かまい過ぎる親の「見捨てられ不安」と「しがみつき願望」

子供への過干渉がやめられない親

「親の無関心」に悩んでいる人が多い一方で、親の過干渉、かまい過ぎに苦しむ人も少なくありません。

「親はいつまでたっても子供が心配なんだ」と言われると、いい子で育ってきた人ほど罪悪感を感じ、親から離れることが難しくなるかもしれません。しかし、エーリッヒ・フロムが言うように「愛は自由の子」であり、「支配の子」ではありません。

山本鈴美香の「エースをねらえ!」の中で、主人公岡ひろみに恋心を抱く藤堂貴之に、宗方コーチは「男なら 女の成長を妨げるような愛し方はするな!」と釘を刺します。これは男女間に限りません。その人の成長を妨げるようなら、迎合や媚びへつらい、事なかれ主義に逃げることも含めて、それは愛ではないのです。

親のかまい過ぎは、子供である自分が窒息しそうになります。その時点で、「自分の成長が妨げられている」即ち愛ではないのですが、罪悪感で操作されることが常態化していると、それすらわからなくなってしまいます。

「干渉をやめぬ母」のタイプ

このタイプの有毒な行為のひとつが、「手助けしてくれる」姿を装ったいらぬ干渉だ。こういう親は、放っておくことができる時点でも自分が必要とされる状況を自ら作り出し、すでに大人になっている子供の人生にすら侵入してくる。この干渉は「善意」という外見とひとかたまりになっているため始末が悪い。

(略)

そのような親を持った子供は、逆らえば「手助けしようとしている優しい親」または「可哀相な親」を傷つけることになるという無言の脅迫に耐えかね、爆発しそうな自分を抱えたままノイローゼ寸前になっている。

スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」下線は足立による

子供は基本的に親が好きで、親に幸せでいてほしいと望むものです。ですから親が悲しそうな顔をすると「僕が、私が悪かったのかな」と氣持ちの優しいお利口さんほど、自分を責めてしまいます。子供は事実を客観視し、整理する思考など持ち合わせません。罪悪感と良心の呵責の区別がつかないのが当たり前です。

しかし大人になってからは、「これは本当に私が反省するべきことか、罪悪感で操作されていることか」の区別をつけられるようになることが肝要です。結果予測の習慣をつけると、「罪悪感で操作されることは、その場しのぎに過ぎず、納得できないモヤモヤが残る。相手に味を占めさせるだけ」と判断しやすくなるでしょう。良心の呵責から選択した場合は、結果はどうあれ「自分の良心に忠実だった」と納得できます。また「相手に味を占めさせる」ことにはなりません。

要は罪悪感による操作は「相手を都合よく利用する」ことに他なりません。そしてそれは勿論愛ではありません。

単なる心配性と依存心から来る不安の違い

心が健全な親でも、「いくつになっても親子は親子。我が子のことが氣にかかるもの」です。また日本人は他の民族と比べて、格段に不安遺伝子が多いので、心配性の人が多いです。日本人の真面目さは、不安遺伝子のためでもあるでしょう。

かく言う私も結構な心配性で、ちょっとしたトラブル、例えばプリンターのインクの目詰まりが起きたりすると、直るまでハラハラします。海外旅行の際には、現地の治安と衛生面をかなり詳しく調べ、色々と用意します。ですが、その事柄が終わってしまえば、心配する氣持ちはなくなります。

単なる心配性と、親のかまい過ぎの不安の違いは、依存心、裏を返せば自立心の有無です。心配性は、上記の海外旅行の例のように「前もってよく調べる」慎重さに生かしたり、誰もがわかっていて中々やらない「準備・予防」の原動力にすれば有用なものになります。心配性の全てが悪いわけではありません。客観性を失って「どうしよう、どうしよう」と言ってばかりで、適切な行動に移せなかったり、頭がそれで一杯になって、もっと大事なことを疎かにするのが良くないのです。

かまい過ぎの親は、主に幼少期、その親からの分離自立を果たせないまま、親になってしまった人達です。彼らの心理の奥底には「見捨てられ不安」と「しがみつき願望」があり、「心配な事柄がなくなれば安心できる」性質のものではありません。これが上記のような心配性とは大きく違う点です。

「見捨てられ不安」や「しがみつき願望」に駆り立てられ続けると、最も支配しやすい子供に絡みつき、しがみつくのをやめられなくなります。これがかまい過ぎ、過干渉の実態です。

「子供を理解したい」のか「子供の理解者になりたい」のか

また親に限りませんが、自我が未成熟だと、「ほれぼれとする自分でなければ愛せない。認められない」「ほれぼれとする私を自分が見たい」ナルシシズムが肥大化してしまいます。「私が、私が」の目立ちたがり屋に好感を持てないのも、人は皆、ナルシシズムが肥大化することは良くないと心の奥底で知っている証拠です。そして上記の「見捨てられ不安」「しがみつき願望」が、ナルシシズムと結びつきやすいのです。

見出しの「子供を理解したい」と、「子供の理解者になりたい」の違いを感じ取って頂ければと思います。恋愛に置き換えれば「あなたを愛したい」か「あなたの恋人になりたい」かの違いです。自分なら、どちらの言葉を言われたいかです。「小説を書いていない小説家を名乗っている人」とも言い換えられるでしょう。

「理解したい」は、能動的な行為です。責任と試行錯誤が伴います。誰かを理解するのは終わりのない努力が必要で、「理解しようと努めたけれど、本当のところは中々わからなかった」自分の限界に向き合う謙虚さがあればこそです。そしてそこに見返りを求める氣持ちはありません。

「理解者になりたい」は、「理解者だと自分が思いたい。相手にもそう思ってほしい」という、ともすると自分の都合になりかねません。「本当に理解できているだろうか」の葛藤を伴った自問自答はないでしょう。自分が「理解者だ」と思いさえすれば事足ります。これはナルシシズムであって、相手を見ていない態度です。

「あなたのことをこんなに心配してるのに!」も同じです。「真剣に止めなければならない」ことも世の中にはあります。しかし「自分が必要とされる状況を自ら作り出す」のは、ただのエゴです。「理解者である私、心配している私を、子供であるお前は必要としていろ」この言外のメッセージが、子供の心に重苦しさを生じさせ、自尊心を傷つけます。どんなに頑張ってもどこか自分に自信が持てなかったり、或いは最初から「どうせ」で努力を放棄してしまいかねません。

この偽善的な態度を見破れるためには、何よりも自分自身が「理解したい」「愛したい」を生きている必要があります。

愛とは「駆り立てられて」動かされるものではない

エーリッヒ・フロムは「愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない」としています。愛と感情の好悪とは必ずしも一致しません。「好きな人は愛しやすい」ですが、「嫌いな人には『それ以上関わらない。退く』」ことで、その時の自分の愛を示すことも出来ます。思い通りにならない相手を勝手に恨み続けるより、「手放して忘れる」方がお互いのためでもあります。

たとえば、つよい不安と孤独感にさいなまれて休みなく仕事に駆り立てられる人もいれば、野心や金銭欲から仕事に没頭する人もいる。どちらの人も情熱の奴隷になっており、彼の活動は、能動的に見えてじつは「受動的」である。自分の意志ではなく、駆り立てられているのだから。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」

自分の不安に駆り立てられて、子供にかまい過ぎるのは、フロムの言に沿えば情熱の奴隷になっている状態です。子供を支配しつつ、自分もまた不安に支配されています。そこには自由はありません。自由がないとは愛がないということです。

不安と孤独感は、自覚の有無に関わらず、生きている限り私たちについて廻ります。道を歩く時も、どうかすれば自転車に乗っている時も、片時もスマホから目を離せないのも「駆り立てられて」います。それによって束の間、不安と孤独感から逃れられた氣分になっています。その人達は善意の人ではあるでしょう。しかしその時点で、愛を遂行してるとは言えないのです。愛を遂行するためには「余計なことをしない」集中力を養う必要があります。

また義憤は大事ですが、不安や怒りに駆り立てられて叫んでしまうと、その内容がどんなに正しかったとしても、相手には「自分の不安や怒りを解消したい」動機の方が伝わってしまいます。

つまりそれくらい、愛を動機に生きることは難しいのです。

私たち凡人は、まず「私は愛を動機に生きてます!」と自分に対して思わないところから始める必要があるのでしょう。人間はそれ程恐怖と欲望に弱く、孤独を恐れます。しかし愛の遂行の難しさを自覚するかしないかは、大きな違いを生みます。「あるがままの自分」とは「愛の遂行の難しさ」を自覚しつつ、自分を投げ出さない生き方のことです。

親の「見捨てられ不安」「しがみつき願望」の尻拭いを自分がやらない

ところで、親が幼少期に「見捨てられ不安」「しがみつき願望」をその親から植え付けられ、囚われ続けているのは大変氣の毒なことです。彼らの幼少期に起きたことは、彼らの責任ではありません。ただ一定の理解や同情をしたとしても、それは親自身が向き合い、乗り越えて行かなければならない課題です。

上述した通り、私たちは誰しも、不安や孤独、迷いなどの葛藤を抱えます。葛藤がなければ、私たちは自分を押し広げることはありません。「このままでいいや」の現状維持になり、何の成長もしなくなります。

葛藤は不快な反応です。この不快を、自分を押し広げ成長させる原動力にせず、誰かに尻拭いを押し付けようとすると、人間関係のトラブルの元になります。無関心もかまい過ぎも、文句は言うけれど「誰かが何とかしてくれる。やるのは私ではない」の無責任な依存も、根っこにあるのは「自分の葛藤の尻拭いの押し付け」です。

ですから、親が自分の「見捨てられ不安」「しがみつき願望」の尻拭いを、子供であるあなたに押し付けてきたとしても、それを受け入れてはいけないのです。受け入れてしまえば、親の「誰かが何とかしてくれる。やるのは私ではない」の卑怯さを、子供であるあなたが容認してしまうからです。

具体的に何をどのようにすれば良いのかは、それぞれ置かれた状況によって異なります。大雑把な原理原則としては、

  1. まず状況をよく観察し、整理する。
  2. 自分の状況や状態に応じた限界設定をする。
  3. いきなり親に「No」を言うのが難しければ、日常のやりやすそうなところ(例えばセールスを断るなど)から、「No」を言える練習をする。

になります。

但し、これらの取り組みは当たり前のことのようでも、自分自身の動機がぶれてしまうと、親から罪悪感を刺激されて、できなくなってしまいます。

自分も相手も成長してこその愛の遂行です。我が子になら「譬え泣く思いをさせてでも」ができても、親には恐れがあるためできなくなることもあるでしょう。あなたの親は、もしかするとあなたを愛さなかったかもしれません。しかし「成長を妨げる愛し方をしない」ことを、あなた自身に対してやりぬくことはできるのです。

Amazonのリンクはこちら

Amazonのリンクはこちら

【音声版・自尊感情を高める習慣・6回コース】

1回約20分、6回コースの音声教材です。

第1回 自尊感情とは何か。何故大事か
第2回 全ての感情を受け止め、否定しないことの重要性
第3回 「何が嫌だったか」を自分に質問する。目的語を補う
第4回 期待通りに成らない現実を受け入れざるを得ない時
第5回 小さな一歩を踏み出す・最低限のラインを決める
第6回 人生が変わるのは知識ではなく氣づき

第1回目は無料で提供しています。まず一週間、毎日聴き、ワークに取り組んでみて下さい。その後更に日常の中で実践してみたくなったら、6回分の音声教材(税込5500円)をご購入下さい。

🔗第1回・要約・氣づきメモ

6回分ご購入をご希望の方は、以下のフォームよりお申し込み下さい。

    弊社よりメールにて、振込先口座をご連絡します。振込み手数料はお客様負担になります。入金確認後、6回分の音声教材とPDFが表示される限定公開のURLとパスワードをメールにてお送りします。

    NO IMAGE

    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。