我が身可愛さと自尊感情の「自分を大切にする」の違いとは
我が身可愛さ、自己中とも言われますが、こうした人たちは文字通り自分が可愛く、他人のことは家族肉親でも知ったことではない、という態度を取ります。あからさまな身勝手だけでなく、「寄らば大樹の陰」「長い物には巻かれろ」「腐ってもNHK」という自己保身もまた、本人は自覚がなくても利己主義です。
「だって世間では(皆が、会社が、夫が、息子が)」を言い訳にし、自分の判断選択に責任を持とうとしないことも同様です。「だって世間では」を言われて、誰しもいい氣持ちがしないのは、一見尤もらしい体裁を装った利己心を感じ取るからでしょう。
こうした我が身可愛さと、自尊感情の「自分を大切にする」とは、どう違うのですか、という質問を時々お受けします。結論から言えば、標題の通り「我が身可愛さの利己主義者は、実は自分を愛していない」のです。寧ろ自分を憎み、生きることに倦み、人生を嫌悪しています。その埋め合わせがしたくて、他人から愛や、優しさや、尽力を底なし沼のように引き上げようとしています。こうした人と接すると、エネルギーが奪い取られてへとへとになった経験がある方も多いでしょう。
人を「利用できるか/脅威か」としか捉えないとはこうしたことです。脅威とは必ずしも恐れの対象ではなく、日常的には「面倒くさい」「邪魔になった」「厄介だ」が多いでしょう。このような扱いを受けて、心が傷つかない人はいません。自分を尊重されていないからです。自分を心から大切にしている人が、他人をそのように扱うことはないのです。そのことと、人は皆、神ならざる限界がある身なので、氣づけなかったり、理解や思いやりが及ばないことや、「これ以上関わっても疲弊するだけ」と判断して引き下がることとは区別を付けます。
利己主義も愛も「孤立を克服する」ための手段
利己主義の反対は愛です。愛とは、エーリッヒ・フロムによれば「責任・尊重・配慮・知(理解・関心)」の4条件が満たされていることです。即ちかなり能動的で、成熟した精神性の現れです。「だって」は責任転嫁ですが、即ちそれは自分に責任を持たない、自分を愛していない態度です。また好きな人は愛しやすいですが、好きだから愛しているとは限りません。
一方で利己主義について、フロムは以下のように定義しています。
利己主義は他人に対する純粋な関心を一切排除しているように見える。利己的な人は自分自身にしか関心がなく、何でも自分の物にしたがり、与えることには喜びを感じず、もらうことにしか喜びを感じない。利己的な人は外界を、自分がそこから何を得られるかという観点のみから見る。他人の欲求に対する関心も、他人の尊厳や個性に対する尊敬の念も、持たない。利己的な人には自分しか見えない。彼は、自分の役に立つかどうかという観点から、一切を判断する。そういう人は根本的に愛することができない。
エーリッヒ・フロム「愛するということ」下線は足立による
利己的な人は「外界から無条件に守られ、自分は何もしなくても与えられる」精神的な胎児のまま、未だ「この世に生まれていない」と言っても良いでしょう。一見常識的で「ちゃんとした人」に見えても、利己的な人とは何をどう言ってもまるで話が噛み合わないのは、「自分しか見えていない」からです。
利己主義と愛は正反対であるものの、「孤立を克服したい」が動機であることは同じです。また前掲書からの引用になりますが、フロムは旧約聖書創世記のアダムとイヴの神話を例に、示唆深い指摘をしています。
男と女(アダムとイヴ)は、自分自身を、そしておたがいを知った後、それぞれが孤立した存在であり、別々の性に属しているという意味でたがいに異なった存在であることを知る。しかし、自分たちがそれぞれ孤立していることは認識しても、二人はまだ他人のままである。まだ愛し合うことを知らないからだ。(アダムがイヴをかばおうとせず、イヴを責めることによって我が身を守ろうとしたことも、このことをよく示している)。人間が孤立した存在であることを知りつつ、まだ愛によって結ばれることがないーここから恥が生まれるのである。罪と不安もここから生まれる。
このように、人間の最も強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。
前掲書 下線は足立による
時折、中学生くらいの子供が、遊び仲間から万引きや売春を強要されていたという痛ましいニュースがあります。強要された子供は決まって「仲間外れにされたくなかった」と言います。彼ら彼女らにとって、万引きや売春を強要される屈辱より、仲間外れの方が怖いのです。
利己主義は、相手を飲み込み、自分の延長線にする、つまり自由を奪うことによって、孤立を克服しようとする試みです。支配と依存という形で現れるのが典型です。また「だってそうしろと言われたから」の判断放棄は、奪ってくれた方が楽なので、自分から自由を差し出しています。
上記の中学生の遊び仲間に愛はありません。脅し、嫌がらせをし、支配することで「仲間外れにしない」、即ち孤立を克服しようとする試みです。これが親子間や配偶者間でもしばしば起き、当人ですら氣づかないことも珍しくありません。
利己主義の克服の鍵は生産性⇒自分から相手に、皆に一歩を踏み出す
孤立の克服の手段として、フロムは祝祭的興奮状態(現代ならロックコンサートや、スポーツ観戦での一体感など)や、性的興奮、アルコール中毒、麻薬常用、集団への同調、思考停止した「型通り」などを挙げています。一億総マスクも「孤立から逃れるため」同調する、無意識的な手段だったのでしょう。炎天下や、雨降りの中で自転車に乗っていてもマスクを外さない。日本人が如何に「手っ取り早く」孤立を解消したがっていたかの現れです。即ちそこには、自分にも他人にも、社会に対しても愛がないのです。
フロムは真の利己主義の克服のためには生産性を獲得することだと述べています。自分から生み出す、ということです。誰かを幸せにしたい、笑顔にしたい、或いは氣づかれなくとも役に立ちたい、こうした動機で自分から相手の方へ一歩を踏み出す姿勢です。
家族のために食事を作ると、家族だといちいち「わあ!美味しい!」などと言わないかもしません。でも口は正直で、みるみるなくなって、後日「ねえ、こないだのあれ、また作ってよ」などとねだられると、そのこと自体が喜びになる、それがフロムの言う生産性です。喜ばれることそのものが報酬というあり方です。
恋愛中の人は、互いが互いを喜ばせたい、相手の喜ぶ顔を見ると自分も幸せなのかどうかで、「ひょっとして都合よく付き合わされているんじゃないか?」の答えになるでしょう。「相手に好かれている自分が欲しい」は、愛ではありません。相手を使った自慰行為と言っても過言ではないでしょう。
また被災地のボランティア活動に行ったことがある人は、口を揃えて「やって良かった」と言います。普段の仕事では得られない何かを感じ取るからでしょう。現地では、リーダーの指示に従った作業的なことに終始します。「自分にしかできない」ことをやるわけではありません。何をやったかというよりも、「自分から相手のために、一歩を踏み出す」ことそのものが、自分が何かを生み出した実感であり、見返りを求めずに、即ち自由に孤立を克服した証になるのでしょう。
見返りを求めるとは、損得勘定に自分が縛られています。損か得か、利用価値があるかないかで人を扱うのは、自分が良い思いをしているかのようで、実は自由ではないのです。心が不健全な親にとって、子供は自分の所有物であり、子供は親に(育ててもらった)借りがある、だから「○○してやったんだから、今度はあんたが※※しろ」と言ったり、或いは態度で示して憚りません。それを言われると、親子でなくても「後からそんなことを言うくらいなら、最初からやってくれるな」になるでしょう。親の愛のなさに子供は非常に傷つき、葛藤しますが、自由でないのは親の方なのです。
「自分さえ良ければ」の反対は「お陰様で」
さて、冒頭の「我が身可愛さと、自尊感情の『自分を大切にする』とは、どう違うのですか」の質問に立ち戻り、また頭の体操をしてみましょう。
「自分さえ良ければ」の反対は、他者の存在、他者の尽力に心を向けることです。日常の言葉にすれば「お陰様で」です。現代の生活は、私たちの身の回りにある物はほとんどが工業製品であり、そして余りにも便利になり過ぎて、その背景にある多くの人々の尽力を心に留めることがなくなっているかもしれません。
私の亡くなった伯母は、料理が得意な人で、よく小豆からあんこを炊いてお饅頭を作ったり、キャラメルを炊いたりしていました。私が小学生の頃、伯母の家にお手伝い(本当に手伝いになったかどうかはわかりませんが)をしに行くのが楽しみでした。
伯母が「『ご馳走様でした』は、多くの人が馳せ走ってできた食事に感謝をささげることなのよ」と教えてくれたのを、今でもよく覚えています。得難い教育だったと思います。
他にも「いただきます」「ありがとうございます」「お疲れ様でした」「よろしくお願い申し上げます」そして「お陰様で」、これらは全て、有形無形の他者の尽力に心を向ける態度です。
「お陰様で」を心から感じられている時、何があっても無くても、人間の三大悩みのお金、健康、人間関係のいずれかに問題があったとしても、その人は既に不幸ではありません。「お陰様で」があるからこそ、人はまた愛し返そうとします。
今の日本人にありがちな「自分が『どうするべきか』『何が大事か』を考えず、外側からの正解を求めて、言われた通り、皆がそうする通りにし、ただただ自分が非難されなければよい」は、「お陰様で」ではありません。
「利己主義者は根本的に愛することができない」という、フロムの指摘が理解できると思います。自分のことも、他人のことも愛せず、多忙と情報の洪水に押し流され、ただ憂さ晴らしをして人生の時間を潰してしまう。そして大人は、それを誰にも叱ってもらえません。自分が氣づくしかないのです。