「子供は親の高枝切りばさみ。高枝切りばさみに自由意志はない」
コントロールばかりする親にとって、子供は自分の所有物であり、延長です。マジックハンドであり、高枝切りばさみです。子供がしたいことであっても、親が子供に望むことでなければ、彼らにとっての意味がありません。
高枝切りばさみが親の意向に沿わずに、全然違う枝を切り始めたら、「何だこれは!壊れている!ちゃんとあの枝を切れ!」と怒り出すのは、親の当然の権利くらいに思っています。
よくあるのは、子供の方はいわゆる「お嬢様学校」に進学することを希望せず、自分は「そんな柄」でもなく、別の高校大学へ進むことを希望していても、親のブランド志向のため「お嬢様学校」に無理やり進学させられる、と言った例です。進学先の学校で、先生や級友が良くしてくれたとしても、戻ってこない青春を親に台無しにされた悲しみは、時間が経っても消えないもののようです。
親の「言いなり良い子ちゃん」になるとは、親の高枝切りばさみに自らなるのと同じです。若い独身の内はまだそれで良かったとしても、結婚し、自分以外の家族に責任を持たなくてはならなくなると、高枝切りばさみでい続けることはもうできません。
毒になる親にとって子供の結婚は「自分たちの支配が及ばなくなる脅威」
子供がやがて結婚すると、コントロールする親はそれを「自分たちの支配が及ばなくなる脅威」と捉えます。子供が別世帯を構えて独立するのを喜び、安心するのではなく、「この高枝切りばさみが自分の命令通りにせず、嫁(婿)の言う通りになったらどうしよう」と身勝手極まりない妄想に囚われてしまいます。
コントロールしたがる親の子供は、成長してから結婚生活がうまくいかなくなることが多い。もっとも多いのが、結婚した相手と親との間に挟まれてしまうというものだ。親は子供の結婚相手を、子供をめぐる競争相手と感じるわけである。また、そうでなくても、彼らにとって子供の結婚は極めて大きな脅威となる。それは自分たちのコントロールの手が及ばなくなることを恐れるためである。
その結果は、結婚後の子供の生活ぶりに小言ばかり言う。結婚相手のことを認めようとしない。無視する。あるいは悪口を言う。または逆にやたらと相手の肩を持ち、自分の子供をけなす、などが典型的である。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」
36歳の男性クライアントは、両親と妻の板挟みにあってしまいました。
両親の結婚記念日に妻と一緒に帰郷することになっていたが、妻が流感にかかってしまったので行かれなくなったと電話すると、母が「もしお前が来なければ死んでしまう」と言う。やむなく、とんぼ返りのつもりで一人で行くと、両親は口を揃えて一週間泊まっていけと言い出した。その圧力を振り払って翌日帰ってくると、すぐ父が電話して「お母さんは病氣になってしまった。お前はお母さんを殺す氣か」と責めた。
両親はその後も妻を無視し続け、二人を訪ねてきたことも一度もなかった。だが両親に対しては強い態度を取ることができず、妻に非難されても「わかってくれ」と言う以外になかった。両親はその後もずっと妻に対してひどい態度を取り、二人を傷つけ続けた。
前掲書
子供は基本的に親に元氣で長生きしてほしいと願うものです。内心であっても、親に対して「死んでしまえ」と思ったり、実際に死んだ後にホッとするのは、心に相当な深い傷を負った結果です。
毒になる親は、この子供の「親に長生きしてほしい」無垢な望みを悪用し、「お前が○○しなければ私は死んでしまう」「お母さん(お父さん)を殺す氣か」などと脅します。死と言う言葉を使って人を脅すのは、最も卑怯な行為です。
この卑怯さに、相手が親であろうと、罪悪感ではなく嫌悪と怒りを感じて退ける、強い心を養う必要があります。「生き死には神様の思し召しだからね。私が殺したって、神様が生かすつもりなら死なないよ」「それだけ騒ぐ元氣があるなら、後100年はまだまだ死なないよ。私より長生きするんじゃない?」などと、口には出さなくても、心の中で思っているくらいで丁度です。
「私たち親と、嫁のどっちが大事なの?」の脅迫に、どう対処するかの手順を以下に述べて行きます。
①何を持って優先順位付けをしているか
私たちは自覚の有無に関わらず、何かと何かを天秤にかけて、それを選んでいます。今生きているということは、「死ぬよりかはまし」なものを選び続けた結果です。
何を選んだかという結果以上に、どんな動機でそれを選んだかが人生の質を決めています。店の掃除一つとっても、「ただ言われたから」「これがルーティンだから」なのか、「お客様に迷惑を掛けないように」なのか、「お客様に喜んでもらうために。少しでも良い時間を過ごしてもらうために」なのかで、積み重なるものが変わります。
「私たち親と、嫁のどっちが大事なの?」は、どちらを優先しているかとも言い換えられます。この時、「自分が嫌な思いをしないのはどちらか」という快不快の打算で選べば、より恐怖で脅してくる方を選んでしまうでしょう。毒になる親はそれがわかっていて、罪悪感を刺激するのです。反応的に生きてしまうとは、こうしたことです。
何をするにせよ、「何が自分の責任なのか」を問うていれば、自ずと答えは導かれます。結婚した人にとって、責任があるのは今の家庭です。既に巣立った実家ではありません。
また結婚しているしていない、子供がいるいない関わらず、全ての大人は次世代への責任があります。少なくとも、負の遺産を子孫に残してはいけないのです。仕事や家事の切り盛りで精一杯になりがちかもしれませんが、できる範囲で政治や社会の勉強をし、より正しい選択と意思表示をすることも、次世代への責任です。
「毒になる親に自分の時間的・精神的リソース(資源)を奪われない心がけ」は、自分のためだけではありません。親のエゴに振り回されることが、次世代への責任を果たすことよりも優先されてはいけないのです。
②「何が自分の責任か」が選択の動機になっていない例
上記のことは、言葉で説明されれば誰でも「それはそうだ」と思えることでしょう。これが頭でわかっているだけでなく、生き方に昇華されている必要があります。いざと言う時に、恐怖や罪悪感で動かされるのではなく、「何が自分の責任か」で瞬時に選択できるためです。
角度を変えて、「自分の責任を果たすこと」が選択の動機になっていない例を挙げてみます。
仕事ではなく、作業に逃げる
「責任を伴った判断業務」は、脳の前頭連合野を使うので疲れます。判断業務の合間に、意図的に作業の時間を入れて脳を休めるのなら、それも工夫の一つです。頭を使う仕事の合間に、家事を差し込んで脳をリフレッシュさせるなども同様です。そのことと、作業に逃げてしまうのは異なります。これは作業だけでなく、小休止も同じです。ダラダラ休みと、「脳を休ませるため」の休みを区別する、ということです。
お勉強をして何かをやった氣分になって満足する
お勉強好きあるあるでしょう。自戒を込めて書きますが、勉強になるYouTube動画がたくさんあって、好奇心の赴くままつい見たくなってしまいます。なまじ、お勉強の番組だと、視聴して好奇心を刺激されただけで、何か良いことをやった氣分になり、現実には自分の責任を果たしていない、そしてそれに氣づかないことがあります。
相手のニーズに反応的に応えてしまう
私が百貨店勤務時代、バイヤーをしていた時の話です。バイヤーは基本的に事務所で仕事をしているのですが、しばしば売り場の販売員から、売り場のカウンター業務の応援依頼が、私の社内PHSにかかってきました。その際、「何が自分の責任か」が念頭にないと、自分の仕事を後回しにし、反応的に売り場へ行ってしまいます。
「今は自分の仕事を後回しにしても良い時か、売り場の人にしばらく辛抱してもらうべき時か」を判断するのも私の責任です。これも脳の前頭連合野が使えていないと、「言われたから売り場に出る」をやってしまうのです。
「人から悪く思われたくないから○○する」打算があると、「何が責任か」で選べない
上記の続きになりますが、「ごめん、今は辛抱して。この仕事が終わったら行くわ」などと断っても、販売員の全員が理解を示すとは限りません。ただ不満を漏らす人もいるでしょう。その際「人から悪く思われたくない」が取捨選択の動機になっていると、断ることができません。
他にも、お客様が修理の依頼の品を持ち込むことがありますが、当店でお買い上げのものでなければ丁重にお断りし、その際はどこへ問い合わせすればよいかをお伝えするのが販売員の仕事です。それも「お断りしてお客様に嫌な顔をされたり、ごねられるのが面倒」「どうせダメだったら、上司がお客様に断ってくれる」安易さがあると、自分で断れません。上司の大事な時間を使わせ、またお客様にも却ってご迷惑を掛けます。
これも「目先のわが身可愛さ」の打算の方が、「何が自分の責任か」を上回っている例です。
③「何が自分の責任か」を自分に問うていると「No」に自信が持てる
上記のことは、他にも様々な例があるでしょう。ここまで読まれた方は、是非ご自身の日常に照らし合わせて、「自分の責任を果たすこと」が動機になっていない例を、探していただければと思います。日常的な言い回しにすれば「今、それやってる場合ちゃうやろ」です。
こうした頭の体操をするのは、「これらのことを絶対にやらないでください」だからではありません。人は皆弱いものですし、大なり小なり愚かさを抱えています。うっかりすると自分もやる、その前提に立ち、その自分に氣づけるための下準備です。
その上で「何が自分の責任か」で取捨選択する、その割合を増やす心がけが、何も意識していない時との違いを生み出します。意識していないと、毎日の仕事や家事で忙しく、責任を果たしているつもりになって、実際には「親の高枝切りばさみ」をやめられません。
「何が自分の責任か」で選択している自負があれば、自分の「No」に自信が持てます。即ち、境界線を育てることができます。
④「お母さんも妻も、どちらも大事な存在だよ。だけどより責任があるのは今の家庭だよ」
人は身近な人であろうと、見ず知らずの人であろうと、皆かけがえのない存在です。自分の子供に起きてはならないことは、よその知らないお子さんにも起きてはならないのです。その意味において、この世に他人事はありません。
そして一方、「誰に対して責任を負うのか」には明らかに濃淡があります。自分の子供を飢えさせておいて、よそのお子さんにご飯を食べさせるようなことはしません。能登半島の地震の復興がまるで手付かずなのに、海外に税金をばらまくことには、有権者は「それは違うでしょ」と反対しなければなりません。
「親の私と嫁と、どっちが大事なの?」の脅迫めいた問いに、「お母さんも妻も、僕にはどちらも大事な存在だよ。だけど僕にとって、より責任があるのは今の家庭だよ」と自信を持って答えられる。相手はそれに不満を持ち、理解しようとしなかったとしても、譲らない。自分の責任に目覚めるとは、その自分を育てるきっかけになるのです。