「No」を言わない・言えない人生
「No」と言いなさい。貴方が「No」と言わないなら、「Yes」と言っても信じてもらえません。
アラン・コーエン「今日から人生が変わるスピリチュアル・レッスン」
心の中に大きな「Yes」があれば、「No」と言うのは簡単だ。
スティーブン・R・コヴィー「7つの習慣 最優先事項 『人生の選択』と時間の原則」
「No」を言うのが何故難しく感じるのでしょうか?あらかじめ「No」を言われることを望む人はいません。しかし出来ないなら出来ない、不参加なら不参加と早めにはっきり言ってくれた方が助かるものです。
何かをお断りする際は
お断りすることを残念に思う氣持ち「ご期待に沿えず申し訳ございません」「ごめんなさいね」
+お断りの根拠、理由「〇時締切の提出書類があるので、今すぐはお受けかねます」「明日が早いから、もうLINEは切り上げないと」
+場合によっては代替え案「〇時からなら手が空きますが、それ以降でも間に合いますか?」「また今度ね」
の3つを添えれば、まず失礼にはなりません。
このように丁寧に断られれば、ごく普通の心ある人なら「この人、しっかりしてるな」と却って信頼するでしょう。安易な安請け合いよりずっと誠実です。理由を添えて断っているのに、相手が不満を漏らしたら「話が伝わっていない」か、相手の自己中心性のためかです。
「No」を言うために大切なことは何か、そして何故「No」を言うのが難しく感じるのかを深掘りしていきます。
「No」は境界線・「Yes」は価値判断基準
「No」を言うこととは、境界線を引くことです。「良いものは内へ、悪いものは外へ」が境界線の役割です。悪いものに「No」を言わなければ、自分の領域の中にそれを受け入れてしまいます。
「Yes」は価値判断基準です。自分軸とも言われます。自分が何を良しと思い、何が価値あるものかを見極め、判断選択する基準です。
境界線と価値判断基準は車の両輪であり、コインの裏表の関係でもあります。
日常生活において「No」を言う場面に出くわす前に、何が「Yes」かを自分が決めなければ、当たり前ですが「No」は言えません。そのためにこそ、「私は大事にするべきことを大事にしているか」の不断の問いかけが、価値判断基準を磨きます。この問いは、他人が自分にしてくれません。
「何を大事にするのか」の問いは、言い換えれば「誰の何のためにそれをするのか(目的)」「今この瞬間、何を優先するのか(優先順位)」です。
私の百貨店勤務時代、バイヤーをしていた時のことです。しばしば売り場の販売員から「お客様が立て込んでいるので売り場のカウンター業務をして下さい」と事務所で仕事をしている私の社内PHSに電話が入りました。この時も、「自分の本来の目的は何か」「何を優先するべきか」を、電話がかかる前から、常に念頭に置いていないと反応的に売り場へ行ってしまいます。それらを明確にしておけばこそ「ごめん、もうちょっと耐えて。今の仕事が終わったら行くわ」などと「No」が言えます。
「正しい/正しくない」から「何が大事か」へ私たちの心が深く傷つくのは、大事なものやことを傷つけられた時です。「どうでもいい」とはある種の救いで、どうでもいいことには私たちは余り悩みません。価値観のない人はいません。しかし多[…]
子供の頃「No」を親に尊重されていたか
「No」を言いやすいか、中々言えないかは、子供の頃に親から「No」を尊重されていたかにも大きく左右されます。子供の頃は価値判断基準など考えられません。ただ「いや」を言うだけです。大事なのは以前の記事に書いた通り「同調しないからといって、捨てられることを恐れない」と幼い頃から感じ取れていたかです。
自分の人生に責任を持つという教育配偶者や自分の親、友人、職場の人達との境界線問題と、子供のそれとの決定的違いは、「子供の境界線は生まれた時は全くの0であり、親が健全な境界線を育てることを教え、援助し続ける責任がある」ことでしょう。[…]
危険だとか本当にやってはいけないとかではない範疇で、「No」を尊重される経験を子供の頃にどれだけ積んだかです。この経験の積み重ねが、「No」を言うことを恐れない人格を育てます。
もし大人の貴方が「親と違う意見を言うと、親は全力で否定する、或いは無視する」のなら、子供の頃は尚更そうだったでしょう。「同調しないと見捨てられる」と親から洗脳されたのなら、イエスマンになるよう調教されたのも同然です。それが引いては「だって誰それがそう言った」の責任転嫁になります。そしてこの「だって」をやっている間は自尊感情は高まりません。
子供の頃にされてしまった洗脳は、自分の責任ではありません。ただ「同調しなければ見捨てられる」という全く不要な恐れを克服するのは、どんなに理不尽でも大人の自分がやるしかありません。
「ルールだから正しい」「言われたから従う」の思考停止
また人は「『No』と言いたいのに言えない」ばかりではありません。自己決定は責任が伴います。責任という負荷を避けるがために「ルールだから正しい」「皆がそうしている」「言われたから従う」の思考停止をします。これらの中身を全く検証していません。それは自分の脳を、他の誰かや何かに自分から差し出し、乗っ取らせること以外の何物でもありません。
2020年から3年以上にわたって、日本人は真夏の炎天下でも、マスクをして出歩くという非科学極まりない不衛生なことをやってのけました。一億総自己虐待の極みです。2023年3月には、政府から改めて「個人の判断で」というアナウンスがあったにもかかわらずです。最初から「こんなものはおかしい」と抗った少数の人以外は、「自分が選んでマスクをしている」自覚などなかったでしょう。だからマスクを自分の手で外せないのです。「皆がしなくなったら」外すという人任せでは、独立自尊など夢のまた夢です。
これをやっていては、価値判断基準は決して育たず、裏返しの境界線も引けません。2020年の夏には「コロナは大したことはない」と大多数の日本人はわかっていた筈です。そうでなければ、観光地が満員御礼になることはありません。それなのに治験中のワクチンを全国民に莫大な税金で何度も打つという矛盾に、それこそ思考停止しました。結果8割の国民がワクチンを打ってしまいました。日本人の無思考が、2022年、2023年と超過死亡が20万人を超える国家の危機を引き起こしたと言っても過言ではありません。
判断選択は、脳の前の方、前頭連合野が担います。前頭連合野の完成は脳の中でも最も遅く、25歳頃と言われています。そして衰えるのは前頭連合野からです。即ち「使わなければ真っ先に衰える」箇所です。譬えやむを得ずであっても、大人は「何かと何かを天秤にかけて、自分がそれを選んでいる」。その自覚がなければ、永遠に「Yes」も「No」も言えません。
「『皆と同じ』にしておけば傷つかない」では「No」は言えない
ところで同調と協調は異なります。協調は文字通り、「一つの目的に向かって、皆が心と力を合わせること」です。協調は難しいですが、しかしまた「力を合わせる」ことは人間らしさの発露、喜びでもあります。
同調にはこうした難しさや、達成した喜びはありません。上記の項目と関連しますが、自己決定と自己責任からの逃避(「だってみんなが」)でもあります。同調とは群れることです。鰯や羊などの弱い個体は群れるように、人間も自我が弱いと群れたくなります。手っ取り早く、安心できた氣分になれるからでしょう。しかしそれをすると、また自我が弱くなる悪循環になります。「No」を言えるには自我が強くしなやかであることが求められます。
「皆と同じ」にしておきたい場合、「皆と違う」ことをすれば、何が起きるのを恐れているでしょうか・・・?
- 変に思われる。
- 悪口を言われる。
- 嫌われるのが怖い。
・・・そういったところではないでしょうか?
自分の「Yes」「No」をはっきり言うとは、万人からは好かれないということです。先の例で、私がバイヤーだった時に「ごめん」と断っても、皆が皆理解を示すとは限りません。不満を漏らす販売員がいても不思議ではありません。嫌われるのを覚悟しなければ、「No」は決して言えないのです。
では私たちは何によって嫌われるのでしょう?自分の人間性の未熟さゆえに、相手を怒らせてしまったなら「申し訳ありません。今後精進しますので、どうか長い目で見てやってください」とうなだれるしかありません。
しかし、自分の信念を相手が受け入れなかった時は「わかりました。あなたの言う通りにします」とは言えません。「あなたの望み通り、自分の仕事を後回しにして売り場に出ます」は、自分を失う迎合だからです。前者であれば反省し、後者であれば諦めるしかありません。こんなシンプルなことも、「傷つきたくない」が動機になると途端にできなくなります。
目先の「傷つかない」ことと引き換えに、「Yes」も「No」も言えなくなる。しかし少し長い目で見れば、最終的に自分が泣く思いをします。私の例で言えば、売り場の販売員に毎度毎度「いい顔」をしていれば、結局は私にしかできない仕事がなおざりになるのです。
仕事なら良くも悪くも「それなりに」回っていきます。しかし「だって同調圧力が」の言い訳をしてコロナワクチンに腕を差し出せば、それは取り返しのつかない結果になります。日本人は今度こそ、この教訓を肝に銘じるべきと私は強く思います。
自分を裏切ることに耐えられない高潔さと勇氣
吉野源三郎「君たちはどう生きるか」の初めの方で、主人公コぺル君が、北見君の態度に感銘を受けるシーンがあります。いじめられっ子の浦川君を、クラスのいじめっ子山口君が陥れてクラス中の笑い者にしました。
吉野源三郎「君たちはどう生きるか」「山口!卑怯だぞ。」
北見君は憤慨に堪えない様子で叫びました。
「弱い者いじめはよせ!」
そして北見君と山口君は、取っ組み合いのけんかになります。
机の間の狭いところに、山口は前のとおり仰向きに組み敷かれて、それでも憎々しそうに北見君をにらんでいました。北見君が上からおさえつけていることも、前のままでした。しかし、北見君の背中には、浦川君がだきついていました。
「北見君、いいんだよ。そんなにしないんでも、いいんだよ。」
浦川君は、そういいながら、まだなぐろうとする北見君を一生懸命とめているのでした。浦川君の声は、泣きださんばかりでした。
「ね、後生だ。もう、ゆるしてやっておくれよ。」
北見君は、山口君の卑怯ないじめに敢然と「No」を言っただけではありません。何よりも、傍観者のまま保身に走る自分を潔しとしなかったのです。
そして浦川君は、北見君が山口君をやっつけているのを見て「ざまあみろ、僕の代わりにもっとやってくれ」とは思いませんでした。やられっぱなしになっている山口君の姿が見るに堪えず、その心の痛みを裏切れずに「No」を言ったのです。
この二人の「No」に、それぞれ何を大事に生きているかが如実に現れています。その自分を裏切ることが何よりも耐えられない、彼らはそうした高潔な人格の持ち主でした。
勇氣は「少し怖い、面倒」と思うことに一歩を踏み出すことでも養えます。私たちにはその地道な努力が必要です。それ以上に北見君の口癖の「誰が何と言おうと」、その首尾一貫性、integrity、高潔さがあればこそなのです。