか、研究費のために協力するから、人災が永遠に続くのだ。

自粛マスク考察マンさんのツイート

物事をあるがままに見るとは、こうした人間のエゴに目をつぶらないことでもあるのです。

「いい人でいたい」善人願望があると「本当のこと」には行きつかない

今度の戦いで、日本人の多くは事実の裏も読めず、厳しい現実に参加することもせず、個人的な命やかなりまとまった金を捧げることもせず、アメリカを離れてどうしたら国を守る現実的な制度ができるかに改めて触れる勇気もなく、ただその場限りの平和を唱えることで、自分は善人であることを証明しようとした。
そういう人々をー私をも含めてーほんとうは卑怯者というのである。

曽野綾子「追う者と追われる者は、共に神の名を口にする」

上記の戦いとはウクライナ紛争のことでもなければコロナのことでもありません。2003年のイラク戦争のことです。人間の本質はそうそう変わらないので、ここに書かれていることは20年後の今日でも起きています。

「無意味どころか逆効果のマスク・消毒・ワクチン接種をすることで、自分は善人であることを証明しようとした」

それは卑怯な在り方なのだと本人が自覚しない限り、目の前でマスクした子供が熱中症で倒れても、もしくは本人が倒れてもマスクは外しません。また「感染しない!させない!」が、神をも恐れぬ人間の思い上がりだということにも氣づこうとすらしません。

しかし一方で2003年当時と違うのは、インターネットが当時よりも更に普及し、SNSで無名の個人が発信し地域を超えて共感、連携できるようになったことです。「事実の裏を読もうとする」人は確実に当時よりも増えています。

「事実の裏を読む」人、即ち、「これはおかしい」という自らの心の声に従い「本当のこと」に行きついた人は、既に自分が善人であるかないかなどには価値を見出してはいません。

更に裏から言えば、「いい人でいたい」「人から悪く思われたくない」という、本当は打算と偽善でしかない善人願望と、「自分がこれが良いと判断したことをしたい」の自己決定は異なるのだと腑落ちしない限り、「本当のこと」に行きつくことはやはりありません。

そして自分が善人願望が抜けきらないと、今度は「人を悪く思いたくない」に自分で自分の目を曇らせてしまいます。本当は心の奥底ではわかっているにも関わらず。例えばある異性が、貴方に氣のあるそぶりはして見せても、絶対に自分からデートに誘おうとはしない、巧妙に貴方から誘わせようとする、おかしい、変だと思いながら「彼はシャイだから・・・」などと自分から相手を庇うようなことです。

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自分の中の悪をなかったことにしない

善人願望が抜けきらない人はそう珍しくなく、性善説が根強い日本人ではむしろ大多数を占めるかもしれません。日本は有史以来、他国から侵略支配されたことのない稀有な国です(実際にはアメリカの占領統治下にあるのですが、それに触れると長くなるのでここでは建前上独立していることにします)。

そして二千年来の農耕民族であり、先祖代々同じ土地に住み続けてきたので「互いをいい人だと思っておきたい。自分もいい人だと思われたい。そう思われないと共同体に受け入れてもらえない」心情が根強いのかもしれません。

一方で、国境線がしょっちゅう書き換わり、国が消滅することも珍しくなかったヨーロッパ人や、同じ国の中で差別され続けてきた黒人や、長年流浪の民で自分の頭脳しか頼れるものはなかったユダヤ人などは、人を安易に信じないのが「当たり前」です。人間はそもそも狡く腹黒いものだという一種の諦観があれば、自分だけが「人から悪く思われたくない」とは殊更に思わなくなるのでしょう。

上記は歴史的背景を踏まえた国民性の違いですが、同じ日本人同士でも、人によって違いは当然あります。

1976年に書き下ろされた高橋たか子の長編小説「誘惑者」は、戦後まもなく、二人の同級生の自殺幇助をしたある女子大生の内面を描いたものです。これは実話に基づき、高橋はある記事でこの話を知った時「この女は私だ」と強く思い、その思いが小説を書く原動力となりました。

そして高橋はこのようなことを思うのは自分だけかと思っていたのですが、小説発表後、多くの読者から同じ感想が殺到しました。当時は、自分の中の悪を「なかったことにしない」日本人がまだ少なからずいた証拠です。

「二人の同級生の自殺幇助をしたこの女は私だ」と心底思える人が、「人から悪く思われたくない」とも「人を悪く思いたくない」とも考えることはもうしません。

視野が狭くかつ勇氣がないと「今だけ・金だけ・自分だけ」に

善人願望に囚われている人と、そうでない人と、何が決定的に違うかと言えば、「目先の自分が傷つかないこと、人から非難されないこと」に意識が向いているかいないかに帰するでしょう。視野が狭いと「今日、今、自分が変に思われたくない」ばかりを考えて、結果大多数の人に「合わせる」人生に成ってしまいます。大多数の人がやってる通りにしておけば「変に思われない」。それがどんなに無意味で愚かなことであっても。日本人は大多数の人が頭にパンツを被ったら自分も被るのかもしれません。

「今だけ・金だけ・自分だけ」は極悪人だけがそうなるのではありません。ごく普通の善意の人でも陥ってしまいます。コロナが茶番、少なくとも大したことはないこと、そしてマスクは有害無益であることを2020年の夏には大多数の日本人は悟っていたはずです。そうでなければ、その頃既に観光地が満員御礼になることはありませんし、家ではマスクを外していることは皆わかっていたのですから。

2023年3月13日、国から改めて「マスクは個人の判断で」とされ(最初から任意ですし、マスクをしない人達にとっては「はあ⁉」でしかなかったのですが)、国会では議員のほとんどがマスクをしていません。国の要人が国会内でマスクをしていないということは、最初からマスクは不要だとわかり切っていた証拠です。この政府のアナウンスを踏まえ、スーパーや郵便局などでは、3月の初めごろから「マスク着用のお願い」のポスターは撤去されました。

それでも、国民の9割がたは2023年3月末現在未だにマスクをして出歩く。花粉症やシェディング被害の軽減のためやむなくという人もいるでしょうが、花粉シーズンが終わってマスクを外す人がどれだけいるのか甚だ疑問です。

騙されたふりをし続けることは、自分が詐欺に加担することであり、どれほどの弊害を社会にもたらすかを考えていないからできることです。

可哀そうなことに、多くの子供たちが「自分の顔に自信がない。恥ずかしいからマスクを外せない」ようになってしまいました。マスクをして出歩く大人がどれほど罪深いことに加担したか、2020年のコロナ騒動当初から懸念されていたことが現実になったのです。

これが「普通の善人」が視野の狭さと自己保身のために無自覚に犯してしまう悪事なのです。言葉を換えれば、視野を広げて自分を超えた物事に意識を向け、一歩を踏み出し続ける勇氣がどれほど大事か、ということです。そしてこれは、誰かにできて、誰かにはできない類のものではありません。

怒りや恨みを「なかったこと」にすると無関係な人に復讐する

目先の我が身可愛さしか考えない視野の狭さだけでなく、心の奥底に癒しきれていない怒りや恨みがあり、なおかつそれを「私は悪くない。何故なら私はいい人だから」の善人願望で覆い隠そうとすると、その怒りや恨みが自分でも自覚できない復讐心として現れることがあります。

いじめやすい人をいじめる、自分を受け入れてくれた人に嫌がらせをする、接客業の方は、嫌がらせ目的のお客さん(本来は客とは呼べませんが)に苦労されたことがあるでしょう。これも情けないことですが自分の復讐心を「決して自分に反撃しないであろう」お店の人や営業担当者に向けて腹いせしています。

特定の誰かに対する恨みではなく、世間一般を恨み憎むようになると、「世間に自分を認めさせたい。跪かせたい」になり、それもまっとうな努力ならまだしも、権力がありそうな人に取り入り、楽して得して美味しい思いをしようとするに転じかねません。冒頭に引用したツイートの「毒とわかっていて患者に処方する医者」などもその典型でしょう。SNSでの仕事自慢、リア充自慢の背景にも実は「世間に自分を認めさせたい」があるかもしれません。

また何を言っても決してマスクを外さない人の中には、「自分が努力をするより、他人を引きずりおろして自分と一緒に不幸にさせる」、もっと世間一般的に言えば「抜け駆けは許さん!」の相互監視と足の引っ張り合いがしたい人もいるでしょう。自尊感情が甚だ低いと言わざるを得ません。私のような図々しいおばさんは「知らんがな」で一蹴できますが、聞き分けの良いおりこうさんの子供ほど「やっぱりマスクを外しちゃいけないのかな・・」になってしまいます。

怒りを感じる自分を善人願望でごまかさないことから

心優しい人ほど謂れのない嫌がらせを受けることはやはりあります。その時、怒りを感じる自分を、それこそ善人願望でごまかさないことが基本のキです。

そしてその怒りは誰に対する怒りなのかを明確にすること。怒りは向けるべき相手に向けなければなりません。ですからそれと同時に、関係のない人を巻き込むことは決してしない良心と品位を養うこと。これができていれば、復讐心が無自覚にあふれてしまうことは起きません。またその復讐心が他人ではなく自分に向かうこともあるので、意識化し客観的に受け止められる自分を養うことは、その人自身にとっても大変重要です。

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怒りを感じることは悪いことではありません。人間が自己防衛のために当たり前に感じる感情であり、その中身がそれこそ自分のエゴ、未熟さ、勝手に持ってしまった期待から来るものなのかどうかを精査し、正当な怒りであれば「こんなことは起きてはならない」再発防止のためのエネルギーにできます。

上述した通り「いい人でいたい」と「自分がこれが良いと思うことをしたい」は異なります。勿論良かれと思ってやったことが裏目に出ることは、誰にとっても避けられません。同じ行動であっても、相手や状況によって違う結果になることも多々あります。その度ごとに、結果からフィードバックを得て新たな氣づきにする、その繰り返ししかないのです。

「いい人でいたい」善人願望の誘惑が、生涯一度も起きなかった人はそうそういないでしょう。しかしそれがどれほどの弊害をもたらすか、理解の一助になれば幸いです。

【音声版・自尊感情を高める習慣・6回コース】

1回約20分、6回コースの音声教材です。

第1回 自尊感情とは何か。何故大事か
第2回 全ての感情を受け止め、否定しないことの重要性
第3回 「何が嫌だったか」を自分に質問する。目的語を補う
第4回 期待通りに成らない現実を受け入れざるを得ない時
第5回 小さな一歩を踏み出す・最低限のラインを決める
第6回 人生が変わるのは知識ではなく氣づき

第1回目は無料で提供しています。まず一週間、毎日聴き、ワークに取り組んでみて下さい。その後更に日常の中で実践してみたくなったら、6回分の音声教材(税込5500円)をご購入下さい。

🔗第1回・要約・氣づきメモ

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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。