余計なことをやらない方が人生は上手くいく・そのための勉強
「君子危うきに近寄らず」と言いますが、危機管理の要は危機が起きてから対処するよりも、そもそも危険な環境に身を置かない、或いはおかしな人がやって来ない環境作りをすることです。
自分がどうしたいか、何が好きかを知るために、様々な本を読んだり、今なら質の良い動画を選んで視聴したりすることも大切です。特に子供の頃や若い頃に、良書をたくさん読んでおき、教養の厚みを養うか養わないかで、中年以降の物事の理解力に差が付きます。子供の頃に読書の習慣が身に着かなかった人が、中年以降、自ら書籍を買って勉強しようとは中々しません。
若いうちは自分の好奇心の赴くままで構わないのですが、責任が重くなり、かばってくれる人がいなくなる中年以降は、余計なことをやらないためにこそ勉強するという心構えが重要でしょう。自分で勉強しないと、目先の損得や評価評判に反応的になり「マスクさえしていればどこでも遊び歩けて、後ろめたい思いをせずに済む」に囚われ、感染対策には全く逆効果なマスクをし続ける羽目になります。
しかし、このようなことを考えている人は多分少なく、歳を取っても「自分の外側に正解を求めさまよう」人の方が多いようです。その内「TVがそう言ってる」に取って代わって「ChatGPTがそう言ってたから」で、自分の判断選択を丸投げする人も増えるでしょう。
人間関係において余計なことをやらないとは、上手に断捨離し続けることです。かまってちゃんにかまわれる隙を作らないためや(断)、いつの間にか利用されるのを避けるだけでなく(断)、不毛な関係性に自分が執着しない(離)ことでもあります。
依存的な人は腹が据わっていない⇒反応的になる⇒極端な二者択一
氣持ちの優しいお人好しほど、依存的な人に悩まされたことがあるでしょう。深夜の同じ愚痴の長電話で、言葉でやんわりと、色々と諭しても聞き入れられなかった経験があるかもしれません。「この話をこれ以上しても、堂々巡りになるから、今夜はもう遅いし、寝ようよ」とか、「何かやれるところからやってみないと、同じことの繰り返しだよ?」とか。何故こんな当たり前のことが、相手には受け入れられなかったのでしょうか?
頭・心・腹と言いますが、依存的な人は頭と腹が使えていません。特に腹が据わっていません。腹が据わっていて依存的、ということはありません。心の感情は大事ですが、感情だけになれば、反応的になります。
反応的とは、極端な二者択一になることです。例えば、快か不快か、面倒か面倒でないか、安心か不安か、都合が良いか悪いか、などです。上述した例で言えば、安心か不安かだけになっている人に「今夜はもう寝よう」と言えば「私を見捨てるの?」に、面倒か面倒じゃないかになってる人に「何かやれることをやってみよう」と言っても「そんなの面倒くさい」になるようなものです。建設的な解決にまるでなりません。
自尊感情を高める習慣の「ネガティブな感情を受け止める」とは、感情を否定したり、心の奥底に抑えつけてしまわずに、あるがままに感じつつ、腹で支え、「何が嫌だったのか。どうしたかったのか」を頭で考えることです。感情的になることでは決してありません。
自尊感情は無条件のもの自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感です。お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など条件で自分を肯定していると、その条件が消えたとたんになくなっ[…]
尊重がない関係性を捨てる潔さ・全員を救うことはできない
どんな人間関係を捨てるべきかは、一言で言えば尊重がない関係性です。単に相手が氣づかなかったということもあるので、そうした場合は、言えば改めてくれることもあります。ですから、まずは丁寧に交渉した上で、それでも聞き入れられないのならよく考えてみます。
関係が近すぎるなど、自分が尊重されていないかどうか、よくわからなくなってしまった場合は、
- 精神的に疲労が溜まっていないか。
- 友人が同じ状況だったら、どのように言ってあげるか。
この二つで大体わかります。①は既に無理が生じているサインです。また特に②は、意識しないと中々やりません。
どんなに言葉で伝えても、上述したように相手が依存的で反応的になっている場合は、中々通じないものでしょう。その際は電話に出ない、LINEやメールの返信をしないなどの手段を取らざるを得ないこともあります。心優しい人ほど、罪悪感を感じてしまうかもしれません。
皆と仲良くしたい、自分と関わった人には幸福でいて欲しい・・その氣持ち自体は尊いことです。真面目で優しく、人を疑わずに育った人ほどそう思うものかもしれません、だからこそ、自分が疲弊しても頑張ってしまう、依存的な人はその自己犠牲的な優しさに、底なし沼のように付け込んできます。
私たちは、その時の自分にできることで、環境を整える努力はできます。人任せにしてしまわず、各自そうするべきだとも私は思います。それは小さなこと、ゴミを拾うとか、歩きスマホはやらないとか、人と接するときは笑顔で溌溂ととか、選挙には必ず行くなどになるでしょう。自分の才能や個性を人のために役立てるのもその一環です。しかし「その時の自分にできることをする」のと、「それでも全員は救えない」は、区別を付ける必要があります。頑張り屋さんほど、いつのまにか混同していることがあります。
心理セラピーにおいて「だって」を言っておきたいクライアント様には、私には何もできないのと同じです。
全員を救うことは誰にもできないし、やらなくて良いのだと腑落ちすると、断捨離の「捨」が少し楽になるかもしれません。またそれは取りも直さず、「私の上司、あの困った〇〇さんを直してくれない!」の無茶ぶりをしない、ということでもあります。上司は〇〇さんに話をすることはできても、直接「直す」ことはできません。自分のあり方や行動を直すかどうかは、〇〇さん自身が納得しなければどうにもなりません。「カウンセラーに『直してもらえる』」も同様です。
迎合と「今目の前の相手にどう関わるか」の見極めは別物
自分を尊重されない関係性は捨てるとは言っても、職場や同居家族など関わらざるを得ない場合は、迎合と「今目の前の相手にどう関わるか」の見極めの区別を意識します。迎合は恐れから来る反応です。「今目の前の相手にどう関わるか」は意識的な選択です。人は選択責任から逃れようとすると、意識的に考えず、結果反応的になり、上述した通り短絡的な二者択一に陥ち入ります。
職場は仕事の遂行が目的なので、「仕事が円滑にまわり、周囲にギスギスした雰囲氣が伝わらなければよい」などと落としどころを明確にしやすいでしょう。職場は他人同士の集まりなので、何となく監視の目が働きます。また「これっておかしいよね、私だけかな?こんなこと思うの」などと相談に乗ってもらいやすい職場もあるでしょう。
家庭の中で暴君がいたり、言葉巧みな嫌がらせをする人がいるケースの方が厄介です。家庭には職場のような明確な目的や目標がなく、また密室で他人の目が届きません。今まで反射的に迎合して相手をなだめようとしてきた人は、これをやめないと同じことが繰り返されます。
自分を尊重しない相手には、家族なら尚更、まず内心であっても屈しない決意が最も重要です。迎合と、共感や寄り添うことを混同しているケースは珍しくありません。迎合は形を変えた相手を支配することです。自分も実は相手を尊重していないのです。
一番難しいのは「離」・孤独に耐える力と信頼関係を築くスキル
何故人は安易な迎合に走り、尊重しない相手を毅然として退けようとしないのでしょうか?退ける、即ち「No」を言うとは抗うことであり、勇氣が要り、また責任を伴います。迎合しておく方が「だって」で言い訳でき、責任を持たずに済みます。
そしてそれ以上に、人は一人ぼっちが怖いのです。自分を蔑ろにする相手であっても、一人で放り出されるよりまし、これがサドマゾ的な共依存関係から抜け出せない最大の理由と言っても過言ではありません。支配・依存、安易な同調も、人は孤立を恐れることが根本原因です。
しかしだからと言って、社会から完全に引きこもってしまうのも、それは恐れから逃避しているのであって、これもまた根本解決にはなりません。
断捨離の「離」とは、執着から離れることです。これが万人にとって難しいからこそ、人は悩み、また古来から宗教家や哲学者、精神指導者が世の中の少数派とは言え、求められてきたのでしょう。
依存的な人ほど当然ですが執着心が強いです。しがみついていなければならない、と思い込んでいる状態です。孤独に強く、また同時に「私は様々な人と信頼関係を築ける」自負がある人ほど、即ち自立している人ほど執着しても仕方がない関係性を手放しやすいです。常日頃から、自分が人を利用したりせず、対等な信頼関係を築く努力、そして「自分で自分をあやす」習慣があればこそです。
但し、自分の思惑を遥かに超えることが起きるのが人生です。コロナ騒動において、多くのカウンセラー、セラピスト、コーチなどの心理関係者が見て見ぬふり、知らぬ存ぜぬを決め込んで、無関心を装って逃げ出したことに、私は猛烈な怒りを感じ続けました。「しょうがないじゃん」とあっさりとは割り切れませんでした。その情けない思い自体は、消えてなくなりはしないでしょう。
しかしそれが「私がこの失望に耐えずに済むように、あなたが変わって」になれば執着になり、「離」ができません。自分で自分の首を締めてしまいます。
嫌だった経験は人間関係の原理原則に⇒「断」入るを制する
嫌な経験をした時、似たような過去の古傷が痛むことがあります。それはスポーツやカラオケで発散してしまえるような浅い事柄ではなかった、ということです。その時「ああ、まただ・・・」と落ち込んでしまうと「離」ができません。上記の「あなたが変わって」をやりたくなれば、また自分の首を締めてしまいます。
私たちは人間関係に悩むと、今なら人に相談するよりも、ネットで検索して得た知識・情報で何とかしようとするものかもしれません。私の記事は、ヒント、解決の糸口にはなるでしょう。しかし、その人ならではの氣づきにし、「次に似たようなことが起きた時、違う判断選択ができる」スキルに昇華しなければ、同じことは繰り返されます。
心に深い傷を残すような、嫌だった経験ほど、実は氣づきの宝庫です。
上記の私の例で言えば、「判断ミスとか、キャパオーバーなどの状況で結果的に責任を果たせなかったことと、『人として無責任』かどうかの見極めをつける。無責任と無関心は同根。その人が『人として無責任』かどうかは、自分より立場の弱い、かつ遠慮がないけれど責任を負うべき相手への態度で見る。一番は子供(我が子でなくても。よそのお子さんであっても、子供は国の宝という意味で、大人には責任があります)、そして配偶者。職場なら部下や後輩を大切にしているかで見る」です。
コロナ騒動で逃げ出してしまった心理関係者は、口では「人が大事、愛が大事」と言いながら、子供のマスク着用や、給食の黙食、学校行事が次々と取りやめになったこと、そしてワクチン接種の被害が報告され始めても、最後の最後まで反対の声を挙げませんでした。私は「人として無責任だった」と判断します。
遠慮が要らない弱い立場の人達を思いやれず、何か小さな行動に移そうと最初からしない、「人として無責任」な人は、私は信用せず、関わりません。これが私の「断」の原理原則です。

断捨離の「断」とは、入るを制することです。物の断捨離においても、最も効率が良いのは「断」、最初から不要な物は受け取らない、家や職場に持ち込まないことです。
この「断」の原理原則を決められるのは自分だけです。他人は相談に乗って、考えの整理のお手伝いはできますが、決めるのはその人です。人間関係においても、本当に辛かった経験から、自分だけの「断」の原理原則を導き出すことができるのです。