責任が重い立場の人のお給料は「決断代」
或る程度の年数を組織で働いていれば、いわゆる「偉い人」は立場が偉いのであって、能力や、まして人格とは大して関係がないと知っていきます。自分の年収より5倍多い人が、自分よりも5倍能力や人格が優れているわけではありません。
責任が重い立場の人のお給料代は、決断代です。二言目には「良きにはからえ」「そうしておけ」の部長を、「まあ、好きにさせてくれるのはいいんだけどね・・」とは思いながらも、信頼も尊敬もやはりできないものでしょう。それは、部長の仕事をやっていないことに、釈然としていないからです。
それ程人は、自分が決断するのが怖いのです。
例えば、自分を含めた数人の人が密室に閉じ込められ、時限爆弾が仕掛けられたとします。その時限爆弾には、赤いボタンと青いボタンがあり、どちらかを押せば時限爆弾は止まります。チャンスは一回だけです。こうしたシチュエーションで、「私が押します!」と進んで言えるでしょうか・・・?
誰が選んでも二分の一の確率です。「誰がどちらを選んでも、恨みっこなし」とは思っても、だからと言ってその役を自分が買って出るのは怖い、誰かがどちらのボタンでもいいから押してほしい、それがごく普通の人間でしょう。
結果の可否だけに左右されると、永遠に「赤いボタンを押すか、青いボタンを押すか」を決める覚悟は決まりません。やってみないとわからないからです。そして私たちの日常も、ほとんどが「やってみないとわからない」のです。
上記の例のような、切羽詰まったことは滅多に起きないので、余り意識していないだけです。
何を恐れているのかを掘り下げる
人間の感情は、ただ「怖い」「嫌だ」とだけ湧き上がってきます。目的語が抜けているか、せいぜい「テストが怖い」「あの上司が嫌」などの漠然とした対象になっています。「テストのどこが怖いのか」「あの上司に何をされたら嫌なのか」と具体的に掘り下げて考えることを、人は中々していないのです。
ですので、「何を恐れているのか」の目的語を補う質問を自分にして、具体的に掘り下げて考えます。
「その結果に責任を負えるか?」
結果の可否に意識が向いていると、中々決断できないと冒頭で書きました。
結果が否である場合、スポーツの試合のように「必ずどちらかのチームは負ける。また百戦百勝はあり得ない」、もしくは新商品の開発のように「全てがヒットすることはあり得ない」であれば、負けたり、ヒットしなかったりの否は、「起きて当然」のことになります。これは「程度の問題」と受け入れて行かないと、誰も何もできません。
一方で否の結果が「取り返しのつかないこと」「自分や周囲の人を著しく傷つけること」であれば、引き下がる方の覚悟が要ります。例えば確実な避妊をしない交際相手とは縁を切る、といったことです。
望まぬ妊娠をした際、その交際相手と結婚する意志があるのか、もし相手が逃げた時に「未婚の母」になっても子供を産み育てる覚悟があるのか、そうした覚悟の有無を自分に問わずに、流されてしまうと、癒えがたい心の傷を負うのは必ず女性です。
目先の快楽だけを優先する男性は、その女性を愛していません。「彼は自分を愛していない」その事実を受け入れられず、「愛されていると思いたい」幻想に、自分が屈してしまうとしっぺ返しを食らいます。
「その結果に自分は責任を負えるか?」を自問した上で、流されずに引き下がるのも、覚悟の決め方の一つです。
「思う結果にならなかったら自分がかっこ悪い。非難されたくない。傷つきたくない」
否の結果はいずれにしても避けられない場合の方が、日常の中では多いでしょう。スポーツの試合や、新商品の発売だけでなく、「相手にとって耳の痛いことを言う」などもそうです。
相手は理解しないかもしれない。自分の悪口を後で言いふらすかもしれない。それでもこれが大事だと思えばこそ伝えようとします。一回でわからないようなら、二回目は伝え方を変えて言ってみる、それでも聞く耳を持っていないようなら、上記の「引き下がる覚悟」を持って引き下がることも、場合によっては必要でしょう。
しかし、自分が悪者になりたくない、揉めるのが面倒だから何も言わない事なかれ主義は、自分の保身です。
冒頭の「良きにはからえ」部長も、自分で考えて責任を負うことから逃げたい、その卑怯さを部下は否が応でも感じ取ります。その時は自分は楽をしているようでも、簡単に回復できない信頼を失っています。
見出しのように「思う結果にならなかったら自分がかっこ悪い。非難されたくない。傷つきたくない」は、結局のところナルシシズムです。ナルシシズムが砕かれず、増長してしまうと、責任を負うことから逃げようとします。結果、決断できない、覚悟を決められないのです。
承認欲求は誰にでもあり、消えるものではありません。だからこそ、「認められれば名誉に思う。励みになる」のおまけ程度にしておく必要があります。承認欲求を満たすことが目的になると、ナルシシズムは増長し肥大化する一方です。
また不安の耐性が弱いと、手っ取り早く安心できそうな物事に飛びついてしまいます。安心・安全を求めるのは動物の本能であればこそ、なくすことはできません。ですから安心・安全は尤もなことのようで、非常に曲者です。決断という痛みを避け、手っ取り早い偽の安心に飛びつくと、そのツケは後から回ってきます。
不安を消すのではなく、耐性を高める不安を感じやすい人ほど、「不安を感じたくない、不安を消したい」と望みがちです。もっともな心情ではありますが、現実には不可能です。何故なら、不安は恐れから生じ、恐れは私たち人間が生き延びるた[…]
「選手と共に優勝する喜び、そして負ける悔しさを味わいたい」王貞治
では、結果の可否に左右されずに決断ができるとは、どのようなことでしょうか・・・?
かつて王貞治さんが、胃がんの手術から復帰した直後の記者会見で「選手と共に優勝する喜び、そして負ける悔しさを味わいたい」と仰っていました。
アマチュアスポーツなら「負けても勉強になるよ」で済ませられますが、プロはそうではありません。成績が悪ければ監督は引責辞任させられます。
しかし王さんにとっては「勝つことだけが欲しい、負けるのは嫌、欲しくない」ではありませんでした。負ける悔しさ、その恐怖、重圧、それも込みで「野球は素晴らしいのだ」と仰っていたのだと思います。
自分にとって都合の良いことだけが欲しい、都合の悪いことは欲しくない、私たち凡人はえてしてそう思いがちです。しかし誰かが「私にとっての都合の良いあなただけが欲しい」と言ってきたとして、その人が自分を愛していると思えるでしょうか・・・?
勿論、こちらが限界設定をして、それを超えた要求はきちんと断らなければなりません。誰にでも、何でもいい顔をするのはただの迎合です。自分にも相手にも不誠実です。
王貞治さんは、日本の野球史に残る偉業を、選手時代も監督時代も成し遂げました。それにはご本人の才能・資質、並々ならぬ努力、周囲の協力、そして運もあったでしょう。人はこれらの要素が成功、即ち可の結果のために必要だと考えます。
しかしそれらの要素だけでは足りないと、王さんの言葉は示しています。
野球そのものに人格があると仮定して、「勝ちだけが欲しい。負けるのはみっともない、欲しくない、いらない」人のところに、どんなに才能があり、努力を積んだ人であったとしても、「野球さん」が近寄ろうとするでしょうか・・・?
負ける悔しさ、それも込みでの野球の素晴らしさだと、王さんがそれを生きていればこそ、野球が王さんに近づいて来たのです。結果の可否を超えたところに意識が向く、その境地にならないと、本当の偉業は達成できないのでしょう。
潜在意識の世界では「ゴールが自分に近づいて来る」潜在意識の世界は、顕在意識、つまり私たちが通常頭で考える世界とはひっくり返っています。どういうことかと言うと<顕在意識> <潜在意識>悲しいから泣く→泣くか[…]
恐怖と欲望に反応的にならない胆力と思考
人は自分が思っている以上に浅ましく、思い上がっているものです。「可の結果だけが欲しい」図々しさが、最初からない人はいません。いたとしたら、そもそも人生を投げている人です。そしてこの図々しさが全く消えてなくなることもないのでしょう。それがごく普通の人間の様相です。
「可の結果だけが欲しい。否の結果は欲しくない」は、恐怖と欲望に振り回されている状態です。この状態だと、結果が否になった、即ち失敗した時や何かを断られた時に、ただ自分や相手を責めることに終始してしまいます。
好きな異性に告白して振られた、その時相手に腹いせをするようでは、振った側にすれば「そんな人、振って良かった」になります。本当に好きな相手なら、ショックを受け、未練が残るのも当然です。しかしいつまでもただ自分を哀れむのも、腹いせするのとそう変わりません。怒りの向け先が相手か自分かの違いだけです。それは未熟で誤った態度だと、皆心のどこかでわかっています。
覚悟を決めるとは、腹を決める、腹を据えるとも言い換えられます。即ち胆力です。
そして上述したように「自分は何を恐れているのか」は思考、つまり頭です。
心で何を感じているか、何も感じなければ、何も始まりません。しかし心、即ち感情だけに振り回されると、感情的、つまり反応的になります。欲望と恐怖に振り回されっぱなしになります。
王貞治さんのような境地に達することは、たやすくはありません。しかし、感情「的」にならず、感情を否定せず、大切にしながら受け止め、その上で腹を据え、頭で考える。これは誰かにできて誰かにはできないことではありません。そして少なくともそう心がけるのは、誰でも、今日、今から始められます。
王さんも、私たちも、やっていること、やろうとしていることは同じなのです。