「何が何でも・・・!」は短時間なら「火事場の馬鹿力」に
執着を手放しましょう、執着しなくなると望みが叶います、と聞いたことがあるかもしれません。執着とは「何が何でも・・・!」という心の状態です。
「何が何でも・・・!」は非常に短い時間なら、威力を発揮します。例えば、マラソンでのラストスパートは「何が何でも・・・!」の気持ちを強く持たないとできません。スポーツだけでなく、例えば津波などの危険から逃げる際などは、「何が何でも生き延びる・・・!」という強い気持ちが必要です。
ただこうした「何が何でも・・・!」は長続きしなくて当然です。一時にストレスを掛けて、ある種の「火事場の馬鹿力」を発揮させるものだからです。ずっと「火事場の馬鹿力」をやっていてはショートしてしまいます。
「こうならなければ怖い」執着の中身をまず掘り下げる
通常の場合、執着は不安の裏返しです。「こうならなければ怖い」から何としてでもそれを避けなくては、という心の現れです。「もし~だったらどうしよう」のWhat ifクエスチョンの答えが「何が何でも〇〇しなくては」になります。
こうした執着は自分を疲弊させ、良い結果を生みません。まずその不安の中身を自分に質問し、掘り下げます。
不安にはいくつか種類があって、不安がる方が上手くいかないもの、不安に感じて当然だけれど、自分だけの力ではどうにもならないもの、前向きな努力に転じることができるものなどがあり、それがまた入り混じっています。
例えば恋人から別れを切り出された時に「はい、そうですか」とあっさり別れられる人はそうそういません。未練、執着が出て当然です。何の未練も感じていないのであれば、本音は「自分もそろそろ別れたかった。向こうから言ってくれて渡りに船だった」のかもしれません。
人は「信頼し、親しくしていた人と関係が切れるのを辛く感じる」ものです。その存在がなくなると、心にぽっかりと穴が開いたように感じて、それが耐えがたいがために未練が生じます。喪失感は喪失感として、否定しないことが重要です。真剣に人と関わればこそ感じざるを得ない感情で、それがない人生もまた歪だからです。
ただその喪失感が執着になると、自分で自分を苦しめてしまいます。その恋人の存在がなければ、何を恐れているのかを自分に質問します。
《例》
「彼(彼女)以上の存在はもう現れないかもしれない」
「今の自分の年齢では、もう交際相手など現れず、結婚できないかもしれない」
⇒そう思うのは無理からぬことですが、「本当にそうか?」と自分に質問してみます。また結婚しなくても、充実した人生は生きられます。この場合、「結婚できない=人生の落後者」のような思い込みがないかどうかも自分に訊いてみます。
「彼(彼女)に振られた自分がみっともなくて、受け入れられない」
⇒これは相手への愛情でも何でもなく、自分の面子、虚栄心に自分で首を締められています。もし別れの際に、相手が貴方の自尊心を尊重せず、踏みにじるような言動を取っていたなら、それに対する怒りは当然です。それと「振られた自分がみっともない」は別物です。
「こんなに頑張ってきたのに、報われなかったのを認めるのが辛い」
⇒頑張り屋ほど陥りやすい「サンクコスト」の心理が働いています。いわゆる損切りは本能が抵抗するので、誰にとっても難しいです。この場合「これ以上頑張り続けて、良い結果が出るか?」の結果予測の質問をしてみます。そしてまた、相手は貴方の頑張りに報いることができない、もしかすると「してもらって当然」「相手に尽くされて虚栄心を満足させたい」人だったかもしれない、そうした寧ろ解消した方が良いご縁であったことも、辛くはあっても受け入れていくしかないでしょう。
このように、失恋時の未練一つとっても、様々な執着や思い込みがあり、それが絡みついています。余程相手に飽きていた、うんざりしていたでもない限り、上手に気持ちの整理をしておかないと、交際していた期間より、未練と執着が断ち切れない期間の方が長くなりかねません。
よく「執着を断ち切れ」などと言われますが、こうした具体的な深掘りを一つ一つやっていかないと、執着だけを断ち切るのは無理です。また「失恋の痛みを忘れるのには新たな恋愛をすること」とも言われますが、これは「臭い物に蓋」をしているだけで、失恋の痛みをきっかけに自分自身と向き合ったことにはなりません。
大きな問題は不安をバネにしつつ「やるだけのことはやった」に
上記の例は、誰にでも人生の通過儀礼として起きる失恋に関してでした。失恋を経験した人なら「まあ、生きていればそんなことも起こるよね」と今は受け入れられているでしょう。
「こうでなければ怖い」の不安には、個人的なものだけではなく、もっと大きな社会全体に関わることもあります。
この記事を書いているのは2023年6月ですが、昨今の政治社会情勢に関心がある人なら、岸田政権が亡国政策としか思えないことを次々と行っているので「あと10年後、日本という国は残っているだろうか」と不安になって当たり前です。
加えて、大多数の日本人の無関心さ、今でもマスクして出歩く人の方が多いことに「いい加減にしろ!」と内心憤り、「何とか目覚めてくれ!」とここでもまた執着が出るのも当然と言えば当然です。
執着とは「諦めきれない」ことです。
これら社会不安は、失恋と違って「もっと良い人が現れるよ」とか、「独身生活も結構楽しいよ」などのように割り切れません。「一体どうなるんだろう」という不安が、正義感・責任感の強い人ほど否が応でもつきまとい続けます。
この場合、不安や「諦めきれなさ」をバネにし続けるしかないでしょう。自分達の子孫にめちゃくちゃになった日本を残すわけにはいかない使命感があればこそです。
将来どうなるかは誰にもわかりません。国連やWEF(世界経済フォーラム)が画策しているアジェンダ2030通りに事は進んでしまうかもしれません。しかし「どうしよう、どうしよう。怖い、嫌だ」だけを言っているのも、また「無関心でいた方が楽だから」とばかりに最初から情報をシャットアウトし考えようとしないのも、いずれも幼児的で無責任な態度です。
「自分を超えたもの」に対する愛、責任感や使命感、しかし自分一人の力ではどうにもならない無力感、他人の意識を簡単には変えられない難しさ、これらもまた葛藤を生じさせます。他人の痛みに鈍感な共感性の低さ、葛藤耐性が低いからこそ視野を狭めて最初から「見ない、聞かない」無責任さは、楽かもしれませんがそれこそ「人としてどうなの?」です。
不安をバネにしつつ「私には小さなことしかできないけれど、自分にできることを探してやり続けた。『誰かが何とかしてくれる。やるのは私ではない』という、依存的な卑怯者ではなかった」と言いきれる、そうした日々の心がけが、不安はありつつ、自分の首を締めてしまう執着にはならない生き方になっていくでしょう。