幼い子供がスーパーヒーローが大好きなのは
いつの時代も幼い子供はスーパーヒーローが大好きです。ウルトラマン、仮面ライダー、何とかレンジャー、女の子向けにはセーラームーンやプリキュアなど。魔法使いの○○ちゃんも、スーパーヒロインのバリエーションです。
幼い子供は大人とは比べ物にならないスピードでぐんぐん成長します。私たち大人は、自分も通ってきたその道をすっかり忘れていますが、彼らの目を通せば、万能感や全能感と呼ばれるものの虜になるのもよくわかります。
生まれた直後は何もできない、寝返りを打つことすらできなかった赤ちゃんが、ハイハイができ、つかまり立ちができ、そして歩行という能力を手に入れます。何もできなかった手は、何かを握り、触り、持つことができるようになります。
仰向けで寝てるしかなかった世界がみるみるが広がり、「自分は何でもできる!」高揚感と躍動感に満たされます。見る物触る物が何もかも新鮮で、ティッシュペーパーを箱が空になるまで引き出すのも面白くて仕方がありません。大人には少しも面白くないことでも、幼い子供にとっては「全能の神になったかのような」陶酔をもたらします。これが幼児的万能感と言われるものです。
この頃の躾は、子供の好奇心と万能感との一種の戦いです。
そしてTVやアニメのスーパーヒーローに、子供たちは自分を重ね合わせます。「何でもできる」スーパーヒーローに、幼児的万能感を刺激され、満たしてもらっています。
逃げ癖は幼児的万能感が抜けきらないため
こうしたスーパーヒーローに夢中になるのは、せいぜい小学校の一、二年生頃まででしょう。そしてこれは誰もが通る道です。後述する勤勉性を身に着けて行く過程において、「何でもできる」幼児的万能感が、「私はやればできる」自己有能感に置き換わるのが健全な成長です。
しかし、この幼児的万能感が抜けきらずに成人すると、様々な弊害が起こります。わかりやすい例で言えば、パワハラ上司が典型的でしょう。自民党の裏金問題も然りです。幼児的万能感とモラルのなさが組み合わさると、単なる仮初めの、役割としてのポジションでしかないことも、権限以上に社会的責任が求められることも忘れ、したい放題になります。
幼児的万能感の弊害は、こうした「誰の眼から見ても悪い事」ばかりとは限りません。
幼児的万能感が「ほれぼれとした自分でありたい。そうでなければ認めたくない」ナルシシズムと結びつくと、失敗や面倒、ちょっとした困難から途端に逃げるようになります。スーパーヒーローが失敗してずっこけたり、七面倒くさいことをやっていたら、スーパーヒーローではなくなるからです。「雑巾がけをしたり、ひたすら頭を下げてるスーパーヒーローなんてスーパーヒーローじゃない!」
「0か100か思考」が強くなって「何もしない」ことを選んだり、本来なら自分がやるべきことを色々と理屈をつけて他人に押し付けたり。些細な失敗を「向き合って反省する」のではなく、いつまでもくよくよと氣に病んだり、「もし~だったらどうしよう」と取り越し苦労ばかりしたり、等々。幼児的万能感と一見矛盾するかのようですが、「スーパーヒーローである筈の自分像を崩したくない」恐れがあると、こうした行動を取ってしまいます。
また或いは、自分がスーパーヒーローになろうとするだけではなく、「スーパーヒーローに救い出してもらいたい」依存になることもあります。今は放送がなくなりましたが、時代劇「水戸黄門」では、黄門様の印籠のシーンになると視聴率が跳ね上がったそうです。大人であっても、「スーパーヒーローを待ち望む」願望が消えてなくならない証でしょう。
様々な困難に思わず怯み、へっぴり腰になるのがごく普通の人間です。しかしやはりそれらを乗り越えようとするか、逃げ癖がついてしまうかは、幼児的万能感をどれくらい克服しているかにかかっています。大人しいとか氣が強いとかの性格の問題ではなく、万人の課題です。
主に小学生の頃に獲得する勤勉性⇒自己有能感
上述した通り、小学校に上がる頃になると、「何でもできる」幼児的万能感の段階から、「やればできる」自己有能感を身に着ける段階へ移ります。好むアニメや漫画も、スーパーヒーロー物からスポ魂物に変わります。保育園・幼稚園の頃と違って、お勉強が生活に大きなウエイトを占めます。座学の勉強だけでなく、運動能力や、友達との関係性で育まれる社会的能力を養います。家庭においては少しずつお手伝いをすることによって、「何もかもお世話されている」依存の状態から、「自分は家庭の一員である」参画意識を養っていきます。
「コツコツ頑張れば私はできるようになる」勤勉性と自己有能感を獲得すると、学ぶ喜びを得て、達成欲求を満たすようになります。この達成欲求が意欲の源になり、困難から安易に逃げない人格の基礎になります。困難から安易に逃げないとは、責任感を持つことであり、引いては人からの信頼を得られる自信にもなります。
大事なことは「○○ちゃんと比べて私はできる/できない」の優越感や劣等感を抱くのではなく、「私には努力次第で困難を乗り越える力がある」と自分を信じられるようになることです。それが自転車に乗れるようになることでも、九九を覚えられることでも、一人でカレーライスを作れることを通してでも良いのです。友達同士で喧嘩をしては仲直りも、同じです。
これが「地道な努力を経ずに、怪獣をやっつけられるスーパーヒーローでありたい」幼児的万能感との違いです。黄門様の印籠をかざしただけで、悪代官たちが「ははーっ」とひれ伏す、そうした万能のグッズはこの世にありません。しかし「私には困難を乗り越える力がある」と自分を信じられないと、2024年7月現在、蒸し暑い日中でもマスクを外せない日本人の姿に現れてしまいます。雑菌が繁殖し放題の、衛生的には全く逆効果なことをやっていると、知識で伝えられても自分からシャットアウトします。マスクに何かを依存し、縋ってしまうと外せません。マスクが黄門様の印籠になっています。
そして「コツコツ頑張ればできる」、裏から言えば「魔法のようにたちどころに何か良いものが降って湧くことはない」、これを体得することにより、他の人の尽力に思いを馳せることができます。「お陰様で」「ありがとうございます」「頂きます」「ご馳走様でした」は全て、目には見えない無数の人の尽力、そのプロセスに思いを馳せる態度です。「超ラッキー!」「ついてる!」と「ありがとう」は、心のあり方が正反対です。これも自分が勤勉性を身に着けているかどうかに左右されるでしょう。
便利になり過ぎ自己有能感を感じにくい現代の日本
勤勉性と自己有能感は、主に小学生の頃に獲得すると述べました。心の成長は、体や知能の発達と同じく「その時期に学び、獲得する」ことがとても重要です。しかしだからと言って、「小学生の時に獲得したから一生大丈夫」とも言いきれません。というのは、今の社会はほんの30~40年前とは考えられない程便利になり過ぎ、自己有能感を感じにくくなっているからです。
ヨーロッパの山間部で、ほぼ自給自足の一人暮らしをしている女性の動画を、YouTubeで見たことがあります。電氣は通っているものの、ガスや水道はありません。鉄製のストーブに薪で火を起こし、そのストーブの上で調理します。真冬の一面の雪の中、井戸から水を汲み、蛇口付きのポリタンクにその水を注いで流しに取り付けます。飼っている牛の乳を自ら絞り、パンは粉からこねて自分で焼きます。
動画で見るよりも、実際にはずっと厳しい生活でしょう。しかし彼女の自己有能感は、令和の日本人の比ではないでしょう。彼女は当然マスクなどしていません。衛生状態が悪く、物流網が整っていない途上国では、コロナ騒ぎは起きていないのと同根です。
文明が発達しすぎると、人間はひ弱になってしまいます。待つことができず、自分で考え手を動かして創意工夫をしようとせず、少しの汚れや暑い寒いも耐えられず、すぐに安易な方に流されてしまいます。
令和の日本に生きる私たちは、電氣ガス水道は勿論、多くの電化製品、インターネットや行き届いた物流網のない生活環境には今更戻れません。これらもまた先人たちの努力の結果です。しかしこの便利で快適な生活の負の側面を心に留め、自己有能感を自分で養っていく努力がより一層必要になるのでしょう。いつの間にか幼児的万能感に、再び支配されかねないからです。
小さな危機から逃げる人は大きな危機にはもっと立ち向かえない
上述した通り、幼児的万能感の何が一番良くないかと言えば、面倒から逃げるようになるからです。「美は細部に宿る」「神は細部に宿る」と言われるように、卓越した技の秘訣は「細かな創意工夫を怠らないこと」「地味な基本を徹底すること」にあります。言葉を換えれば「面倒くさいことを面倒くさがらない」ということです。仕事であれば「こんな雑用」と疎かにする人に、もっと大きな仕事を成し遂げることはできない、ということです。
勤勉性を獲得する意義はまさにここにあります。お子さんにスポーツなどの習い事をさせるのは、「地味な基礎練習の大切さ」「地道な努力をやり遂げる忍耐力の大切さ」を親御さんが我が子に身に着けさせたいためでもあるでしょう。
但し技術的なこと、しかも自分が好きなことなら細かな創意工夫をやったとしても、精神的な局面では面倒なことから逃げてしまう、これをすると周囲は非常に傷つきます。小さな危機から逃げる人は、大きな危機が来ればもっと逃げます。見て見ぬふりの無関心、その場しのぎの事なかれ主義、「自分こそ被害者だ」と他人のせいにして押し付ける、等々。これでは自尊感情は高まりようがありません。
危機を訴える方は「もっと大きなことが起きれば、氣づいて向き合ってくれるんじゃないか」とつい期待してしまいます。子供が小さなSOSを出しても親に氣づいてもらえなければ、もっと大きなSOSを出す、しかし逃げ癖がついている親は、もっと逃げるようになるの悪循環になります。親子関係のみならず、他の人間関係でも、自分自身のことでも同じです。
「これしかできない」から「これならできる」へ
私の心理セラピーのクライアント様のお悩みは千差万別です。置かれている状況は当然皆違います。しかし結果が出るか出ないかは、問題の深刻さとは比例しません。一つは自分なりの価値判断基準を育てようとするか、もう一つは小さな一歩を軽んじないかです。これに例外はありません。セッションの合間の小さな宿題を真面目にやることもそうですし、またこれまでを振り返って「自分の小さな一歩が違いを生み出した」ことを、改めて思い出して頂いたりもしています。
小さな一歩の重要性は、誰しも耳にしたことがある筈です。私が改めて申し上げることでは本来ありません。しかし、ご本人がどれくらい腑落ちしているかは、その方の領域であり、私が直接どうこうすることはできません。私がやれるのは、あくまで再確認のきっかけを提供することです。
小さな一歩を「これしかできない」「どうせこんなことをやったって」と最初から馬鹿にするのは、まだ幼児的万能感が抜けきっていないためです。何とかビームや何とかキックの大技だけが、黄門様の印籠だけが、問題を取り除いてくれる救世主だと何となくイメージしています。
誰にとっても今すぐできることは、その人にとっての小さな一歩です。他の人にとっては小さなことではないかもしれません。それを「これしかできない」ではなく、「私にはこれならできる」と一歩を踏み出せるかどうかです。
作家の宇野千代さんは、経営していた出版社「スタイル社」が倒産し、莫大な借金を抱えました。銀行からの信用を失っていたので更なる借金はできず、また作家としては寡作だったため、他で収入の道を得なければなりませんでした。60歳を過ぎ、今のようにパートの働き口もなかった時代でした。宇野さんは着物のデザイナーでもありました。ある時随筆の原稿料として五千円が振り込まれ、それで白地の縮緬を一反買うことができました。
懇意にしていた染物屋さんに「この反物が売れた時に染め賃を払う」約束を快諾してもらい、見事な小紋を染め上げてもらいました。その小紋はたちまち売れました。やがて一反が二反、十反、二十反と増えて行きました。
宇野さんはマッチ箱程度の小さな厚紙に、反物の柄の名前を記入し、一反の商品ができると紐に通して括り、売れるとその紐から外して、在庫が一目瞭然でわかるようにしました。これはPOS(point of sales)の基本です。この厚紙を紐に通す作業の意義がわからないと、どんなに高性能のPOSレジを導入しても使いこなせません。
そのとき私の始めた、この厚紙をくくった単純な仕事が、のちの現在の仕事である「株式会社宇野千代」までに発展したのだと言ったら、誰も信じるものはいない。
宇野千代「生きて行く私」
「株式会社宇野千代」は、宇野さんの死後、現在も存続しています。