人を動かそうとする時、言葉で説得しようとしても
恋愛、夫婦関係、子育て、社員の教育、商談、交渉等々、人は「相手を動かそうとして」言葉で説得しようとします。
自分の都合で相手を動かそうとすることもあれば、周囲のため、その人のためを思って、ということもあるでしょう。
具体的な行動レベルであれば、「ちゃんと言葉で説明してくれないとわからない」こともたくさんあります。
新入社員に「お客様を大事に!」とだけ言っても、どうしていいかわかりません。お辞儀の仕方、電話の受け答え等、具体的な立ち居振る舞いを言葉で説明したり、実際にやって見せたりして伝える必要があります。
しかし、心のあり方、生き方は、言葉で説得できるものではありません。
誰かの影響を受けて、自分が変わった時は
私たちには「あの人との出会いがなければ今の私はない」「あの出会いの以前と以後で、自分の人生が変わった」そんな影響を人から受ける時があります。
「いや、私にはそんな経験はない!」と思う人もいるでしょう。しかし私たちは、良きにつけ悪しきにつけ、人からの影響を受けずにはいられません。
それを今は覚えていないだけです。
(もちろん「悪く」影響を受けることもあります。だからこそ、人付き合いは慎重に選ぶ必要があります)
誰かの影響を受けて、自分が変わった時、相手は言葉で貴方を説得しようとしたでしょうか・・・?
何気ない言葉や、或いは、情熱を込めた言葉に、心を動かされたかもしれません。親身になって「怒ってくれた」ことも、貴重な経験です。そういうことをやってくれる人は、特に今日、望んで出会えるものではありません。
いずれにしてもその時、相手は貴方に「こうしなさい、これを選びなさい」と無理強いしようとしたでしょうか・・・?
「立ってください」
心理系のワークショップなどで、「立ってください」のワークをすることがあります。
二人一組となって向かい合い、片方が椅子に腰かけ、もう片方は立っています。立っている方が「立ってください」とだけ言い、座っている方が立ちたくなったら立つ、といういたってシンプルなワークです。
実際にやってみるとよくわかりますが、この時、「立ってください」を言う方が、ほんの少しでも「立たせてやろう」「早く立ってよ!」などと思っていると、相手は立ちたくても立てません。
呼吸を合わせ、相手との一体感を感じ、立っても立たなくてもそれは問題ではないという、ある種の無の境地になると、相手は立たずにはいられなくなります。
「立ってください」と言葉で言わずに、黙って行うこともあります。それでも、座っている方が「立たずにはいられなくなる」ことが起こります。
このワークは、立っている方が、完全に相手の鏡になりきれるか、ということが問われます。相手の鏡になりきった瞬間に、座っている方が「鏡に映った立っている自分」に合わさずにはいられなくなるのです。
相手という鏡に自分の本心が映ると
操作ではなく変容が起こるとき、必ずこの「立ってください」が起きています。
山本鈴美香著「エースをねらえ!」の中で、こんなシーンがあります。
「エースをねらえ!」は物語が進むにつれ、主人公岡ひろみが自身を語る割合が減っていき、周囲の登場人物を通じ岡のあり方が浮き彫りになっていきます。
後半、宗方コーチの死後、宗方の親友で、僧侶の桂がコーチになります。そして、神谷裕介という高校生が登場します。
神谷の母は病弱のため、神谷が小学3年生の時に、夫をうわごとで呼びながら看取られずに急死しました。
母の死後も父親は多忙で、一人息子の神谷を顧みません。新たな母親を迎えますが、神谷は心を開くことが出来ません。
「いつ俺がそんな事を頼んだんだ!
もう母さんのことは忘れたのか!
あれほどの思いで死んでいったのに よくそんなことができるな誰がこんな見ず知らずの人を 母親だなんて呼ぶものか!」
また神谷はテニスの才能を持ちながら、テニス王国西高に進学しても、再三の誘いに関わらず入部しようとしません。
キャプテン・香月は、何度も言葉で神谷を説得しようとしましたが、反発されるだけで上手くいきませんでした。
ある日神谷は、桂の寺のテニスコートにいる岡をみつけます。
岡はたった一人でコートの周りの雨水を、雑巾一枚で拭っていました。
「この人は プールいっぱいの水でも 雑巾一枚で搾り取ってしまうかもしれない
どんなに周囲を偽っても 自分の心はだませない
濡れた地べたを雑巾で拭うような そんなことさえ夢中になれるあの人がうらやましい
そんなにもテニスに惚れているあの人がうらやましい
俺だってテニスがしたかったんだ!亡き母に甘え 父を恨み 継母を憎み
ただそれだけで過ぎてゆく時がむなしい!
惨めな人生がたまらない!!」
神谷はその足で桂の寺に飛び込み、自分にテニスを教えてくれと懇願します。
小さくても完全な丸の自分・無心ということ
テニスコートを雑巾で無心にぬぐっていた岡に、神谷は「本音の自分」を見たのでしょう。
岡がしぶしぶ嫌々やっていたなら、或いは「私はこんなに立派なことをしている」と思っていたら、神谷の心の殻は決して破れなかったでしょう。
岡が国際試合で華々しく活躍する姿が、神谷の鏡になったのではありません。
岡の無心の境地が、神谷の本心を映す鏡となりました。
岡はその時、神谷の存在に気がつきません。人は時として、自分でも気づかずに偉大なことを成し遂げます。
また作中、お蝶夫人の言葉に
「『わたしがやる』とか『わたしならできる』とか
いつも自我が表面に表れる者は頂点には登りきれない天才は無心なのです」
というものもあります。
別の例で、美輪明宏の「ヨイトマケの唄」で、いじめられて泣きながら家に帰ろうとした子供が、母親が全身全霊で家族のために肉体労働をしているのを見て、「学校に戻って、勉強しよう」と決意するシーンがあります。これも、母親が無心に働いていればこそ、「立ってください」が起こったのでしょう。
自分が相手を映す鏡になるには、曇りなく、欠けもない、十分な大きさの鏡になっている必要があります。
自分を欠けた鏡、欠けた丸だと思っていると、その欠けを埋めることに躍起になり、他人すら欠けを埋める道具にしてしまいます。わが子や配偶者を欠けを埋める道具になることも少なくありません。
評価・評判・結果をコントロールしたくてたまらなくなり、自ら振り回されてしまいます。
それでは、相手を映す鏡にはなれません。
どんなに小さくても、完全な丸だと思えているかどうかです。
小さいかもしれない、でも完全な丸と思えればこそ、無心になれます。
幼い子供たちは、自分を小さいけれど完全な丸だと思っているでしょう。だからこそ、大人とは比べ物にならない早さで、ぐんぐん成長します。はいはいや、たっち、よちよち歩きを「失敗したら恥ずかしい」などと思いません。
「こんなよちよちとしか歩けない自分は、不完全な欠けた丸だ」などと思わず、小さな小さな丸を大きくすることだけに夢中で生きています。
私たち大人は、子供たちの無心のあり方から、多くを学べます。
一方で、幼子のような無心を失い、言い訳することを覚えると、相手と言う鏡に映った自分を正視できなくなる、そのようなことも起こります。いじめをする人は、いじめても大丈夫な相手を選んでいます。一見大人しそうでも、芯の強い人はいじめられません。その芯の強い相手の鏡に映った、惨めな自分の姿を見るのが耐えられないから、自分から逃げ出すのです。
いじめだけでなく、恋愛でも「相手の鏡に映る自分の姿を正視できない」と、やがて破綻してしまいます。自尊感情が高い人は高い人同士、低い人は低い人同士で、天秤が釣り合うようになっています。
責任のある大人は、幼い子供のころとは違った、芯の強さを伴った無心のあり方に至ってようやく、相手を映す鏡になることができます。
そして、鏡に映った自分の本心に気づき、目をそらさなかった人は、どんなにつらい道が待っていようと、その本心通りに生きることから降りることは、もうできません。