舐められると「1+1=2」と言っても信じてもらえない
人間の悩みは、究極的には人間関係に尽きると言って良いかもしれません。
そしてまた人間の幸福は「もっともっと」の終わりのない足し算よりも、「自分の生活から省くものを見極める」引き算で考えた方が、実は早いです。人間関係も同じです。誰と付き合うかの裏返しの、誰と付き合わないかの引き算です。
人間関係の悩みは大抵の場合、「自分が相手とどこまで付き合うか」を決めていないと、ダラダラと続いてしまいます。すぐに決められない場合は、様子見をする猶予期間なり、「また同じことが起きたら距離を置く」なりの原則を決めることはできます。
殊に何とも嫌な思いが残るのは、自分を尊重されていない、言葉を換えれば舐められた時でしょう。一旦こちらのことを舐められると、「1+1=2」と言っても信じてもらえません。或いは表面上は愛想よく話を聴いてるようでも、実際のところは全く受け入れてもらえません。それはこちらのコミュニケーションスキルとは関係なく生じてしまいます。
相手が誰であろうと、人間関係は舐められたら終わり、そう考えても良いと思います。
「都合のいい子」ほど舐められる
ところで、いわゆるいい人とは、少々手厳しい言い方をすれば、それは親や教師など大人にとっての「都合のいい子」のまま、大人になってしまった人のことと言えるかもしれません。
「都合のいい子」とは、聞き分けが良く、生意氣を言わず、反抗せず、従順で、できれば学校の成績が良く、親の虚栄心を満たしてくれる、大人が思う「お利口さん」です。「こう振舞えば承認してもらえる」と信じ込んだ子供は、ひたすら従順な「都合のいい子」への道を健氣にも邁進してしまいます。
しかし、そうした「都合のいい子」は本当のところは自尊感情は低い傾向にあります。自尊感情とは自分の自由意志による選択と、結果責任を引き受けることの繰り返しによって育まれるからです。従順さは必ずしも美徳とは言い切れません。自分がどうしたいか、どうするのかから逃げるという、自己決定と自己責任からの逃避の隠れ蓑にも、時には充分なり得るからです。
このような従順な氣持ちの優しさ、そして毅然として意志を貫けない弱さに、ずるい人が付けこんでくる、要は舐められる。人間関係の不幸は表面上の形は違えど、これに尽きると言ってもいいかもしれません。
品位の高い人は相手が誰でも舐めてかかったりはしない
ところで、相手が誰であれ、人を舐めてかかるなど決してしない人も勿論います。それは「そのようなことをする自分に耐えられない」品位の高さから来ています。ですから、人によって態度を変えたりもしません。目下の相手に厳しい態度を取った時にも、そこには本当に相手のことを考えた氣持ちがこもっているものでしょう。
人に横柄な態度を取ったり、侮辱したり、口先だけで媚びへつらったり、そのような品位の低い自分でありながら、自分は人から舐められたくないのは矛盾しています。舐められたくないのなら、まず自分がそうした品位の高い人間になることを心に留め、人を自分より上か下かで判断しないことがあってこそではと思います。立場の上下は、あくまで仮初のものに過ぎません。
誰かから舐められた時、相手に付け入る隙を与えてしまった自分の問題もあるかもしれません。叙述した「都合のいい子」だと、悔しいことにやられ放題になりかねません。一方で、相手の品位と人間性の問題でもあります。悔しく、傷ついた思いもとても大切です。自尊感情が著しく低いと、舐められた時に悔しいとさえ感じられない、舐められてることに氣づけなくなってしまうのです。
舐められにくい人の特徴とは
無意識のうちに「舐めてかかれる相手」を探し回り、歪んだ支配欲を満たして、偽りの心の平安を得ている人は、自らそれを止めることは、まずないと言って良いでしょう。
そして上述したような、氣持ちの優しい自己犠牲を払いやすい人だけがターゲットになるわけでもありません。SNSを見ればよくわかりますが、政治家など、どう客観的に見ても「アンタが逆立ちしたってかなうわけないでしょ⁉」という相手に、わざわざ絡んでいく人も後を絶ちません。建設的な批判や抗議ならまだしも、「偉い人」に絡んで、馬鹿にできた氣分になって、「自分の方が偉いんだぞ」と思っておきたい幼稚さが現れています。
つまり、舐められにくくなる努力はできますが、最初から100%舐められないことは、人の世である以上やはり不可能です。万引きをされにくい店づくりはできても、この世から万引きが消えてなくなることは、やはりないのと相似形です。
私が考える、舐められにくい人の特徴を以下に列挙します。
- 言行一致。言ったことはやる。やりもしないことは最初から口にしない。
- 首尾一貫性。イソップ童話の「こうもり」のようなことはしない。どこかの国の首相のように、外遊先ではマスクを外し、帰国したらマスクをしているようでは、「1+1=2」と言っても聞いてもらえません。
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- 「だって」「どうせ」を言わない。この接頭語がつかなくても「同調圧力が」「世間が」「会社が」「誰それが」等を言っていたら同じです。
- 上記の裏返しで、自分の意見、主張に責任を持つ。間違っていたら潔く訂正し、必要なら謝罪する。
- おべんちゃらを見抜ける。共感を求めてもちやほやは求めない。
- 嫌われることを恐れない。Noを言うことに躊躇しない。
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ここまで読まれた皆さまご自身で、他にも発見されたことがあれば、是非大事にして頂ければと思います。
そしてこれらは、「誰かにできて、誰かにはできない」ものでは決してありません。
子供の頃いじめに遭って、強くなるために格闘技や武道を習った人もいます。その真髄は「自分の芯、軸を作り、ぶれないこと」のはずだったでしょう。「自分より強くて怖い相手だったら嫌だ」という相手の問題ではなく、自分の芯や軸の問題という考え方です。上に挙げたことと通じているかもしれません。
即ち、舐められにくい人とは武道の達人のような、肩ひじ張らず自然体でいながら、ぶれない自分を持っている人のことでもあるでしょう。
舐めてかかるとは「利用できるか/脅威か」で捉えること
上述した通り、相手が誰であっても舐めてかかったりは決してしない品位の高い人もいれば、相手を下に見るや否や舐めてかかる人もいます。後者の人たちは、人を「利用できるか/脅威か」という枠組みで捉えているので、「そんな人を舐めた態度は失礼だ」と説教したところで、残念ながら通じません。
「利用できるか/脅威か」とは、もっと言えば「獲物か/天敵か」です。人間だけが持つ良心は、人間の脳の進化の過程において、後付けで発達したものとされています。良心が元になった倫理や道徳は、人間社会が高度で複雑になった過程において、「適応のために必要に迫られて」生じ、発展したものです。即ち打算的ではない良心は、脳に「建て増し」されているのです。
しかし一方で、子供の頃から競争を強いられ、個人主義や拝金主義がはびこり、損得勘定抜きの良心は、今の日本では、悲しいことですが退化しているかもしれません。
良心が衰えれば、他人を「利用できるか/脅威か」「獲物か/天敵か」で捉えるようになるのも自然の成り行きなのでしょう。以前の記事の「『惚れさせる』ことが目的の人には近寄らない」も、根は同じです。
「この人、私のこと舐めてる?」と疑問に思ったら、他の人に対しても「利用できるか/脅威か」で人と接していないかを観察してみるのをお勧めします。利用できそうな相手にはおべんちゃらを言って取り入ったかと思うと、都合が悪くなれば、あっさりと手のひらを返したりしていないかどうかです。
「異性を自分に惚れさせる」だけが目的の人世の中には「ターゲットにした異性を自分に惚れさせる、氣を引く、好きにさせる」けれども責任のある関係づくりはしない人がまま存在します。男性が女性をのケースが多いですが、女性が男性を、もないわけ[…]
舐められたら終わり・関係性を終わらせる勇氣
実に単純な話ですが、舐めてかかる人は、「舐めても大丈夫」「舐めても相手から関係を切られることはない」と思っているから舐めてかかってきます。家族や部下など、遠慮が要らない対象は、その格好の相手です。情けないことに、子供や配偶者という「自分を見捨てない相手」だからこそ、舐めてかかることも往々にしてあります。本来なら最も愛情を注ぐべき相手なのにです。
裏から言えば、舐められるのが嫌ならば、相手に「舐めたら大丈夫ではない」「すぐに関係を切られる」と思わせればいいのです。自分を尊重されていないと感じたら、自分から関係性を終わらせる、立ち去る勇氣です。職場その他で関わらざるを得ない場合は、必要最低限の関わりにして距離を置いたり、そうもいかない場合は、毅然とした態度を取るなどです。
舐めてかかる人は寂しい人、その寂しさを歪んだ支配欲で埋め合わせたい人と、言って良いかもしれません。大人は自分の寂しさの埋め合わせに、他人を使ってはいけませんし、自分と相手のためにそれを許してもいけないのです。
アドバイスを貰っても行動に移さない人。
あるツイートより
アドバイスを貰っても行動に移さない人にアドバイスする人。
どちらも成功しないよ。
舐める/舐められるの文脈で、このツイートを理解することもできます。最初の文章は「相手を舐めてかかっている人」、後の文章は「舐められていることに氣づかない人」です。
個人であっても、肉親であっても、国家であっても、関係性は舐められたら終わりです。舐められた方が関係性を終わりにする勇氣を持たなければ、残念ながらいつまででも続いてしまいます。この勇氣も自尊感情の大きな一部なのだと思います。

