コミュニケーションは「口達者」かではなく、発信と受信
弊社の心理セラピーでは、多くのクライアント様がコミュニケーションの悩みをお持ちです。
その際、「自分は他の人のように上手に話せない、『口達者』ではないからコミュニケーション能力が低い」と思っておられることがあります。
ご自分に対し、このように思ってしまうとコミュニケーションそのものが辛いものになってしまいます。そしてコミュニケーションをできるだけ避けたい⇒ますます苦手になるという悪循環に陥りかねません。
コミュニケーション能力は、「口達者」かどうかは関係ありません。
コミュニケーションとは発信と受信です。
女子高生同士のおしゃべりが、えてして「発信しっぱなし、自分が言いたいことだけ話して誰も受け止めていない」になってしまい、そうするとどんなに「口達者に」話していても、それはコミュニケーションとは言いません。コミュ二ケーションとは、発信者と受信者双方のキャッチボールになってこそです。
卓越した受信力・コミュニケーションの達人の条件
コミュニケーションにおいて、より大切なのは発信よりも受信です。
発信したとしても、相手が受信できたかどうかを、それこそ受信できていなければ、ただの「言いっぱなし」になり、コミュニケーションにはなりません。コミュニケーションの達人は、受信の力が非常に長けているのです。
例えば、落語では噺の本題に入る前に「枕を振る」ことをします。「枕を振る」とは一般的な話題を振って、聴衆の関心を上手に引き込むことですが、それとともに、聴衆の反応を良く受信し、観察しています。今日のお客さんはどんなところでどんな反応するのかを、よく観察しているのです。
予め演目が決まっている場合は別ですが、その日の演目をお客さんの反応によって枕を振りながら決めることもあります。
本題の噺に入ってからも、お客さんの反応を良く受信しながら、噺の内容はそのままでも、伝え方、つまり発信の仕方は変えていっています。稽古でやったことを、単に舞台上で繰り返しているのではありません。これではただの学芸会で、プロの仕事とは言えません。お客さんの反応の受信力が卓越してこそ、優れた落語家になっていきます。
これは落語家だけでなく、どんな優れたコミュニケーターも一緒です。
また例えば、バレーボールやテニスなどの球技で、レシーブ、つまり受ける技術はサーブやスマッシュ、アタックなどと比べて地味です。しかし、名レシーバーはどんな殺人的サーブやアタックの威力を殺すことができます。レシーブ、つまり受ける技術はスポーツでもコミュニケーションでも、地味ですが非常に重要です。
受信とは非言語からの発信をより敏感にキャッチしているか
では、受信とは何をすることでしょうか・・・?
私たちは言葉を使ってコミュニケーションを取りますが、言葉以外の非言語、即ち表情、身振り手振り、姿勢、声のトーンや大きさ等による部分もかなり大きいです。
例えば「わかりました」という言葉を、相手が横を向いていかにも嫌そうな表情で、ため息まじりに言ったとしたら、どのようなメッセージを相手から受け取るでしょうか・・・?
「いやいや、しぶしぶ従う」「理解はできても全く賛同はしていない」といったメッセージになるでしょう。「心からわかってくれた」と解釈してしまっては、正確に受信したことにはなりません。
ただ実際の場面では、もっと微妙な表現になるでしょう。笑顔は作っていても何か堅い雰囲気だったり、「早くその場を立ち去りたい、話を切り上げたい」態度がにじみ出ていたり、或いはどこか上の空だったり。
人間の言葉は、常に本音を表現しているとは限りません。話している方も意識できていない嘘をつく(「お母さんなんかどっか行っちゃえ!」)こともしばしばあります。
しかし多くの場合、非言語からのメッセージは無意識からのもの、つまり本音を表現しています(もっとも「コミュニケーション=相手を操作し、利用すること」と考えている人は何重にも天使の仮面を被り、「何をどう言えば相手の関心を引けるか、好意と信頼を得て、事を自分に有利に運べるか」を考え抜いているので、この限りではありません)。
優れたコミュニケーターは、この言語と非言語から発信されるメッセージの微妙なずれを敏感にキャッチしています。
受信とは言語と非言語からのメッセージの両方を、瞬時にキャッチすること、そして特に非言語からのメッセージを見逃さないことなのです。
自分の反応の受信力・より良い判断と選択のために
相手からのメッセージは、言語と非言語の間にずれはあるもの、という前提に立ちつつ、自分が発信者になる場合はそのずれをできるだけ少なくすること、その上で場合によっては、「相手のため、もしくは自分と相手の双方のために、本音を抑えて違うことを敢えて言う」(例えば本音は早く帰りたくても、残業を引き受けるなど)のが成熟したコミュニケーターのあり方でしょう。
その際「自分の本音がわかった上で、敢えて違うことを言う」のと、「自分の本音がよくわからずに言葉を発する」のは全く異なります。「お母さんなんかどっか行っちゃえ!」は子供の内は許されます。しかし、「引き留めてほしくて『もう会社辞める!』と言う」の察してちゃんや、「自分が責任を取りたくなくて『だって○○さんがこう言ったから』と言う」のだって星人は、成熟した大人の態度とは言えません。仮に口が達者でも、察してちゃんやだって星人は、優れたコミュニケーターではありません。
大人のコミュニケーションとは、自分の本音をまず自分がわかること、わかっていること、その上でどう伝えるか或いは伝えないかの連続です。他に誰も代わってそれをやってくれる人はいません。
そのためにも、自分の無意識が発している、自分の内側の反応の受信力を高める習慣が必須になります。自分に正直になるとは、わがまま放題をすることではありません。この自分の内側の反応の受信力を高めることなのです。
そしてそれには、「不快な反応はOKだ」が十分に腑に落ちている必要があります。
自尊感情は無条件のもの自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感です。条件付き(お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位などの評価が手に入っているから)で自分を肯定していると[…]
また、私たちが生きやすくなるためには、より良い判断と選択を、自分の責任において瞬時にできる必要があります。私たちの人生は、大小取り混ぜた無数の判断と選択の連続です。
そして判断とは、理屈や根拠で下しているかのようですが、まずは好き嫌い、快か不快かの瞬時の感覚でざっくりと分けた上で、後から「~だから」と理由をくっつけています。
ですので「これは自分にとってしっくりくる。いいなと思う」「みんなはこれがいい、この人がいいと言うけれど、私はそう思わない。何か違和感がある」といった瞬時に湧き上がる感覚を、磨き上げる習慣が非常に大切です。判断と選択は、ゆっくり時間をかけていいこともありますが、ほとんどの場合は「待ったなし」だからです。
この感覚を磨いておかないと、「誰かに決めてもらって自分は後からついていきたい」になってしまい、悪い人の思うつぼにはまってしまいます。
コミュニケーションは「共に」の姿勢があればこそ
コミュニケーションcommunicationのcomは「共に」という意味です。立場の上下はあったとしても、コミュニケーションの発信と受信は双方向であり、「共に」の姿勢があればこそです。上述した落語やバレーボールやテニスは双方向、どちらが上か下かはありません。
人を自分の思い通りに操作したいのはマニピュレーターmanipulator、人を煽るのはアジテーターagitatorです。「共に」のコミュニケーターではありません。つまり支配欲が動機になってるのは、会話ではあってもコミュニケーションではないのです。
優れたコミュニケーターになるには、スキルを高めることも大切ですが、それ以上に、支配とその裏返しの依存から脱却した、自分も他人も共に大切にする姿勢の結果でもあるのです。