きれいごとに違和感を感じるのは
人は口では何とでも言えるものです。「愛が大事」「人を尊重する」「誠実に」等々。
しかし「愛」「尊重」「誠実」という言葉ではなく、それを口にする”人”に対して何か違和感を感じる、そんなことがあります。
その違和感は、相手がそれを生きていない、不一致感に反応しています。平たく言えば「あの人、口だけよね」です。
つまり、相手は「愛を大事にしている人」「人を尊重している人」「誠実に生きている人」ではなく、「それを生きていることに”しておきたい人”」である、これが違和感が訴えていることでしょう。
やたらと感謝アピールする人は、実際には大して感謝してはいないのと同様に。
SNSでやたら「感謝」をアピールする人への違和感facebookなどでのSNSで、投稿やコメントにやたら「感謝」「ありがとう」などの記述をする人がいます。コメントの最後に、内容に全く関係なくはんこのように毎回「感謝」と書いているのを見て[…]
しかし、後述しますが、それらを実践することは並大抵のことではなく、実践しようとした途端に、自分が如何に「愛から遠いか」を思い知らされます。
ですからそれを生きる人ほど、安易に口に出さない、と言うよりも、出せなくなります。
「自分を追い込むため」の有言実行は一つのやり方
有言実行、不言実行、どちらが優れているわけではありません。
有言実行の場合、自ら「後に引けないように自分を追い込むため」に、目標を公言する人もいます。これはこれで、覚悟のいることです。そして実際に行動に移して努力している姿を見れば、心ある人なら何も言わなくなるでしょう。
しかしこの場合、目標は「達成したかどうか、客観的な判断が下せるもの」でなければ意味はありません。
「愛」「尊重」「誠実」などは、価値観であって、それを達成したかの客観的な判断を下せる目標ではありません。
例えば「禁煙します!」はそれを達成したかどうか、他人はすぐわかりますが、「愛が大事ですよね~」はその人が愛の実践者かどうか、すぐに判断を下せません。
ですから、実践しようがしまいが、いくらでも逃げ道は作れてしまいます。
そして相手がいかにも感じの良いキャラクターを演じ、人が潜在的に求めている優しさや親切を、その場限りでも与えると、「そうか、この人は愛を大事にしているんだ」ところりとだまされてしまいます。
特に責任の伴わない、浅い関係であればあるほど要注意です。
行動が伴っていなくても「自分は、あの人は善人だ」と自分をだます脳
ある心理実験で、二つのグループの片方には、ファストフードのサラダの写真が載っていないメニューを、もう片方にはサラダの写真が載っているメニューを見せたところ、サラダの写真が載っているメニューを見た方が、高カロリーのものを注文する割合が高かった、という報告があります。
つまり、「サラダの写真が載っているメニューを見た」だけなのに、「自分は健康に気を使っている」と脳は自分をだましてしまうのです。
ただ健康番組を見たり、健康雑誌を読んでいるだけで、何の行動にも移していないのに「自分は健康への意識が高い」と思ってしまうのも同じです。
facebookに、美談ばかり集めているページや、格言ばかり載せているページがあり、多くの人が閲覧しています。
このこと自体は悪いことではなさそうですが、うっかりすると「何の行動にも移していないのに」自分は善人だ、意識の高い人間だ、と思い違いをしてしまいます。
また「人道的な」記事をシェアしているだけで、何もしていなくても「この人は人道的な人に違いない」と思い込んでしまう、人間の思考にはそうした罠があります。
実際には、人を思いやる行動に移していなければ、その人は思いやりのある人とは言えません。
人間は社会的動物です。どんなに自分は一匹狼だと思っていたとしても、社会からはじき出されては生きていけません。
ですので、潜在的に孤独を恐れ、社会に受け入れてもらいやすいように「自分を善人だ」と思っておきたい、そうした欲求を知らず知らずのうちに持っていることがあります。
特に子供のころ「いい子でいると承認してもらえた」人は、「善人でなかったら社会に受け入れてもらえない」という潜在的恐れを抱えがちです。
そして美談やきれいごとを言う人に感銘を受け、仲間だと認めてもらうと「自分は善人だ。何故ならこんな『良いこと』に共感しているから。『良いことを言う人』=『良い人』に認めてもらったから。だから自分は『良い人』で、社会からはじき出されることは起こらない」と自分を安心させてしまいます。詐欺師ほど天使の仮面を被っているのは、この心理的弱点を利用しているからです。教祖と信者の関係にも、こうした偽の安心が働いているのでしょう。
この安心を得ておきたいがために、相手がどんなに口だけの人で、何の行動も伴わなかったり、それどころか甘言を弄して人を利用していたとしても、自分から見て見ぬふりをしたり、「あの人のことだから、何か事情があってのことだ」と自分から歪曲してしまいます。
自己受容が高まると「そういうことにしておきたい」はなくなる
この罠にはまらないためには、常日頃から「あるがままの自分をそのまま見て、受け止める。心の中で、どんなに怒りや恨み、憎しみが渦巻いても、その自分を否定しない。善人でなくても大丈夫」と自分自身を受け入れていく自己受容の習慣が不可欠です。
自尊と虚栄は反比例これまで「自尊感情を高める習慣」で述べてきたことは、集約すると「自分の心に正直に、何が大事かを考え、自分の生き方に忠実であること」と言えるでしょう。日本人は世間体と言う体裁を非常に氣にする余り、「自分がど[…]
優れた人ほど、自分のことを語らないのは、この自己受容が高まっているからでしょう。
人は真に幸福な時に「幸福だ」とわざわざアピールはしません。親から浴びるように愛情を注がれている子供は、「プレステ買うてもろてん!」「今度うちハワイに行くねん!」と自慢しないのと同じです。
また、直後の動揺が激しい時は別ですが、本当に辛いことほど、人は安易に口に出せません。その経験を思い出し追体験するのは、血を吐く思いをするからです。
あるがままの自分を受け止められるようになると、幸福にしろ不幸にしろ「そういうことにしておきたい」必要がなくなります。ですからおのずと、自分のことを語らなくなるのでしょう。
「それを生きる」ことは一筋縄ではいかない
また愛にしろ、人を尊重するにしろ、誠実さにしろ、それらを実践し生きることは、その言葉のように麗しいことでは決してありません。
自分にとって快く、都合のよいものを大切にするのなら、子供が気に入ったおもちゃを大事にしているのと一緒で何の努力も要りません。
自分にとって「困った人」でも、相手に巻き込まれず、かと言って相手の体面を傷つけずもせず、「そういう人っているんだ」と事実を受け入れていくのは、どんな人にとっても、そうたやすくできることではありません。
他人なら関係を断ち切ることもできます。そしてそれがお互いのための場合も多いです。自分をしっかり持っている人ほど、八方美人にはなりません。
しかし、親子や配偶者の場合はそう一筋縄ではいきません。信頼していた相手ほど「可愛さ余って憎さ百倍」になる、そしてその傷は簡単には癒えないものです。
それでもなお、家族は自分とは別個の存在です。「生まれてから死ぬまで、24時間一緒」ではありません。離れようと思えば離れられます。
ですが自分自身は否が応でも「生まれてから死ぬまで、24時間一緒」です。
自分自身の限界や未熟さ、時にはエゴをあるがままに見て、ごまかさず、いじめもせず投げ出しもしないことは、気の遠くなるような忍耐が必要です。そしてこの忍耐のない愛は、愛とは言いません。
そしてそれを実践しようとすればするほど、「自分が如何に愛から遠いか」を思い知らされます。なので、それを生きている人ほど軽々しく「愛が大事」と口にできなくなります。
不言実行を結果的に生きざるを得なくなります。優れた人ほど「黙ってやる」ものです。
それを生きている人なら、その選択を自分に許すか?
口ではきれいごとを言う人に、何か違和感を感じる時、言葉ではなくその人の行動に注意を向けてみましょう。人間の本音は行動に現れるからです。
「やりたくないことをやる」「やりたいことがやれない」のは誰にとってもストレス「あの人が本当に私を好きかどうかわからない」・・恋愛している人なら不安に思うものでしょう。恋人がどんなに「好きだよ」「愛しているよ」と言っても行動が伴わな[…]
その人の意図的な選択が、「愛」「尊重」「誠実」を生きている人なら、その選択を自分に許すかを考えてみると、口だけの人か、実践しようとしている人かが浮かび上がってくるでしょう。
人が大事と言いながら嘘をついたり、愛が大事と言いながら「誰それさんがあなたのことを△△と言っていたわよー」と万座の前で恥をかかせようとしたり。その人の限界を超えて実践しきれないことと、意図的に悪意のあることをするのは全く異なります。
愛を実践しようと日々努力を重ねている人が、そのようなことを自分に許せるかどうかです。
品位とは「それをする自分に耐えられない」こと
品位とは、人としての在り方の核となるものです。
品位とは何かとは、難しいところですが「それをする自分に耐えられない」ことと言っても良いでしょう。
例えば、ゴミのポイ捨てをしない、常識的なことですが、する人はしますし、やらない人は誰が見てようが見てまいが決してやりません。常識、マナー以前に「それをする自分に耐えられない」からです。
言葉で説明してわかるものではない、品位
価値観や信念は、言葉を尽くして説明し、「違う」ことを理解し受け入れ合うことは、たやすくはなくても可能です。
しかし品位は言葉で説明して伝わるものではありません。「一体何がいけないの?」になる、最たるものでしょう。
本当にそれを生きている人ほど、きれいごとは口にせず、いかにも「いい人」を演出しようともせず、目立とうともしません。無愛想ではないけれど、媚を売るかのような愛想よさはなく、自然体です。ですので一見そうとわからない人が多いようです。
骨董の目利きになるには、本物を浴びるように見ることです。偽物を見抜くには、チェックリストで照合するのではなく、「一目でわかる」その目を養っておかなくてはなりません。人間も同じです。
品位は社会的立場、収入、年齢とも無関係です。年端が行かなくても、高い品位を持ち合わせている子供もいます。
きれいごとを言う人にころりと騙されないためにも、人間の品位がどこにあるのかを見抜く目を養うと共に、自分自身の品位が問われます。
上品さには、きらびやかさはあっても、騒々しさはありません。漆の蒔絵にしろ、ダイヤのアクセサリーにしろ、友禅染の着物にしろ、華やかでありながらも静かな落ち着きがあります。
「きれいなもの」は自分から「きれいだ」と主張しません。見る側がおのずと感じ取ってこそ「きれいなもの」です。
人間も同じだと言っていいでしょう。