映画「関心領域」無関心という恐怖
2024年5月に映画「関心領域」が公開されました。第二次大戦下、アウシュビッツ収容所の隣で「幸せそうに」暮らす、収容所所長の一家の様子を描いたものです。
監督・脚本:ジョナサン・グレイザー 原作:マーティン・エイミス 撮影監督:ウカシュ・ジャル 音楽:ミカ・レヴィ 出演:…
アカデミー賞2部門受賞の話題作、映画「関心領域」を徹底解説!映し出されるのは、とある幸せな家族がおくる、穏やかな日常。し…
解説動画で町山智浩氏が言及しているように「想像力のない人には何も響かない」映画でしょう。
収容所内の残虐なシーンは一切ありません。邸宅の隣から、聞こえてくる銃声や悲鳴、壁の向こうの無数の煙突から立ち上る煙、所々に差し込まれるシーンから「隣で何が起きているか」を観客に想像させる、心理ホラーと言って良いでしょう。
所長は勿論、妻もその事実を知らないわけではありません。しかし「何事もなかったかのように」、美しい庭園と立派な屋敷で、子供たちと幸せそうに暮らし続けます。
そしてこれは、令和の日本人にも無関係なことではありません。
接種者は何故怒らないのか?
ところで、コロナワクチンの薬害で、怒っているのは元から反対していた非接種者が多いです。コロナワクチンで愛する家族を失った人、今も薬害に苦しんでいる人の中でも、はっきり反対の意思表明をしている人の方が、もしかすると少ないかもしれません。
薬剤師の橋本克彦氏が、facebookに大変示唆深い投稿をされていたので引用します。
<なぜ既接種者たちは怒らないのか> ~詐欺被害者の「沈黙の壁」の原因は「ヒトの脳の仕組み」にある~
国民の8割にもなる良心的なワクチン詐欺被害者たち、失ったものの大きさを知る情報が見聞きできる状況へと変化する中、「怒りの声をあげることすらできなくなっているのは何故でしょう?」
怒りの声を上げているのは非接種者ばかりです。
健康を損なって怒るべき多くの接種者がダンマリなのはなぜでしょうか?
「自分は打たないのに人には打つ医者」のように「他人事」なのはなぜでしょうか?
史上最大の薬害が発生している今、当事者である8割の接種者が怒りを表明しなければ、薬害はまた繰り返されるのみです。
こうした詐欺に遭った時の「脳の仕組み」を脳科学の専門家はこう分析しています。【詐欺になぜだまされる 脳の構造と対策、専門家が解説】
日本経済新聞誰でも年齢を重ねると記憶力が低下したり、素早い判断ができなくなってきたりするもの。脳の活動が低下しているのではないかと不…
なるほど。。情報過多にしておくわけですね。常連加害者たる「国」としては手慣れた手法なのでしょう。連日の雑多なニュースを次から次へと垂れ流すだけのメディアを見れば頷けますよね。。
その他。。
『喫煙者にニコチン・タールでドロドロになった肺の解剖写真を見せても、見てはいるけど脳が閉じてしまい、事態が理解できない』な~んて話もよく聞きます。。それも加味してまとめると
🔻「情報過多による情報選択不能」に加え「不幸情報の無意識廃棄(脳が閉じる)」という仮死状態にまんまと誘導されていることになります。
この危機を日本人が乗り越え、「怒るべきことに怒る」ためにはどのような脳の活性化が必要でしょうか。
脳のメモ帳は3、4枚しかない
日経の記事を一部引用します。
まず、脳の特性から考えると、高齢者であることを抜きにしても、「そもそも人の脳は、複数のことを同時並行処理できない」ということが前提となります。
人を人たらしめているのは脳の「前頭前野」という部分。知覚・言語・思考など知性をつかさどる部分です。
前頭前野は、脳の別の場所に格納されている記憶や情報を意識に上げてきて、何かのミッションがあるとそのたびあれこれ検討します。この機能があるからこそ、人類はどんな状況に置かれても柔軟に適応し、あらゆる環境下で生き抜いてきました。
このように優れた働きをする前頭前野ですが、ここはコンピューターのキャッシュメモリのように必要な情報を一時的に保存して情報処理をするところ。実は、その性能には限界があるのです。
前頭前野のメモリのことを「ワーキングメモリ」と言います。訳すると、作業記憶。ちょっと前にしていた作業を記憶し、再び必要になったときに取り出すというもの。私はこれを「脳のメモ帳」と呼んでいます。このメモ帳の枚数は、年齢とは関係なく、誰もが3~4枚しか持っていません。私たちは、「あれ」「これ」「それ」くらいしか同時に処理できないのです。
ですから、いくつもの情報をどんどん入れられ、その全部が重要だ、と言われてしまうと脳のメモ帳では処理が追いつかなくなるのが当たり前です。
日経新聞「詐欺になぜだまされる 脳の構造と対策、専門家が解説」下線は足立による
失恋や肉親との死別などの大きなストレスがかかると、「もうそれ以外のことは考えられない。仕事はミスをしないようにするので精一杯」になりがちです。これも「脳のメモ帳」を使い果たしている状態です。
前頭前野は、前頭連合野とも言われます。前頭連合野の完成は25歳~30歳頃、そして衰えるのは真っ先です。老化によっても衰えますが、筋肉と一緒で「使わなければ真っ先に衰える」箇所です。つまり前頭連合野を使って思考し、判断を下すのはしんどくて、面倒くさいのです。
脳がまだ未発達な子供が、何かにつけて「ねえ、○○していい?」「どうしたらいい?」と大人に訊いてくるのは、前頭連合野に負荷が掛かるからです。大人でもこれをやれば、即ち思考と責任を放棄すれば、いつまでたっても前頭連合野は発達しません。
ですから自我を成熟させるには、子供ならどちらに転んでも良いようなことは自分で決めさせます。大人も「だって誰それが」ではなく、「私はこう思う、こう考える、こう選択する」、そしてやってみてどうだったかの結果検証をし続けるのが基本になります。
コロナ騒動は、前後のつじつまを合わせて考えれば、こんな出鱈目な詐欺はないのですが、「脳のメモ帳は3、4枚しかない」ため、情報の洪水と多忙によって、少し前のことでも忘れてしまうのかもしれません。日本人が如何に結果検証を習慣化していないかの証拠でもあります。
小さな悪には目くじらを立てても巨悪には「脳が閉じる」
自分には無関係な、有名人のスキャンダルにはバッシングをしても、或いは日常の小さな悪には目くじらを立てて怒っても、政府による自国民の虐殺には「脳が閉じる」、これが今の日本で起きていることです。
誰かを責めて鬱憤晴らしはするけれど、真剣に悪に立ち向かうのは怖いし苦痛だから、最初から「ないこと」にする。人間はそうした臆病さ卑怯さを、自覚せずに抱えています。
葛藤耐性が弱ければ弱いほど、見たくない聞きたくない知りたくない事柄に、瞬時に「脳が閉じる」、これは誰にも避けられません。「それはうっかりすると誰にでも起きる。私も例外ではない」と率直に受け入れることが大切です。「あるがままの自分」とは、その自分から眼をそらさないことです。
葛藤耐性を高めるのは、「脳を閉ざして逃げる」自分にならないためでもあるのです。
自尊感情は無条件のもの自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感です。お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など条件で自分を肯定していると、その条件が消えたとたんになくなっ[…]
自我が未成熟だと「他者」が存在しない
しかしそれでもなお、コロナ詐欺に騙されなかったのは、脳のメモ帳に余裕があった暇人ばかりというわけではありません。
これはそもそも、自我の成熟度が関係しているでしょう。自我が未成熟だと「他者」が存在しません。生まれたばかりの赤ちゃんは、「自分しかいない」状態です。「こんな夜中に泣いたら、お母さんを起こしてしまうから可哀そうだ。朝まで我慢しよう」などと考えません。
女子高生の会話が「自分が話したいことをしゃべりっぱなし。誰も相手の話を聞いてない」になりがちなのも、他者がまだ存在していないためです。
「人からどう思われるか、過剰に氣になる」のも、実は赤ちゃんと同じく他者を認識できていないからです。「皆忙しく、私のことなど眼中にはない」現実の他者の存在を認識できて初めて、「人からどう思われるか」にビクビクすることはなくなります。他人が「誰もアンタのことなんか氣にしちゃいないって」と言葉で説得しても、「他者がいない」段階では受け入れられません。
自意識過剰という言葉がありますが、平たく言えば自分のことで頭が一杯になって、現実の他人の様相を認識できない状態のことです。この状態では、誰かに恋心を抱いたとしても、「あの人は私のことが好きかしら」ばかり氣になってしまいます。相手のことなど本当のところは見ていません。相手の人となりに関心があるのではなく、「あの人に好かれている私」が欲しくて躍起になっている、つまり自分しかいない状態です。
発達過程にある若いうちは、誰しも自意識過剰になりがちで、「他者が存在しない」でも仕方がありません。これは全員が通る道です。しかし成人後もそのままだと、「他人の痛みを思いやれない」「言われたことだけこなしていれば、義務と責任を果たしたつもりになる」大人になってしまいます。
コロナ騒動の初期の段階で、出鱈目さ加減がわかったのは、「過剰な感染対策のために窮地に立たされた人」のことを我が事のように感じ取れたからです。「こんなことはおかしい、あってはならない」と。そしてこれも重要ですが、自力で調べ抜いた人達でした。
思いやり、礼節、けじめ、感謝、道徳心、正義感、責任感などは皆、他者の存在をどれくらい深く心に留めているかの現れです。
「言われた通りにマスクして、ワクチンを打ったのだから、ワクチンで死んだり障害を負った人のことは、私のせいじゃない。私には関係ない」「何で私にそんなことを言ってくるんだ」・・他者が存在しなければ、接種開始後の超過死亡が40万人とも60万人とも言われようと、永遠の無関心です。しかしそれは、本当に責任ある大人の態度と言えるでしょうか・・・?そのような人を、心から信頼できるでしょうか・・・?
「脳が閉じる」無関心を乗り越えるために
冒頭の「関心領域」の夫婦は、平和な時代であればごく平凡な市民として一生を過ごしたでしょう。彼らが特別に冷酷ではないところが、この映画の恐ろしさです。
橋本克彦氏の最後の問い、「この危機を日本人が乗り越え、『怒るべきことに怒る』ためにはどのような脳の活性化が必要でしょうか」ここまで読まれた皆さまは、どのようにお考えになるでしょうか。
私は、やはり良心を磨くこと、大人は自分の生活だけでなく、次世代への責任を自覚すること、そして「他者の存在」を自分がどれだけ認識できているか、平たく言えば「他人の痛みを自分のように感じられるか」が問われていると思います。そのことと「闇雲に同情して巻き込まれる」のは異なります。
他者が存在しない、ナルシストは他人を「利用価値があるか/脅威か」でしか捉えない、と言われています。他人は自分の延長でしかないならさもありなんです。ごく普通の「ちゃんとした人」に見えても、ちょっと面倒なことが起きると手のひらを返して逃げてしまう、誰しもそうした人に多かれ少なかれ出会っているでしょう。ナルシストは、本当のところは人を思いやれません。
他人を「利用価値があるかどうか」の損得勘定で推し量ること自体、浅ましく、情けないことです。
良心に基づいた信念に沿って、真剣に生きる。その時既に「利用価値があるかどうか」の打算は両立しません。「この世に他人事はない」は、こうした生き方の結果の境地として得られるものでしょう。
「こうしたことは誰の身にも起きてはならない」その怒りは、適切に意思表示しなければなりません。それをしなければ、私たちは次世代への責任を果たせません。日本という国を子孫に残せず、私たち大人自身の手で滅ぼしてしまうのです。