「子供は親の高枝切りばさみ。高枝切りばさみに自由意志はない!」
コントロールばかりする親にとって、子供は自分の所有物であり、延長になっています。身も蓋もない言い方をすれば、マジックハンドであり、高枝切りばさみとも例えられます。子供がしたいことであっても、親が子供に望むことでなければ、彼らにとっての意味がない、これでは子供は、自尊感情に支えられた真の自信が育めなくても当然だと思います。
高枝切りばさみが親の意向に沿わずに、全然違う枝を切り始めたら、「何だこれは!壊れている!ちゃんとあの枝を切れ!」と怒り出すのは、親の当然の権利くらいに思っている、そのようにイメージできると、親の理不尽さの本質が、何となくでも腑落ちするかもしれません。
また、子供の方はいわゆる「お嬢様学校」に進学することを希望せず、自分は「そんな柄」でもなく、別の高校大学へ進むことを希望していても、親のブランド志向のため「お嬢様学校」に無理やり進学させられる、と言った例もあります。進学先の学校で、先生や級友が良くしてくれたとしても、戻ってこない青春を親に台無しにされた悲しみは、どんなに時間が経ってもやはり消えないもののようです。
何年経っても消えない悔しさ・・何故?最も多い親との葛藤のご相談の中でも、進学先の進路や、結婚相手を親の体裁、世間体のために決められた恨みは、何年、何十年経っても消えるものではないようです。それは進学先の学校が自分に合わなか[…]
毒になる親にとって子供の結婚は「自分たちの支配が及ばなくなる脅威」
やがて子供が結婚すると、コントロールする親はそれを「自分たちの支配が及ばなくなる脅威」と捉えることがあります。子供が別世帯を構えて独立するのを喜び、安心するというよりも、「この高枝切りばさみが自分の命令通りにせず、嫁(婿)の言う通りになったらどうしよう」と、身勝手極まりない妄想に囚われることさえ、起きてしまうことがあります。
コントロールしたがる親の子供は、成長してから結婚生活がうまくいかなくなることが多い。もっとも多いのが、結婚した相手と親との間に挟まれてしまうというものだ。親は子供の結婚相手を、子供をめぐる競争相手と感じるわけである。また、そうでなくても、彼らにとって子供の結婚は極めて大きな脅威となる。それは自分たちのコントロールの手が及ばなくなることを恐れるためである。
その結果は、結婚後の子供の生活ぶりに小言ばかり言う。結婚相手のことを認めようとしない。無視する。あるいは悪口を言う。または逆にやたらと相手の肩を持ち、自分の子供をけなす、などが典型的である。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」
36歳の男性クライアントは、両親と妻の板挟みにあってしまいました。
両親の結婚記念日に妻と一緒に帰郷することになっていたが、妻が流感にかかってしまったので行かれなくなったと電話すると、母が「もしお前が来なければ死んでしまう」と言う。やむなく、とんぼ返りのつもりで一人で行くと、両親は口を揃えて一週間泊まっていけと言い出した。その圧力を振り払って翌日帰ってくると、すぐ父が電話して「お母さんは病氣になってしまった。お前はお母さんを殺す氣か」と責めた。
両親はその後も妻を無視し続け、二人を訪ねてきたことも一度もなかった。だが両親に対しては強い態度を取ることができず、妻に非難されても「わかってくれ」と言う以外になかった。両親はその後もずっと妻に対してひどい態度を取り、二人を傷つけ続けた。
前掲書
子供は基本的に、親に元氣で長生きしてほしいと願うものだと思います。内心であっても、親に対して「死んでしまえ」と思ったり、実際に死んだ後にホッとするのは、心に相当な深い傷を負った結果であり、好き好んでそんなことを感じたい子供はいないでしょう。そのように親を憎まなければならないことそのものが、身を切られるように辛い、心優しい人ほどそうなるだろうと思います。
毒になる親は、この子供の「親に長生きしてほしい」無垢な望みを利用し悪用し、「お前が○○しなければ私は死んでしまう」「お母さん(お父さん)を殺す氣か」などと脅すことがあります。死と言う言葉を使って人を脅すのは、最も卑怯な行為だと私は思います。
「生き死には神様の思し召しだからね。私が殺したって、神様が生かすつもりなら死なないよ」
「それだけ騒ぐ元氣があるなら、後100年はまだまだ死なないよ。私より長生きするんじゃない?」
などと、口には出さなくても、心の中で思っているくらいで丁度なのですが、罪悪感を根強く刷り込まれてしまっていると「それができればいいんだけど・・」になっても無理はありません。
以下に「私たち親と、嫁のどっちが大事なの?」の脅迫に、どう対処するかの手順を述べて行きます。
①何を持って優先順位付けをしているか
私たちは自覚の有無に関わらず、何かと何かを天秤にかけて、それを選んでいます。今生きているということは、「死ぬよりかはまし」なものを選び続けた結果でもあります。
何を選んだかという結果以上に、どんな動機でそれを選んだかが人生の質を決めていると言えるでしょう。店の掃除一つとっても、「ただ言われたから」「これがルーティンだから」なのか、「お客様に迷惑を掛けないように」なのか、「お客様に喜んでもらうために。少しでも良い時間を過ごしてもらうために」なのかで、積み重なるものが変わっていく、実感されている方も多いと思います。
「私たち親と、嫁のどっちが大事なの?」は、どちらを優先しているのかとも言い換えられます。この時、「自分が嫌な思いをしないのはどちらか」という目先の快不快、安心か不安かという反応で選べば、より恐怖で脅してくる方を選んでしまうでしょう。毒になる親はそれがわかっていて、罪悪感を刺激するのです。反応的に生きてしまうとは、こうしたことでもあります。
快不快、安心か不安かの反応から、「何が自分の責任なのか」の問いにシフトすると、自ずと答えは導かれるでしょう。結婚した人にとって、責任があるのは勿論今の家庭の方です。既に巣立った実家ではありません。
また結婚しているしていない、子供がいるいない関わらず、全ての大人には次世代への責任があります。少なくとも、負の遺産を子孫に残してはいけないと私は考えています。

「毒になる親に自分の時間的・精神的リソース(資源)を奪われない心がけ」は、自分が消耗しないためだけでは決してありません。親のエゴに振り回されることが、次世代への責任を果たすことよりも優先されてはいけない、そう改めて心に留めると、選択が変わっていくかもしれません。
②「お母さんも妻も、どちらも大事な存在だよ。だけどより責任があるのは今の家庭だよ」
人は身近な人であろうと、見ず知らずの人、地球の裏側にいる人であろうと、皆かけがえのない存在です。自分の子供に起きてはならないことは、よその知らないお子さんにも起きてはならない、その意味において、この世に他人事はない、私はそのように考えています。
そして一方で、「誰に対して責任を負うのか」には明らかに濃淡があります。自分の子供を飢えさせておいて、よそのお子さんにご飯を食べさせるようなことは誰もしません。
「親の私と嫁と、どっちが大事なの?」の脅迫めいた問いに、「お母さんも妻も、僕にはどちらも大事な存在だよ。だけど僕にとって、より責任があるのは今の家庭だよ」と自信を持って答えられる。相手はそれに不満を持ち、理解しようとしなかったとしても、譲らない。自分の責任に目覚めるとは、罪悪感による操作から自由になれるきっかけになり得るのだと思います。

