人間は「わかっちゃいるけどやめられない」不合理な存在
人間は不合理な生き物です。「わかってはいるんですけどね・・」の言い訳が全く出ない人はそうそういないでしょう。全ての人が合理的な判断を下せれば、この世の悩みや問題は大多数が消えるでしょう。しかし昔から、そして今後も、やはりそうはなりません。
一つには、理性は後天的に発達するもので、生まれ持った本能や感情の方が圧倒的に強く、それらに引きずられやすいからです。寝落ちはその最たるもので、睡眠欲には人は中々逆らえません。
「わかっちゃいるけどやめられない」の幾つかの原因と、そして引きずられっぱなしにならないための心構えを以下に挙げて行きます。
原因その1:欠乏欲求は本能
上述した通り、理性より本能の方が圧倒的に強く、人間に限らず動物はそれに引きずられやすいものです。食欲、性欲、睡眠欲の三大本能以外に、以下の図のマスローの欲求段階説の「欠乏欲求」に当たるものがあります。
- 生理的欲求・・食欲や排泄欲、睡眠欲など、人間の生理に関わる欲求
- 安全・安心の欲求・・恐怖を避けたい、安全で安心な場所を確保したい欲求
- 所属と愛の欲求・・仲間が欲しい、愛し愛されたい、孤独を癒したい欲求
- 承認欲求・・自分の存在を認められたい、馬鹿にされたくない欲求
- 自己実現欲求・・「成り得る自分」になりたい欲求
- 自己超越欲求・・自分のすべきことに見返りを求めずに自分を捧げる、無我の境地
安全・安心の欲求を裏から言えば、人間は恐怖に弱く、所属と愛の欲求をまた裏から言えば、人間は孤独に弱いです。人は安全・安心の名の下に、やすやすと自由を手放し、隷属したがります。「牢屋に入っておく方が安心で快適」なのです。
またどんなに自分を蔑ろにする配偶者や恋人であっても、中々別れられないのは「一人ぼっちの方が怖い」からです。憎み合いながらしがみつき合う関係性は、本人に相当な自覚がない限り、他人がどんなに忠告しても解消されないのはそうした理由だからです。
原因その2:脳は快を欲し、不快を避けたがる
原因その1とも連動しますが、脳は「正しいか、正しくないか」よりも「快か不快か」で取捨選択しようとします。健全な発育に伴い、良心に基づく取捨選択ができると「正しいことをするのが快で、それをしたい」「正しくないことをするのは不快であり、したくない」になります。良心の呵責や、品位が不快をもたらし、私たちの歯止めになります。
生まれたての赤ちゃんは「こんな夜中に泣いたらお母さんを起こしてしまうから可哀そうだ」などとは考えず、自分の不快だけで反応して泣きます。赤ちゃんはそれで良いのですが、ある程度分別がつくようになれば、夜中に少々お腹が痛くなっても我慢するようになります。
安心は快であり、恐怖や不安、苦痛は不快です。夜中にお腹が痛くなったなどは、大人になれば「少々のことなら我慢するもの」と判断できますが、これが例えば、「業績が下がると、本当は役に立っていない提出書類や会議や研修がやたらに増え、『何かをやったような氣分になって安心する』罠」に、多くの人が中々氣づけません。
売り上げ速報や、HPの閲覧数を過度に頻繁にチェックして安心しようとするのも同じです。数字のチェックはその後のアクションに結びつけないと、本当は仕事になりません。しかし、何かをやったような氣分、不安を紛らわせた氣分になりやすいですし、そしてアクションを起こすという面倒な不快からは逃れられるため、これもわかっていたとしても中々やめられません。
また或いは「そんな無駄な提出書類や会議や研修はやめるべきだ」は、陰でブツブツ文句を言ったとしても、小規模で従業員同士の信頼が厚い会社でもない限り、会社の上層部に面と向かって進言する勇氣はない、つまりここでも「揉めたり叱責されるのが怖い」苦痛、即ち不快に負けてしまいます。
原因その3:楽をしたがる生存戦略
人間を含めた動物は、安全・安心を欲すると同時に、楽をしたがります。これは飢餓に備えるためと言われています。今でこそ私たちは、生まれた時には既に飽食の時代であり、罰当たりなことに大量の食糧を捨てています。しかしそのような時代はつい最近のことで、大人も子供も「いつもお腹を空かせていた」時代の方がずっと長かったのです。
特に野生動物は「次にいつ食べ物にありつけるかわからない」生活をしています。野生のトラでもチーターでも、体を動かすのは餌を取る時、風雨や暑さ寒さから逃れる時、天敵から身を守る時、繁殖行為、後は子供たちがじゃれ合って「狩りの練習をする」時くらいです。それ以外の時間はたらーん、たらーんとしています。「あっちの方が景色が良いから、あっちへ移動してたらたらしよう」などと、人間のようなことは考えません。
そして使わない筋肉や脳の神経細胞を、どんどんちょん切ってしまうのは、「飢餓に備えて無駄にエネルギーを使わない」即ち燃費の良い体にしておくためです。
楽をしたがるのは動物の生存戦略による本能ですが、他の野生動物と異なり、かなり高度な社会を築いた人間は、「楽をしたがる」だけの人はやがて爪弾きにされます。「フリーライダー」つまり「ただ乗り」の人が増えれば増えるほど、それ以外の人が払うコストが大きくなり、共同体が維持できなくなるからです。
これは単に何かの作業を請け負わないだけでなく、決定という責任を回避することにも現れます。自分が楽をして、その皺寄せを誰かに押し付ける人を「狡い人」と糾弾し、責める。これも人間が共同体を維持するために、遺伝子に組み込んだ生存戦略の一つと言えるでしょう。
口が上手な狡い人、そして一度「あの人は狡い人」とばれると築いてきた人間関係をあっさり捨てて、また新たな「ただ乗り先」を見つけようとする人は、この「楽をしたがる」本能と、良心や共感性の欠如の組み合わせで生きています。「わかっているけど」というより「わかっていてもいなくても」、相当なダメージを受けない限り、自分からは止めようとはしません。
原因その4:損得勘定が生存戦略になると「やらない言い訳」に
損得勘定とは「目先の」という接頭語が付くものです。今風に言うと「今だけ・金だけ・自分だけ」です。上記の「楽がしたい」だけでなく、「自分が得をしたい。損はしたくない」になると、打算的な生き方が中々やめられません。
特別に金銭的な利益を得ていなくても「誰かが何とかしてくれる。やるのは私ではない」も同じことです。自分の手が汚れる、傷つくという損から逃れようとしています。日本人に大変多い事なかれ主義も、意識されにくいですが目先の損得勘定です。
「あなた頑張る人、私見てる人」の傍観者も同じです。「あの人と全く同じことはできないけれど、自分も何かできることをしよう」と考え、小さな一歩を踏み出そうとする人が、今の日本は余りにも減りました。悪い意味での受け身、お客さん意識で生きているのも「楽がしたい」であり、その方が自分が美味しいとこどりができるという損得勘定なのです。
この受け身の態度が良くないのは、パッと行動に移す、一歩を踏み出す瞬発力がどんどんなくなるからです。人はやらない言い訳は何でもします。「今日は〇曜日だから」「暑いから」「寒いから」言い訳は何でも良いのです。
「やらない言い訳」を全くしたことがない人はいないでしょうが、これが多くなればなるほど「わかってるんですけどね、でも・・」と肝心の自己信頼感及び行動力を失います。
原因その5:目先のことだけ考える視野の狭さ
上記の損得勘定とも関係ありますが、目先のことだけに囚われていると、先々を考えた準備・予防という面倒なことをやりたがりません。つい「まあ、明日からでいいか」「○○が△△になってから」などの先延ばしをしたがります。
この先延ばし癖も、全くやったことのない人はいないでしょう。賢い人とは、場当たり的な判断をせず、その時は面倒だったり大変なことがあっても、先々を見据えた判断選択ができる人です。
目先のことだけを考えるとは、命や健康よりも、自由や尊厳よりも、虚栄心を優先することでもあります。世間体を氣にするのは、本当は何の実態もない「世間」の被害者に如何にもなっているかのようですが、実際には自分の虚栄心、見栄に過ぎません。虚栄心は、原因その1で述べた承認欲求と関係があります。承認欲求そのものは本能なので消えませんが、「認められれば名誉に思う、励みになる」「ですが当然のことをしたまでです」位に留めておかないと、自分から虚栄心の奴隷になります。
お洒落が虚栄心の虜になると、悲劇すら起きます。1850年代のヨーロッパで、「クリノリン」と言って馬鹿でかい提灯の上半分をウエストに着け、スカートを目一杯広げたスタイルが、上流階級の女性に流行しました。お洒落はやせ我慢が時に要求されるものですが、一説には暖炉の火の引火による死亡が年間3000人、転倒による怪我が2万人だったとか。
現代の私たちは「馬鹿じゃあるまいか?」と思うかもしれませんが、「自分だけは大丈夫」の正常性バイアスや、命よりも目先の虚栄心、見栄を優先する余りに、約20年ほども流行は続きました。
しかし私たちは当時の人々を笑えません。3年以上、真夏の炎天下でも、ほとんどの人がマスクを外さなかった2020年代の日本人も似たり寄ったりです。
また、犯罪は目先の自分のことしか考えていない、家族親戚が一生に渡って地獄の思いをするとは考えていないからできることです。
人との信頼関係も同じです。「覆水盆に返らず」のことわざ通り、信頼を著しく傷つけられた心の痛みはそう簡単に回復できません。
戦国最強と呼ばれた武田家が、信玄の四男勝頼の代であっさりと滅亡し、反対に上杉家は江戸時代の度重なる転封、減封にも関わらず、明治維新後は華族・伯爵家として生き残り、今も家名が存続している要因は、上杉謙信の頃から義を重んじる家風にあったとのことです。武田家滅亡の原因は諸説あり、多くの要因が絡み合ったものですが、一つには信玄の頃から他藩との盟約破りが度重なり、勝頼の代には信頼を失墜していたからとも言われています。400年後の子孫の命運をも分ける一例です。
何を不快とするかの歯止め・「怖くても知る」視野を広げるための勇氣
「わかっているけど」をやらない習慣を身に着けるには、上記の5つに逆らっていく意識的な努力と物事の考え方が必須です。
本能は消えませんし、脳は快・不快に左右されるのは全ての人に共通です。何をもって快と感じ、不快と感じるか、ここがポイントです。「○○と思われたらみんなから(みんなとは誰のことでしょう?)変に思われる。悪口を言われたらどうしよう」が不快で、耐えられないと感じるか、「今目先の悪評を恐れて、世間に迎合し、しかし誰が知っても知らなくても、将来にわたって『卑怯者』の自分として生きて行く」ことに不快を感じ、耐えられないと感じるかです。
マキャベリの有名な言葉に「天国へ行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである」があります。地獄へ行く道を熟知するのは、自分の恐怖心との戦いの連続です。「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿になり、自分と家族が、今日一日無事に楽しく過ごせればよい、と平和ボケしたお花畑になった方が余程楽です。葛藤耐性が低いと自分から視野を狭めて楽をしたがります。しかしそれでは、自分から地獄への道へ突き進んでしまいます。ただの善意の人、いい人、いい子では、責任ある大人とは全く言えず、自分も、自分の大切な人も結果的に守れません。
「わかっているけど」に逆らうとは、言い換えれば「怖くなるから知りたくない」に逆らうことでもあるでしょう。視野を広げるとは「怖くても知る」ことです。知ってしまえば知らなかった過去には戻れず、人は何かをせずにはいられなくなります。
ですが原因その1に書いた通り、人間は誰も皆恐怖に弱いです。皆大なり小なり臆病で、ヘタレなのです。だからこそ、私たちは死ぬまで勇氣を養う必要があります。そしてそれは、誰にも知られることのない、評価されることもない、ただ同じ努力をしている人だけがそれとなく感じ取れる、非常に地味な終わりのない努力なのです。