「墓に入った後も子供を苦しめ続ける」親の残酷な言動
親の残酷な言動の影響は、親が生きている間だけに留まらず、彼らの死後も子供にとっての呪縛となり得ます。ただ単に、親との関係性を断ち切るだけでは、不十分なことがよくわかる事例を、今回もスーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」から引用します。
39歳 TVのBGMの作曲家の女性
結婚式の時、彼女は生まれて初めて勇氣を出して自分の意思を通し、親には口出しさせずに自分たちのやりたい方法でやることにした。だが、その結果どうなったかというと、まず両親は結婚式に現れなかった。そればかりか、彼らは親戚中に彼女の悪口をふれてまわった。彼女は「可哀相な親の喜びを奪ったひどい娘」ということになってしまい、家族も親戚も皆口をきかなくなった。
それから数年後、母親は自分がガンであることを知った。ところが母は、自分が死んでも彼女にだけはそのことを知らせないようにと親戚中に伝えていた。彼女が母の死を知ったのは、死後五ヶ月たってからだった。父親に電話すると、「さぞいい氣持ちだろう。お前がお母さんを殺したようなものだ」という言葉が返ってきた。
父はその後も非難の言葉を吐き続け、それから三ヶ月後に死んだ。彼女の頭の中では、いまでも彼女を非難する両親の声が鳴り響き、それが首を締める。彼女が再発性のうつ病で入院したのは、そのためだった。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」
まさに地獄としか言いようがありません。この女性クライアントは、自殺を考えたこともありましたが、あの世でまた両親に再会するのはもっと嫌だと考え、自殺を思いとどまりました。
フォワードは以下のように解説しています。
彼女も親から苦しみを与えられたという事実の一部を認めることができたらが、それだけで罪悪感を完全に払拭することはできなかった。
その後、多少時間はかかったが、彼女は親の残酷な言動の責任はすべて親自身にある、という事実をはっきり受け入れることができた。その時彼女の両親は既に死んでいたが、彼女が親の亡霊からようやく解放され、本来の自分でいられるようになったのは、それから更に一年経ってからだった。
前掲書 下線は足立による
親による自己否定感の解消のためには「親に責任を返す」ことが必須
引用文の「親の残酷な言動の責任はすべて親自身にある、という事実をはっきり受け入れる」は大変重要です。親に埋め込まれた自己否定感は、この作業抜きに払拭できないと言って良いでしょう。しかし人はえてして、能力や評価を高めることで、自己否定感の埋め合わせをしようとすることがあります。
この女性クライアントは、TVのBGMの作曲家でした。誰もが簡単に就ける仕事ではありません。才能があり努力も当然したでしょう。それでも彼女の能力や評価が、人生の真の救いにはならなかったのです。
「親に責任を返す」という言葉は、それだけを見聞きしても、わかったようなわからないような、実感が伴いにくいものかもしれません。
これは子供が反射的に親をかばい、そしてその辻褄合わせのために「それは、僕が、私が悪かったからだ」と自己否定をしてしまう、それが何度も何度も繰り返される、この捻じれを取っていくためのものです。
自己否定と自己虐待の悪循環以下の二つの記事は、弊社のサイトの中でも継続的にアクセスがあります。即ちどれだけ多くの人が「自分にダメ出し」をし、「優しくされると辛くなる」かの証でしょう。わざわざ検索するのは「こんなことが自分の人生にず[…]
この記事では、2つのワークを紹介します。
ワーク①「○○については全て責任は親にある」
このワークはフォワードの「毒になる親」からの引用抜粋です。
静かに一人きりになれる時に、子供の頃の自分の姿を心に思い浮かべたり、子供の頃の写真があればそれに向かって、声に出して「君(あなた、○○ちゃん)には・・・についての責任はない」と言います。「・・・」には、以下の文章か合うものを当てはめます。
- 親が君のことを顧みず、放置して粗末に扱ったこと。
- 親が君のことを愛する価値がない人間のように扱ったこと。君が親に愛されていないと感じたこと。
- 親から残酷な言葉や思いやりのない言葉でからかわれたこと。
- 親からひどい言葉で口汚く罵られたこと。
- 親自身の不幸。
- 親が自分で抱えている問題。
- 親が自分の問題について何もしなかったこと。(※足立注:自分に向き合わなかったこと。放置したままだったこと)
これ以外にも、自分で思いついたことを付け加えてみても構いません。
そして、これを充分に行ったら、「私の親は・・・に責任がある」と声に出して言います。親に責任を返し、境界線を明確にします。フォワードは「頭でわかっていても、感情的に抵抗がなくなるまで、何度も繰り返して練習してほしい」と述べています。
ワーク②「おかしい/狂ってる/道義的責任があるのはどっちだ」
①のワークだけではしっくりこなかったり、どうしても抵抗が起きたり、自分に合う文章が思い浮かばない場合は、次のワークを試して頂ければと思います。
親からされた理不尽な出来事の場面を、「自分の姿が見えるように」客観でイメージします。その光景を横からか、斜め上から今の自分が眺めています。受ける印象がきつすぎて辛い時は、モノクロにし、TVの画面に入れて、自分から遠ざけて大きさを小さくします。ありありと鮮明にイメージできなくて構いません。何となく、ぼんやりでも充分です。
「この件に関して、おかしい/狂ってる/道義的責任がある/間違っている/変/めちゃくちゃ(等々、自分に合う言葉を選びます)なのはどっちだ」と自分に質問します。
そして、その場面の中の自分に向かって、「自由で幸福になるための」言葉をかけてあげます。
例えば
「関わるな」
「あなたは悪くない」
「逃げろ」
「相手にするな」
「ひどいことするよね」
等々になるでしょう。
「一発ぶん殴ってから逃げろ」
「死んでしまえと思ったって当たり前だよ」
など、大っぴらには口に出せない言葉でも構いません。
イメージを使ったワークですから、お行儀のよいお利口さんになるのは今だけでもやめて、自分の本音に正直になることが一番大切です。
①も②も、この記事で取り上げた事例で、つまり他人のことで練習してからの方が、やりやすいかもしれません。
このクライアントの女性に
「申し訳ないけど、あなたの親、狂ってるよ」
「ずっとひどい目に遭ってきたんでしょうね。本当に氣の毒です」
など、率直に、そして親身に言葉をかけると、その言葉そのものを自分の引き出しにできます。
自分がお花畑にも悲劇のヒロインにもならない
こうしたワークは、今回の事例で挙げたような他人のことなら難なくできても、自分の親に対しては何とも言えない辛さが湧き上がってくるかもしれません。他人なら「情けないけど、そういう人って世の中にいるんだね」とは思えても、親に対しては受け入れがたく感じたとしても、ごく自然です。
親への情けなさ、悔しさ、理不尽さ、そうした家庭に育ってしまった自分への悲しみ、虚しさも、否定しないことがとても大事です。
この痛みは、薄らぐことはあっても、まったく消えてしまうものではないのかもしれません。
子供や若い人たちが、屈託なく笑いあう姿に、もう若くない私たちはそれを眩しく感じます。こうした姿は、若いころの特権であり、美しさです。しかし、中年を過ぎても、屈託なく笑う「だけ」では、それはどこか歪なあり方のように思います。所謂「お花畑」と揶揄されるのは、理不尽さや葛藤から逃げ回り、ルンルンで楽しいことに現実逃避した、無責任なあり方だと、皆心のどこかで知っていればこそなのかもしれません。
だからと言って、悲劇のヒロインに自ら埋没するのもまた違います。
お花畑にも、悲劇のヒロインにもならない、その決意が責任と品位ある大人たらしめるのでしょう。自分がどちらかをやっていて、「親に責任を返す」ことは、どんなにこれらのワークをしたところで本質的にはできないのではと思います。親に限らず、人を支配したい人たちは、その心の隙を巧妙に突いてくるからです。
我が子を踏みにじる人は他人も愛せない
他人に対しては、「自分が嫌われたくない」保身のために、あからさまに人を見下したりはしなかったとしても、誰でもない我が子を踏みにじるような人は、本当のところで他人も愛せない、私はそのように観察しています。
エーリッヒ・フロムによれば、愛とは「尊重、配慮、知(関心・理解)、責任」の4つが実現されていることとされています。愛された時に、それを嬉しく思い、ありがたく受け取れることもとても大切です。そしてそれ以上に私たち大人は、日々どれくらい愛を遂行したかが問われているのでしょう。愛される一方で構わないのは、やはり子供の時だけ。だからこそ、子供は存分に愛されてよく、また愛される必要があるのだと思います。
フォワードが「責任を親に返す」と言っているのは、過剰で本来は不要な責任感が境界線を溶かしてしまい、依存や搾取されっぱなしの人生から、自分が解放されるためだと思います。
成人後、尊重、配慮、知(関心・理解)、責任を、意図して生きようとしない人は、人として生きているとは言い難い、私はそのように考えています。肉親であっても「人として生きているとは言い難い」人とは、浅く関わる、もしくは関わらなくても構わない。浅く関わることの深い意義が腑落ちするのも、大人としての成熟の一環のように思います。


