※この記事の前編は以下のリンクよりご参照ください。
「Yes」と言う方が楽、でも楽が正しいとは限らないきちんと境界線を引いて、「No」が言えるようになりたい、そうは思っても「でも・・・」とためらい、自分を引っ張ろうとする心の声が聞こえてくるかもしれません。この「でも・・・」[…]
⑤「でも、境界線は私の怒りを表す」
境界線を持たず、何でもかんでも言われるがままだった人が、自分の限度・限界を定め、境界線を引き始めると、それまで感じていなかった怒りを感じることがあります。
怒りは恐れや悲しみと同じく、人が生きて行くにあたり大事な感情です。怒りは私たちの境界線が侵されたことを教えてくれます。しつこいセールスマンに怒りを感じるのは、経済的境界線の内側に侵入してきているからです。待ち合わせに大した理由もなく遅れてくる人にイライラするのは、自分の時間を無駄にされたという、境界線を侵されているからです。
境界線を引き始めると、それまでは寛容なふりをして見過ごしていた、「今の」怒りに正直になるだけでなく、過去の古い怒りが湧き上がってくることもあります。当時は「それは酷いことをされたのだ」と氣づけなかった、自分を蔑ろにしてきた人に対する「癒されていなかった傷」が怒りとして湧き上がってくるのです。
その時「今更過去のことを持ち出して怒るなんて」と自分の感情を押さえつけないことです。著者は「怒りでもって『過去を清算する』必要があるのは極めて普通」と述べています。自尊感情が低いと、自分を蔑ろにされても怒れません。怒りを感じるようになったのは、恰も免疫力が上がればこそ、「熱を出して病原体を退治できるようになった」ようなものです。免疫力が下がってしまうと、病原体に侵されても熱を出せません。発熱する方が健全で、正常なのです。
殊に子供の間は無知で、親を全面的に信頼し、依存しているがゆえに、親にそれを利用されて巧妙に支配されていたことに、境界線を育て始めればこそ氣づくと猛烈な怒りを感じます。その怒りはごまかさず充分感じきりましょう。時には無念の涙を流すこともあるでしょう。その上で「侵されてしまった『宝物』」を癒していく、それが自分の人生に責任を持ち、大切にするということです。
親への失望、悔しさ、腹立たしさはなくならないかもしれません。そのことと、「境界線の内側の宝物を自分で大切にする」ことは充分両立します。何故なら、「No」と言うことに恐れを感じなくなるからです。
そして日常においては、境界線は寧ろ怒りを減少させるのだと経験していきます。
ティーナは毎晩夫が夕食に一時間近く遅れて帰宅することを不満に思っていました。料理を温めておくのは大変でしたし、子供たちはお腹を空かせて機嫌が悪くなるし、その後の子供たちの宿題や入浴、就寝のスケジュールがずれてしまうからでした。しかし、夫の帰宅時刻に関わらず、定時に夕食を始めるようにすると、状況は変わりました。
夫は遅れて帰宅すると、自分で冷蔵庫から料理を出して、温め直して一人で食事をしなくてはなりません。3、4回そのようなことが続くと、彼は仕事を早く切り上げて、夕食に間に合うように帰宅するようになりました。
ティーナは境界線を設定したおかげで、侵害感や被害者意識を持たなくなり、彼女と子供たちの必要が満たされて、怒りを感じずにすむようになりました。
これが「蒔いた種は自分が刈り取る」境界線の原理原則です。怒ったり口やかましく言って相手の行動を変えようとするより、「自分が蒔いた種の結果を刈り取らせる」方が、格段に効果的なのです。
⑥「でも、他者が境界線を設けると私が傷つく」
相手が「No」「駄目」と言うと、「拒絶された」「冷たい」という氣持ちになりやすいものです。だからこそ「No」を言う際には、丁寧にその理由と、お断りすることを残念に思う氣持ちを伝え、そして場合によっては代替え案を提案する、そのコミュニケーションが非常に大切です。
しかしそのように丁寧に伝えられてもなお、他人の境界線を受け入れがたく感じ場合は、自分自身に原因があります。主だった原因を以下に4つ挙げます。
(1)子供時代の親からの不適切な「No」
自己中心的で未成熟、依存的な親は、言うべきでない「No」を言って子供を傷つけます。ベビーベッドの上で何時間も一人きりで放置され、泣くのを通り越して幼児性の鬱になってしまった、可哀そうな子供の例が本書に挙げられています。これも当然「言うべきでない『No』」です。
親が子供に無関心だったり、愛ではなく義務感で子育てをしていると、「私は親に歓迎されていない」「私は親にとって無用であり、お荷物なのだ」という感覚が、大人になってもついてまわります。多くの場合、それらは意識化されていないので、「『No』と言われる⇒自分を拒絶される」と反応的になってしまいます。
(2)自分自身の傷を他者に投影
子供時代に不適切な境界線で傷ついた人々は、自分たちの脆弱さを他人に投影することがしばしばあります。自分自身の痛みを他人の中に感じ、彼らに対して限界を設定したらどれだけ悲惨なことになるだろうと想像し、そうすることをやめてしまうのです。
同じようなトラウマを他人の中に見つけると、自分自身の「古傷が痛む」ことがしばしばあります。このこと自体は避けようがありません。経験のない人より、経験があった人の方が共感も理解もしやすいでしょう。しかし、似たような経験はあっても、同じ経験はありません。「それをされると、本当に嫌だよね、辛いよね」とは言えても、「私は貴方の氣持ちがわかります」とは、誰も言えません。感じ方も置かれた状況も違うからです。
本書に、三歳の娘がベッドに行くのを嫌がると、朝まで歌ったり遊んだりして、適切な境界線を引けない父親の例が挙げられています。「自分が娘を見捨ててしまうのではないか」という、自分自身の癒されていない境界線の傷を、娘に投影してしまったのです。(1)もそうですが、自身の境界線の傷を癒し、そして自他の境界線を引き直さないと、我が子の養育に悪影響を及ぼす一例です。
(3)偶像崇拝的な依存関係
支配/依存の共依存関係によく見られます。夫婦、恋人、親子関係など、癒着しきった「あなたなしでは生きていけない」関係です。
どうしても「ノー」と言って欲しくないと思う人がいるなら、実質上、私たちはその人に人生の支配権を与えたことになります。彼らに身を引くぞと脅されると、私たちは迎合するのです。これは結婚において頻繁に見られます。どちらか一人が、もう一人の「別れてやる」という感情的脅迫に閉じ込められている状態です。
この脅迫が、泣き落としや、「あなたって冷たいのね、そんな人とは思わなかった」など罪悪感を刺激することも多々あります。
(4)自分の責任放棄
「これくらいいいじゃないか」が常態化した責任放棄です。他人から助けてもらうのが当たり前、何故なら自分は可哀そうな弱者だから、というのが彼らのロジックです。
例えば、一時的に親が子供の借金の肩代わりをすることもあるでしょう。それをしないと、子供とその家族が窮地に陥る場合は、見て見ぬふりをできないこともあるでしょう。しかし、少しずつでも親に返さないと、何よりも本人のためになりません。「強者は弱者の面倒を見て当たり前」と学習してしまうと、「今はもうお金を貸せないよ」に傷ついてしまいます。
金銭的なことだけではなく、「私は駄目だ、駄目だ」を言い続け、自分を責めて泣いて落ち込んで見せるけれど、結局何もしないのも同じです。「そんなことないわよ!」「もう、仕方ないわね」と言ってもらうことだけをただ待っていて、相手の堪忍袋の緒が切れて「もう、同じ愚痴に付き合うのはうんざりよ!」と言われると怒り出す、すねるのも、自分の人生に責任を持とうとしない態度の現れです。
境界線は、自分の人生に責任を持つという原理原則なしには、「No」と言うテクニックだけを覚えても育てられません。
⑦「でも、境界線は罪悪感を生み出す」
結婚前はとても良好な親子関係を築いていたのに、子供が結婚し、また仕事で昇進して転勤の話が出た途端に、親の方が、父親の体の具合が悪い、母親が孤独で寂しい、「あなたたちの存在が私たちの唯一の希望の光なのよ。私たちはあなたたちのために、これこれの犠牲を払ってきたのに・・」と罪悪感に訴える例が本書に挙げられています。氣持ちが優しい子供ほど、「後ろ髪を引かれる」思いをするものでしょう。
これは双方に「受け取ったものには借りがある」という考え方のために、要らぬ罪悪感で操作しようとし、また操作されています。
相手を喜ばせたい、役に立ちたい氣持ちだけで何かをしてきた人はわかるでしょう。相手がただ、喜んでくれたり、或いは氣づかなかったとしても役に立てられればそれで充分だと。
以前私が仲間とハイキングに行った際、下山途中で森林組合の人が、登山道脇の樹木の剪定をしているのに出くわしました。「枝を前もって落としておかないと、ふいに落下して登山客が怪我をするかもしれないから」とのことでした。私が「陰ながら大事なお仕事をなさってるんですね、ありがとうございます」とお礼を言うと、その方は「仕事ですから、当然のことです」と答えました。もう何年も前の出来事ですが、忘れがたい思い出です。
本当の奉仕とは、このような見返りを求めないものです。たまたまその時、私たちが通りかかったので、そのような仕事をされていることを知りましたが、人に氣づかれなくても「これが大事だ」と思うからやる。奉仕に不可欠な態度でしょう。勿論こちらが「仕事なんだし、当然でしょ」では、それもまた思いやりと品位に欠けます。
また別の例で、或るアメリカ人女性が立ち上げた奨学金制度(女性の社会人向けのもので、育児や親の介護等でできたキャリアの空白を埋めるための、大変ユニークな研修及び奨学金制度)を受けた日本人女性が、研修修了後、受けた奨学金はその制度に「寄付して返す」のではなく、「若い難民子女の勉学のために回したい」と申し出ました。その制度の創設者からの返事は、ただ一言”Go ahead. That’s wonderful.”でした。
先の親が健全な境界線を育てていたなら、子供の昇進と転勤に、”Go ahead. That’s wonderful.”と言える筈なのです。
⑧「でも、境界線は恒久的なもの、関係を断ち切るのが怖い」
境界線を引くとは、自分の限界を設定するということです。この限界は状況によってどんどん変化します。「今夜は夜中までLINEのやり取りをしていても構わないけれど、いつもそうとは限らない」このようなことは皆お互い様なので、理解されやすいでしょう。
しかし、人のあり方、態度に対し、何は受け入れられ、何は受け入れられないかは個人差が激しいです。そしてそれは、今のその人がどう思うかであり、そして自分がそのことに責任を持てば良いのです。
私の場合ですが、私は下ネタが苦手で、嫌いです。ある男性の友人に「足立さんも丸くなったなあ。以前は俺が下ネタを話すと露骨に嫌な顔をしていたのに」と言われました。平氣になったわけでは全くないのですが、自分でも氣づかぬ内に、下ネタに関する境界線がいくらか緩んだのでしょう。時間の経過とともに、いつの間にか境界線が変化することは多々あります。
そして私が下ネタが嫌いなことについて、「足立さんって頭が固いんだよ」と陰口を叩かれることも、ひょっとしたらあるかもしません。そのことも覚悟の上ですから、それで構わないのです。「そんな陰口は叩かれたくない、でも下ネタは嫌い、私の目の前でされたくない」だと、美味しいとこどりがしたいだけの虫の良い人になり、結果境界線を引けなくなってしまいます。何かを選べば何かを失う、この選択責任を負うのも、境界線のためには必須です。
心の境界線は生き物で、意識的にも無意識的にも変わります。そしてそれが今の自分、他人と比べる必要は全くありません。そして境界線が変化すれば、去っていた人が戻ってくる、その可能性もあります。ただ未来は神様の手の内にあり、私たちの境界線の中にはありません。
8つの内どの「でも・・」が心に響いたでしょうか?響く度合いが大きいほど、ご自身の境界線が癒されるのを待っています。その振り返りのきっかけにして頂ければと思います。
この記事の最後に、最近SNSで出回った画像を貼付します。シンプルな言葉ですが、境界線の本質を現しているように私には思えます。