「無難にやり過ごせばよい」は自己保身と怠惰
「みんながそうしている」「面倒がない方に乗っかる」「毅然として拒絶するなんて面倒」という、要は「無難にやり過ごせばよい」は、もしかすると今の日本人に最も多い態度かもしれません。無難とは文字通り、難しいことがない、今日の自分が傷つかず、面倒なことを避けられるという態度です。事なかれ主義と言い換えても良いかもしれません。
しかし今日一日はそれこそ無難に過ごせても、積もり積もると自分を見失い、疲弊します。日本ほど娯楽が溢れかえっている国はそうなく、今は皆がスマホを持ち、出かけなくてもゲームや漫画や動画で手っ取り早く憂さ晴らしできます。無難さと憂さ晴らしだけに終始しているのは真摯な生き方とは言えず、手応えのない毎日になります。この手応えのなさが「疲弊した人生」の源に成り得るのです。
そしてそうした毎日を過ごしている人が、いざ胆力が試される時に、「肝の据わった」行動を取れるわけはなく、結果「だって同調圧力が」で流される、或いはこそこそと逃げる、不利なことにはだんまりを決め込んで知らん顔をする、その卑怯さに自分ですら氣づきません。
個別の案件で「無難なところに着地する」が目標になることはあるでしょう。例えば店頭に来たクレーマーを、逆上させずに、他のお客様に迷惑が掛からぬよう、出来るだけ早めにお引き取り頂くなどは、それなりにエネルギーとスキルが必要です。これは単なる「無難にやり過ごす」とは異なり、それこそ肝が据わらないとできません。
また冠婚葬祭でどのような服装を選べばいいのかわからない時、ネット検索で調べるなどして無難なところに収めておくのは、これは自分だけが浮き上がって、自分も周囲も恥ずかしい思いをしないためで、「その場を大事にする」心の現れです。
しかしただ毎日毎日「無難にやり過ごせばよい」は、自己保身と怠惰であり、自尊感情豊かに生きることとは正反対です。そこには愛も勇氣もありません。自分を信じていませんし、またそれをするから自信を失います。しかし、良心の呵責を伴いませんし、余程親身になってくれる人でもない限り、その生き方を叱ってくれもしません。
「エレガンスとは拒絶すること」とはココ・シャネルの名言ですが、他にもシャネルの残した言葉に「最も勇敢な行為は、自分で考え続けること。そして声に出すこと」があります。シャネルの言う勇敢さがなければ、「無難な方」にただ乗っかるだけの、根無し草人生に終始してしまいます。無難な生き方とは、勇氣を持って拒絶しない、安易なYesに流される生き方であり、シャネルの言うエレガンスではありません。
これを機にまたシャネルの言葉を引きますが、「20歳の顔は自然からの贈り物、30歳の顔はあなたの人生。でも、50歳の顔はあなたの功績よ」言われたことだけやる、仕事と家事だけ無事にこなす、とにかく人から「変に思われない」、無難にやり過ごすだけの日々を積み重ねて、50歳になった時に功績と言えるような顔つきにはなりようがありません。
偉大なファッションデザイナー、ココ・シャネルの人生は挫折や栄光を味わいながらも、不平等に対して闘いつづけた彼女の反逆精神…
若いうちはDoやHaveが新鮮でも・Be Do Haveの目標
ところで、「Be Do Have」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。文字通り、Beはあり方、Doは何をするか、Haveは成果物、何を得たかです。
若いうちは経験が浅く、その分色々な体験そのものが新鮮です。DoやHaveが目標になることが、とてもワクワクするものでしょう。私自身の経験ですが、成人式に出るためのスーツを、アルバイト代を貯めて買いました。初めて自分のお金でスーツを買ったこと(Have)が誇らしく、嬉しい経験でした。これもその後何度もスーツを買う経験を重ねると、最初の時のような新鮮な感動はなくなるものです。
他にも、初めて海外旅行に行った(Do)、初めて好きな異性と二人きりでデートをした(Do)、新社会人になって、緊張で一杯だったけれど少しずつできることが増えた(Do)、初めてお給料を得た(Have)など、こうした経験が若いうちは目標になり、自分をモチベートするものでしょう。
しかし段々とDoやHaveだけでは、心の底から満たされるものではないことがわかってきます。というよりも、本来はそれに氣づくべきなのです。
生活の目標が人生の目標の発露であること
DoやHaveは、生活の目標と言っていいでしょう。年収を上げたいとか、今月の売り上げを達成したいとか、こんな役職に就きたいなどの仕事の目標も含まれます。もっと身近な目標では「そろそろカーテンを買い替えたい」「今度の休みはどこそこに出かけたい」「運動をして健康を維持したい」などもそうです。
Beは人生の目標、どんな人間でありたいのか、個人として、或いは親として、夫や妻として、職業人としてどうありたいかです。
DoやHaveの目標が全くない人は、本当に達観しきった人か、生きる氣力を失ってしまった人かのいずれかで、大多数の人はなにがしかを持っています。
しかし今の日本で、Be、人生の目標を持っている大人はどれくらいいるでしょう?この人生の目標は他人に言いふらすことでもなければ、誰かに認めてもらうことでもありません。人として浅ましく卑怯なことはしたくないとか、一年前よりも大人になっているだろうかとか、自分だけが問うことであり、そして自分が納得できるかどうかです。
このBe、人生の目標を持たないと、DoやHaveの生活の目標だけに意識が向き、他人と比べて一喜一憂したり、「会社が」「世間では」「みんなが」「夫が」「息子が」ばかりを言い募り、自分の人生を生きられません。
「人と比べまい」だけをやろうとしても「人の目が氣になる」「つい自分と他人を比べてしまう」「人をねたんだり、うらやんだりしてしまう」・・こうしたことを頭でやめようとしても、中々上手く行きません。そして人と自分を比べると、劣等感や優越[…]
生活の目標は生きている限りついて廻ります。これが悪い、駄目ということは勿論ありません。生活の目標が人生の目標の発露、結果になっていることが大変重要です。
損得勘定や「世間に自分を認めさせたい」が生きる動機になると
自尊感情豊かに生きることは、誰かにできて誰かにはできない類のものではありません。年齢や学歴などとは全く無関係です。
しかし損得勘定、つまり打算的な生き方から抜け出せない、またある種の復讐心「世間に自分を認めさせたい」が生きる動機になっていると、どんな勉強をしても、社会的地位が上がっても、自尊感情豊かな生き方にはやはりならないようです。
そしていざという時に逃げ出す、つまり卑怯な態度をやめられません。卑怯な自分に後悔するのならまだ良いのです。多くの場合、言い訳に言い訳を重ねて見て見ぬふりをします。
打算が全くない人はいません。夏目漱石の「こころ」で、主人公が親友のKの自殺を目撃した時、自分がKを裏切ったことが遺書に書かれていないか真っ先に確かめる、こうした心の動きはごく普通の人が持ってしまうものです。「私はやりません!」の方が、偽善極まりありません。
また例えば「みんながマスクをやめたら私もやめる」、これは自分が傷つきたくない、勇氣を出すことから逃げる打算です。この無難な方に流されている保身にまず氣づく、ごまかさないことから始める、そしてそんな保身に汲々としている人と自分が付き合いたいのか、そんな人を信頼するのかを自分に問うのが、Be、人生の目標です。
そして「世間に自分を認めさせたい」は、なにがしかの恨みから来ています。恨みを抱えることが悪いのではなく、それをごまかすことが良くないのです。それは誰に対する恨みなのか、何に傷つき、怒っているのかをごまかしてはいけません。ごまかすからわからなくなり、無関係な人を含めた「世間一般」に復讐しようとするのです。
人を疑わない、氣持ちの優しいお人好しほどいいように利用され、結果恨みを抱えることもあるでしょう。同じ轍を踏まない反省は自分のためにしながら、消えない恨みを抱えて生きざるを得ないこともある、それを承認するのが普通の人間の品位だと思います。
integrity・言行一致のあり方
無難な方にただ乗っかる人生とは、結局のところ打算であり、自分をごまかした生き方です。これは自己虐待なのですが、上述した通り自分では氣づきにくく、また他人が叱ってくれることもありません。特別思い当たる節がないのに、何か疲弊する、毎日が面白くない場合は、ここまで書いてきたとおり「無難な方に流れる」生き方になっていないか、振り返るきっかけにできるといいでしょう。
そしてその生き方を潔しとしたくないなら、やはりもうやめたいのなら、その逆をする、ごまかさない、即ち言行一致することです。何か特別大きな、目新しい変わったことはしなくて良いのです。一見平凡な生活をしながらでも、言行一致即ちintegrityに富む生き方は誰にでも開かれています。
このintegrityにピッタリ合う日本語はなく、敢えて言うなら「言行一致が伴った高潔な態度。裏表がないこと」です。
米国ではインテグリティがあると言えば最高の褒(ほ)め言葉になる.逆にインテグリティを喪失したといえば、それは人格の全否定になる。インテグリティとは、いかなる権力や圧力にも諂(へつら)わず屈しない道義心の堅固さ、この人ならばと人格的に全幅の信頼を集める内面的な強靱さ、したたかさ、行動力と実績を意味する。
(略)
インテグリテイの本来の意味は『言うこと』と『行うこと』が一貫し、そこにぶれが無いということである。
「Integrity ことはじめ」
試しに日常の中で「言ったことはやる、やりもしないことは最初から言わない」を、やったことのない人は是非実践してみて下さい。それが如何に難しいかがすぐにわかるでしょう。本当に力がある人ほど大言壮語しない、きれいごとを言わない、愛が大事、人が大事と簡単に言う人ほど実は信用できない、こうしたことはある程度の年数を生きた人なら思い当たる節があるでしょう。
本当に力がある人ほど大言壮語しないのは、言行一致しないと自分の言葉に力がなくなる、「私の言葉は真実ではない。嘘である」が実現してしまうと直観しているからです。
そしてまた人は「あの人、口だけよね」「あの人、口ほどでもないわね」をすぐに見抜き、それを忘れません。その人の社会的地位などは、その利得に預かれる人しか氣にしません。如何に人は「頑張るところが違う」罠に嵌ってしまい、それに氣づかぬまま一生を終えることでしょう。
貴方の良心に基づいた信念通りに行動した時、即ち言行一致しようとした時、貴方から去っていく人を追ってはいけません。もしその人がそのことで貴方を悪く言うなら、元々その人は貴方の友達ではなかった、ただその人の都合で貴方を付き合わせていたに過ぎません。それがはっきりして良かったと思えるようでなくては、自尊の心を育むことはできません。それでも「それよりも一人ぼっちが怖い」のなら、「ゴミでもいいから傍にいて欲しい」ゴミ屋敷に住む人と同じです。そんな自分でいいのかを問うことが、Be、人生の目標です。
Be、人生の目標を持つとは、時間を取って紙に書きだすというより(それも決して悪くはありませんし、やらないよりはずっと良いのですが)、「自分をごまかしてはいないか、私は言葉通りの人間か、そうあろうとしているか」の自分のintegrityを、絶えず自分に問う、その姿勢そのものだと私は考えます。そしてそう生きようと心がけている人にとっては、ただ「無難にやり過ごせばよい」生き方は、誰よりもその人自身が耐えられないのです。