共感と同意の違い・共感も同意も出来ない時の「事実の受容」

「同意はできないが、相手を否定して角を立てるのも嫌」という葛藤

「相手の言うことに本音は同意していないのに、立場や行きがかり上、真っ向から反論も出来ず、何となく同意してしまって後でモヤモヤが残った」・・こうした経験が多くの人にあるでしょう。

自分の考えに自信が持てないと、身近な心優しい、それでいて少々氣の弱いお人好しを選んで「ねえ、そう思わない!?」と、しつこく同意させようとすることがあります。

誰しも「自分だけがこんなことを考えてるんじゃなかった」と思えるとホッとします。誰かから「そうだよ、その通りだよ」と言ってもらえると嬉しいですし、自信にもなります。しかしそれは、結果として得られるものであって、他人に強要することではありません。

この場合、同意ではなく共感で返すのが基本になります。共感とは単に氣持ちが優しいことではありません。相手の考えや感想に対して、良い/悪いの議論にしない、客観性の伴ったコミュニケーションスキルです。ですので、持って生まれた性格とは関わりなく、誰でも訓練次第で身に着けることができます。

共感と同意の違い

では、共感と同意はどのように違うのでしょうか?

人が話をする時、言葉と、表情や声のトーン、身ぶり手ぶりなど言葉以外の表現を使って相手に伝えようとします。

例えば
「雨が降って来た」

これは単なる事実ですが、声のトーンを落とし、ため息混じりのうつむき加減で言うと、それはその人が望んでいないと伝わります。逆に明るい声で、嬉しそうな表情で言えば、望んでいたことだ、と伝わります。

そして私たちは、「雨が降って来た」という事実より、その人がどう受け取っているのかの方が、印象に残ります。また、人は無意識のうちに、報告した事実よりも、それに対する自分の感情を受け止めてほしい、と願っています。

会話における同意とは、この話の内容「雨が降って来た」に同意することです。「そうだね、降って来たね」

そして共感は「残念ね」「良かったね」と相手がそれをどう受け止めているかに共感することです。ですので、共感の方が相手の心の動きを読み取り、想像する力が必要とされます。

こうしたお天氣の話題のような、「それほど感情的な問題ではないこと」は、同意でも共感でも相手にとっては大差はないかもしれません。例えばこれが「あの人、嫌な人なのよ!」ではどうでしょうか?自分も本当に「あの人は嫌な人」と思っていれば、「うん、わかるわかる!」と同意し、鬱憤晴らしを一緒にするかもしれません。

悩ましいのは「自分は『あの人は嫌な人』と思っていない」場合です。ついやってしまいがちな「え、そうかな、あの人にだっていいところがあるよ!」だと、相手は「あんたは嫌な目に遭っていないからそう言えるんだ!」と反発してしまいかねません。心を閉ざすか、むきになって反論しようとするか、いずれにせよ建設的な会話にはならないでしょう。

共感は先の「雨が降って来た」の例と同じく、「相手が事実をどう受け止めているか」に焦点を当てることです。

「あの人、嫌な人なのよ!」
「余程嫌なことがあったのね」「嫌な思いをしたのね」

「あの人が嫌な人かどうか」は相手の主観、判断、解釈です。事実とは異なります。これもまた、尊重されるべきことですが、自分は違う主観、判断、解釈があるかもしれません。

そして相手が「嫌な思いをした」こと、これは表情や声のトーンから読み取って、「事実だろう」と推測されることです。そしてまた、「あの人が実際にどんな人か」とは無関係に、「相手がどんな感情を抱いたか」もそのまま尊重されることです。

共感は話の内容そのものに是非や判断を下すのではなく、相手が「事実をどう受け止めているか」だけをそのまま尊重する態度です。

「嫌な思いをしたのね」の後、「どうしたの?一体。話せることなら話してみない?」などと繋げられると、いきなり「あの人が嫌な人かどうか」の議論になりません。「相手がそう感じた経緯を受け止めようとする」姿勢が伝わるでしょう。

そして「○○されたことが嫌だった」と相手が話したら、いきなり「そんなことを嫌だと思うなんて、あなたもわがままよ!」だと喧嘩になります。この場合は「○○されたことが嫌だったんだ」とそのまま返します。

これは反映的傾聴と呼ばれるもので、「○○されたことが嫌」という相手の感情をジャッジせず、かと言って、ただ一方的に可哀そうがりもしない態度です。「○○されたことが嫌」の反応は、その人自身のものという、相手に責任を持たせる姿勢でもあります。

同意は自分の意見を言うのと同じ責任が生じる

共感が良くて同意が悪い、という単純なことではありません。「それはそうだよね、○○されたら私だって嫌だわ」の同意や同感が、相手の孤独感を癒すこともあります。孤独は悩みを絶対化しがちです。同感されて孤独感が軽くなると、相手の感情が落ち着き、より客観視できるようにもなります。

ただし、同意は自分の意見を言うのと同じ責任が生じます。自分の意見は本当は違うのに、「あなたもそうだって言ったじゃない!」になりかねません。

例えば「彼がLINEを既読スルーして返信してくれない!」と相手が言い、こちらが「すぐに返せないことだってあるでしょう?」と思ったとします。これは相手の言葉に自分が同意できない場合です。

「返信が来ないことが不安?」などと、相手の感情を言葉にしてフィードバックすると、「彼、私のことどうでもいいって思ってるんじゃないかって、ついそんなことを考えちゃう」と、より深い本音を引き出せます。そこまで掘り下げられると「彼がLINEの返信をしないことが良い/悪い」の議論にはなりません。

彼が本当に彼女を「どうでもいい」と思っているのか、彼女の取り越し苦労なのかは、こちらにはすぐにはわかりません。よく話を聴いた上で「少し様子を見てみたら?」とか、「彼に正直な氣持ちを伝えてみたら?」などと伝えられると、相手がその提案通りにするかどうかは別として、「真摯に向き合ってくれた」と受け止めてくれるかもしれません。

共感も同意も理解も出来ないが、事実を受け入れざるを得ない場合

上記のように、同意はできなくても心情には共感できると、不毛な議論にはなりません。しかし、もっと悩ましいのは共感も同意も出来ない場合です。

例えば自分の親がいわゆる毒親だった場合、様々な本やネットの記事を読んで「彼らが何故ああなったのか」を理解することはできるかもしれません。「どうして奴らはあんなことをするんだ!」の疑問形の怒りは、出口のない堂々巡りになりやすく、自分が消耗してしまいます。頭での理解にはなりますが、一定の落としどころを得て、堂々巡りは止められるでしょう。

他にも「サイコパスという『良心のない人間』がこの世には存在する」とか、「ナルシストは他人を『利用できるか、脅威か』としか捉えない」などもそうです。

これらは、頭で理解はできても「だからと言って、自分が理不尽な目に遭うのは心で納得できない」事柄でしょう。但し「サイコパスに良心を期待しても無駄」といった、今後これ以上相手から害を受けない対処方法にはできます。まずは今の自分を守る手立てを取ってから、過去に受けた傷を癒すのが順序です。

そして更に悩ましいのは、理解することもできない場合です。この場合は「事実を受容する」ことが落としどころになるでしょう。嫌がらせ目的のクレーマーに、共感も同意も理解もできないけれど、「世の中に一定数そういう人はいる。客商売をしている以上、完全には避けられない」といったことです。

事実を受容できるには、

  1. 困った相手に継続的に苦しめられず、自分が消耗しない距離を開けられること。
  2. その困った相手に自分が過度な期待しないこと。

この二つが必要条件になります。①と②のいずれか、もしくは両方が実現しないと「あなたが変わって」を人はどうしてもやりたくなります。

クレーマーのような赤の他人、そして職場の人の助けを得やすい相手には比較的やりやすかったとしても、肉親・家族・恋人・仲間など、身近で思い入れのある相手で、かつ相談できる相手が限られると難易度はぐっと上がります。しかしこの場合も原理原則は同じです。

まとめますが、同意はそれほど頭を使いませんが、共感、理解は頭を使います。そして受容は頭と共に、葛藤を乗り越えて行く心の力が必要な、人間の成熟度を問うものです。

自分の信念は大事にしつつ、相手をよく見て「どこまで伝わるか」

ここまでは、相手に対して同意、共感、理解、受容することについて述べてきました。

人間である以上、自分もまたこれらを知らず知らずのうちに求めています。そして信念の強い人ほど、その信念を相手に理解されない、関心すら持ってもらえないことに傷つき、葛藤します。葛藤耐性が弱いと、傷を負うことに自分が耐えきれず、信念を弱め、放棄してしまいます。しかしそれは、自分を失うことに他なりません。

自分の信念は、それを精査し、場合によっては修正し、深めて行く作業は死ぬまでついて廻ります。しかし自分で否定するものではありません。

私自身の場合ですが、当サイトにどんなに書いてあっても、「自分の子供にセッションを受けさせたい」親御さんからの申し出は、少なくはなってきたとは言え、やはりなくなりません。

「足立さん、どうか助けてやってください!」というお氣持ちは、理解も共感もできます。親御さんがそうも思いたくなるのは尤もです。

しかし時には、我が子を厄介者扱いし、「私は悪くない」「この壊れた機械をあなたが修理してくれ」と言わんばかりの態度に、内心猛烈な怒りを感じます。「あなたがそんなだから、お子さんが傷ついて悲鳴を上げるんでしょ!」と喉元まで言葉が出かかります。しかしそれを言っても理解されず、泥仕合になるだけなので「ご本人がその氣にならないと無理ですよ」と伝えます。親も子も、「自分の何かを変えたい」と思っていなければ、私にも何もできないのです。

そのやりとりが終わった後も、数日はモヤモヤが残るものです。どんなに時間が経っても、全く消えてなくなるとも言い難いです。

私のこの怒りそのものは、自分の信念なので自分が大事にするものです。

そして一方、「今、目の前の相手にどこまで伝わるか」をよく見て、判断するのは、コミュニケーションにおける私の責任になります。

自分の信念は自分で大事にしつつ、いつでも誰に対しても「わかってよ!」だけで突っ走らない。わからない人はわからない。これもまた、事実の受容の一つなのだと思います。

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第2回 全ての感情を受け止め、否定しないことの重要性
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第4回 期待通りに成らない現実を受け入れざるを得ない時
第5回 小さな一歩を踏み出す・最低限のラインを決める
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