「お前は冗談がわからない奴だ」という卑怯な隠れ蓑
親が残酷な言葉で子供を傷つけておきながら、子供が反発すると、「お前は冗談がわからない奴だ」と言い逃れをすることがあります。これは大変卑怯な隠れ蓑で、これを言われると子供はそれ以上反論できなくなり、居場所を失ってしまいかねません。
あからさまな暴言も非常に罪深いのですが、「一見悪く言っているようには聞こえない『からかい』『嫌味』『屈辱的なあだ名』『はっきりとわからない微妙なあざけりやけなし』などの、より陰湿な方法で執拗にいじめるタイプで、これはしばしばユーモアという外見を取りつくろっている」(スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」)こうしたケースも同じくらい、子供の自尊心を深く傷つけ、その害は時として成人後も続いてしまいます。
子供には親の言葉が冗談か本当かの区別ができません。親の言うことを真に受けてしまうのが子供なのでしょう。そしてその内、子供は親以外の他人の言葉をも、額面通りに受け取れなくなってしまうことさえ起きてしまうことがあります。
48歳男性 歯科医
人が口にする言葉に異常に敏感で、そのまま額面通りに受け取ることができず、自分のことを馬鹿にしているのではないかといつもくよくよ考えてしまう。妻のあの言葉は自分を馬鹿にしている、親は自分を馬鹿にしている、あの人があの時言ったのは・・・という調子で、夜中にベッドに入っても昼間に人が言った言葉が氣になって寝付けない。全てを悪い方ばかりに解釈してしまう自分が止められない。このままではノイローゼになってしまう・・・。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」下線は足立による
本人も周囲の人も、苦しくて仕方がないでしょう。「全てを悪い方ばかりに解釈してしまう自分が止められない」は、大なり小なり、多くの人に経験があるのかもしれません。
ただこのクライアントは、「今のこの自分の状況はおかしい」と氣づける客観性と、自らフォワードを訪ねる自発性がありました。何でもそうですが、「問題を問題視し、『自分が何とかしなければ』のスタートラインに立つ」までがやはり長くなりがちです。
家族の全員から笑われ、孤立させられる悲惨
フォワードによれば、彼の父親はいつも彼をだしにして、屈辱的な冗談を言い、そして家族のメンバー全員が皆で彼を笑っていたそうです。クラスの集団いじめが、家庭の中で起きてしまっていました。「お父さん、そんなことを言うのやめなよ。○○(クライアント)が可哀そうでしょう?」などと、彼をかばってくれる人もいない。どれほど毎日が苦痛に満ちていたか、想像に難くありません。
孤立は苦悩を深める負の燃料になります。多くの人に経験があると思いますが、「こうしたことで悩んでいるのは、私だけじゃなかった」と思えると、実際の状況は何も変わらなくても、それだけでホッとするものです。人をいじめ、いたぶって歪んだ支配欲を満足させたい人は、恐ろしいことにその反対の「孤立させる」ことが、どれほど相手の苦悩を深めるかを、無意識的にわかっていてやるのです。
時には単なるジョークとは思えず怖くなることもあった。六歳の時、父は「この子はうちの子じゃないに違いないよ。顔を見てごらん。生まれた時に病院で別の家の赤ん坊と間違えられたに違いない。病院に連れて行って本当の子と交換してもらおう」と言った。本当に病院に連れて行かれるのではないかと怖くなった。ある時、何故自分ばかりいじめるのかと尋ねると、「いじめてなんかないよ。ただ冗談を言ってるだけじゃないか。お前にはそれがわからないのか」と言われた。
前掲書
最後の父親の言葉は、似たようなことを言われたことがある人もおられるかもしれません。子供の心を思いやれる親なら、「ごめんね、言い過ぎた。そんなつもりじゃなかったんだよ」と子供に謝り、「この子はまだまだ冗談と本当の区別がつかない。真に受けて傷ついてしまうから、注意しなくては」と反省するでしょう。子供同士のからかい合いでも、相手が泣きだしたら、心優しい子供なら真剣に謝ります。
フォワードは「冗談を装った残酷な言葉」について、以下のように解説しています。
重要なのは(1)何を冗談のネタにしているのか、(2)残酷さの程度、(3)その発言の頻度、の三つであり、それによっては冗談が冗談でなくなるのである。
前掲書
これは大人同士であっても同じです。一二度なら受け流しても、「仏の顔も三度」のことわざ通り、余りに繰り返すようなら自分の境界線をしっかり引き直し、毅然とした態度を取り、時にはぴしゃりと言い返すことも自分を守るための大事な戦略です。しかし、子供にはそのような態度は、まして自分より圧倒的に大きな存在の親に対しては、取りようがないのが自然です。
自己防衛のために人間不信に
子供は「良いものは内へ、悪いものは外へ」の境界線はまだまだ未発達です。境界線の代わりに何で自分を守るかと言えば、疑心暗鬼になり、人間不信になることがその一つです。心を閉ざしてしまえば、最初から傷つかなくて済む、という悲しい生存戦略です。彼の場合は「人の言動に対する過敏な反応や不信感、非常に内氣な性格、などになって固定した」
人によっては「やられる前にやってしまえ」とばかりに、先に攻撃的になり、相手の心を挫いてしまおうとしたり、斜に構えた冷笑的な皮肉を言ったりするかもしれません。或いは「滅多なことでは口を開かない。誰とも会話をしない」などもあるでしょう。
但し、誰もが知っているように、人間不信が良い結果になることは決してありません。この父親が、如何に罪深いことを我が子に対して繰り返したかです。
厚く重い心の鎧・そうせざるを得なかった自分
周囲の人は「あなたを馬鹿になんかしてないよ。そんなに疑心暗鬼になったら、こっちも辛くなるから、もうやめてよ」と悲鳴を上げたくなるかもしれません。このクライアントがそうだったかはわかりませんが、自己防衛に走るあまり、何かにつけて「それは僕のことを馬鹿にしてるの?」と再々言えば、周囲の人がブチ切れるのも自然な成り行きです。
この男性はまず地に足をつけて、氣持ちを落ち着かせる習慣を身に着けること、仮に疑心暗鬼になっても不適切な言動に出さない努力がまず必要になるでしょう。ブチ切れまくった人ばかりが周囲にいれば、状況は加速度的に悪化します。そしてもし、不適切な言動に出てしまったら、すぐに謝り、努力してる最中なので長い目で見て欲しいと弁明することもまた、必要かもしれません。
毎日の生活においてはそのように対処する一方、自己防衛に走らざるを得なかった、言葉を換えれば厚く重い心の鎧をまとわざるを得なかった自分と、時間をかけて静かに向き合っていく。不適切な言動に出さない努力と、「厚く重い心の鎧」をまとわざるを得なかった悲しみを、分けて考えていきます。
親への憎しみを自分を取り戻す梃子にする
私は父を憎んでいます。何という卑怯者だろうと思いますよ。その頃私はまだほんの小さな子供だったのですから。今でも父は同じような冗談を言います。私をからかえそうなことが何かあれば、絶対に見逃さないんですよ。そしてひどいことを言っておいて、善人みたいな顔をして笑うんです。最悪ですよ。
前掲書
このクライアントは、父親への嫌悪と怒りを感じられ、また父親を客観的に評価できています。そして自分の憎しみをはっきり表明できています。これらは実は、当たり前のようで当たり前にはできないことです。自尊感情が余りにも下がると、悲しいことに「どんなに蔑ろにされても、そのこと自体に氣づけない」のです。
怒りは二次感情と言われます。怒りから派生した憎しみも同じです。父親への憎しみを梃子にして、その下にある悲しみ、その悲しみから自分を守るために、まとわざるを得なかった厚く重い心の鎧に、これもまた時間をかけて向き合っていけると良いでしょう。そのためにも、できる限り父親とは接触しないようにします。父親からまた同じ侮辱を受ければ、また怒りと憎しみが再燃し、静かに心を癒せなくなるからです。
怒りの沸点が低いとトラブルの元、しかし怒らないのが良いわけでもない喜怒哀楽、人間の様々な感情の中で、怒りほど扱いが難しく、奥が深いものはないかもしれません。「怒らない人」は温厚で面倒を起こさない、いわゆるいい人と思われてい[…]
父親が卑怯だと思うこと自体、子供にとっては辛いものです。心優しい人ほどそうかもしれません。ですがその辛さに負けてしまうと、現実を歪めて親をかばい、「それは僕が悪かったからだ」と自己否定をして辻褄合わせをしがちです。卑怯な親は、それに乗じて益々子供をいたぶることさえあります。親の卑怯で巧妙な絡めとりから出る原動力に、怒りのエネルギーを使うのであって、自分や他人を攻撃するために使ってしまうと、それ自体が自己虐待になってしまいかねません。
そして親への怒りや憎しみをごまかさず、感じ切り、自分の外に出すプロセスは、いずれ必要になります。
この外に出すプロセスは一度ではやはりすまず、何度でも繰り返して良いのですが、
「最初は激しい痛みを感じたが、段々軽くなってきた。時々ぶり返しはするけれど、長い目で見れば『激しい痛み』が『耐えられる疼き』くらいになっていっている」か、
「ますます被害者意識が増大している」かの区別がとても大事です。
後者は、「親が仕掛けてきたドラマ」に、自分が絡めとられている状態と言えます。
これも「親の言動は良しとは決してしないが、自分の感情は自分のもの」という「不快な感情を自分が受け止める」感情受容が支えてくれます。
自尊感情は無条件のもの自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感のことです。お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など目に見えやすい条件で自分を肯定していることも、世の中に[…]
脳の一般化に抗う⇒遅い思考を鍛える
人間不信に陥るとは、脳が過度な一般化をしているためとも捉えられます。
「みんなが私を馬鹿にする」の疑心暗鬼の被害者意識も、「私の周りはみんないい人」のお花畑のお人好しも、どちらも過度な一般化です。一般化は、反応的な速い思考です。「実際のところはどうなのか」を客観視して観察し、検証するのは遅い思考です。この遅い思考は、その意義が腑落ちし、習慣化しないとやはり中々やりません。速い思考で反応的になっている方が、脳にとっては楽なのです。「だってみんなが」の責任転嫁と一般化は、脳がサボるとやってしまいがちな最たるものでしょう。
大多数の人は理由もなく人を馬鹿にしたりしませんが、中には彼の父親のような、「人を馬鹿にしないと自分を保てない」人も、やはり残念ながら存在する、それがどこでも起きがちな現実でしょう。
父親のせいで、人間不信を植え付けられてしまったのは氣の毒としか言いようがありません。傷ついた心を癒す一方、こうした脳の一般化に逆らう頭の体操をして、役に立つ生存戦略を身に着けることもまた、生きやすさのための両輪になるでしょう。
人から蔑まれることに怒りを感じつつ、評価評判に左右されない自分に
このクライアントの「周囲の人は自分を馬鹿にしているのではないか」の過剰な恐れは、評価評判に自分が左右されている状態と言えます。評価評判に振り回されてしまうことほど、自分が消耗してしまう不毛なものはありません。内面の癒しと充足感、自分に対して正直に、自分を裏切らずに生きている実感が積み重なると、自ずと外側からの評価に振り回されにくくなっていくでしょう。
ところで、人から蔑まれた時には怒りを感じつつ、自分の価値を自分で下げない、卑下したり自己否定したりしない態度とはどういうものでしょうか・・・?
池田理代子「オルフェウスの窓」に、帝政末期のロシアで、宮廷内で急速に権力を拡大していた怪僧ラスプーチンが、皇帝と姻戚関係にある若き軍人・ユスーポフ侯爵を侮辱し脅すシーンがあります。
側近はユスーポフに「あんなインチキ坊主の脅しなど氣になさる必要はありません。侯らしくもない」と諫言します。ユスーポフは「氣になどしてはおらん!不愉快なだけだ」と答えます。
つい見逃してしまいそうな些細な言葉のようですが、これが自尊感情が高い、境界線が強固なあり方だと思います。感じるべき怒りは感じつつ(「不愉快なだけだ」)、クヨクヨと氣に病まない(「氣になどしてはおらん!」)態度です。
ユスーポフは何故このような態度が瞬時に取れたのでしょうか?それは彼の固い信念と、その信念通りに生きてきた自負に支えられています。
そうだとも!このレオニード・ユスーポフがあんな素性も知れない成り上がりの坊主から あのようなことを言われる筋合いなどまったくないのだ!
私はいつだって皇帝陛下の忠実な下僕(しもべ)だった ものごころついた時から自分の生きる意義は皇帝と国家のために この身を捧げることにあると信じて疑わず 1度として陛下のおんためを思わずに行動したことなどなかった
この私が宮廷に災いをもたらすだと・・・!? クソ坊主がたわごとをほざけ!
「オルフェウスの窓」池田理代子
常日頃から言行一致するとは、こうした毅然とした、侮辱や脅しに屈しない態度を瞬時に取れるためでもあるのだと思います。その言行一致は、「皇帝陛下のおんために」といった壮大なことでなくても、私たちの日常の小さなことから始めることも、充分にできるのです。


