自分を蔑ろにした親をかばってしまうことの弊害
どんな子供も、「自分の親はまあまあ常識的な人で、子供の自分に愛情を注ぎ、承認してくれた」と信じたいものなのかもしれません。家庭の外に放り出されれば、生きて行く術のない未成年の子供が「親は私のことはどうでも良かった。どうでも良いどころか、妬み、嫌い、憎んでいた」と認めるのは、文字通り死んでしまうかのような恐怖を感じてもごく自然です。
ですので、子供は親がどんな理不尽なことをしても、反射的に見て見ぬふりをし、事実を捻じ曲げてでも親をかばってしまいます。そしてとても悲しいことに、親をかばうことの辻褄合わせのために、「それは、僕が、私が悪かったからだ」と自分を納得させようとし、結果自己否定感が積もってしまう、この連鎖に親も子も中々氣づけません。
しかしそれでもなお、子供は大人よりも理性が発達していない分、実は本能の奥底ではわかっているのだと思います。犬や猫でも、自分を愛していない飼い主のことは、その飼い主がどんなに取り繕って見せても見破り、警戒するのと同じようなものです。
片方の本能では「親は私を愛していない」と氣づき、もう一つの本能は「そんな筈はない!」と否定する。この終わらない綱引きが、成人後もかなり長い間、氣がつかなければ一生続いてしまうことがあります。
今回もスーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」より、事例を挙げて解説していきます。或る40代半ばの女性は、既に成人した娘に、フォワードのところへセラピーを受けに行くように説得されました。その女性はすぐに人につっかかって口論し、自制が効かなくなる性格を直さなければ、親子の縁を切ると娘から言われたのです。以下の引用は彼女の言葉です。
離婚した相手も含み、これまで付き合った男たちは皆去って行った。今、離婚しようとしている夫も全く同じパターンだ。いつも男運が悪く、合わない相手ばかり選んでしまう。つき合い始めたころは皆最高なのに、それがずっと続いたためしがない。父みたいな素晴らしい人はいないものかと思う。
小さな頃から母はいつも具合が悪く、いつも父が外に連れ出して遊んでくれた。だがその父は、ある日突然、家を出て行ってしまった。きっと、小うるさいことばかり言う母に愛想を尽かしたのだろう。その後は手紙も電話も、何一つ来なかった。父が戻ってくるのをずっと、待ち続けていたが、ついに帰っては来なかった。父には同情している。彼はとても活動的な人だったのだ。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」
怒りは向けるべき相手に向けなくてはならない
常識的に考えれば、ある日突然家を出て行き、その後何の連絡もしなくなった父親は、無責任極まりなく、身勝手で、彼女を愛しているとは決して言えません。
しかし私たちは、親に限ったことではなく、一旦信頼した他人に対して「あれ、おかしいな?」と思うことがあっても、「あの人のことだから、きっと何か理由があるに違いない」と直面化するのを避けようとしがちです。一旦築いた信頼関係を壊したくない人間の本能に加え、葛藤耐性が低い場合は、「自分は理不尽なことをされた」と怒ることが怖くなってしまうことがあります。葛藤耐性の低さとは、言葉を換えれば「傷つくのが怖い」とも言えます。人は「傷つくのが怖い」がために、現実の方を捻じ曲げる、そうした理屈に合わないことを無意識のうちにやってしまうのです。
しかもそれを「私は相手の良いところを見ようとしている」「私は寛容な人間だ。少なくともそう心がけている人間だ」などと言い訳することもあります。勿論これは自己欺瞞に過ぎません。「いい人ぶる」のは自分が傷つきたくないから、それを多くの人が口にこそ出さなくても、心の奥底で感じ取っているのではと思います。
心の奥底に押し込められた彼女の父親への怒りは、そのはけ口をつき合っていた男性たちに求めました。フォワードは以下のように解説しています。
彼女は自分から去って行った男たちを憎んでおり、自分は騙されて彼らを好きになり、利用されたと思っている。だが本当は、彼女が理想化して心に描いている父親こそ、彼女を幼い時に捨てたのである。もし彼女が若いうちにこの事実を認めてさえいれば、父親を理想化して考えることはなかったに違いない。彼女は父親に対して向けるべき不信感と怒りを他の男たちに向けていたのだ。
彼女は自分でも氣がつかないうちに、いつも決まって彼女を落胆させたり怒らせるようなことをする相手ばかり繰り返し選び続けていた。内側の怒りを世の中の男たちに向けて爆発させている限り、父親に対する怒りに氣づかないでいられたからである。
前掲書 下線は足立による
親の理想化は、一見無害で麗しいことのようですが、その皺寄せは無実の、そしてしばしば立場の弱い人が受けやすいのです。それが我が子になることも、悲しいことにまったく珍しくありません。
フォワードが指摘するように、この女性は父親に対する怒りを認め、父親にその怒りを向ける必要があるでしょう。しかし、いきなり彼女にそう言ったところで、拒絶反応が出るだけかもしれません。
この女性の発言からは、二つの課題が見て取れます。一つは上記の通り、「幼い時に彼女を捨てた父親」に対する、真の感情を取り戻すことです。
もう一つは、「父みたいな素晴らしい人はいないものかと思う」の発言に現れている通り、「白馬の王子様がこの世のどこかにいて、この惨めな生活から救い出してくれる」願望です。
私たちは大なり小なり「○○さえなければ/現れれば、私はたちどころに救われる」願望をいつの間にか持ってしまうものかもしれません。TVの「水戸黄門」も「ウルトラマン」も「ドラえもん」も、魔法使いの何とかちゃんも、この「救世主に救い出されたい」願望を満たそうとするものです。しかし現実には、そのような存在はこの世にはありません。それを待ち焦がれている間は、自分が「救い出されなければならない」悲劇のヒロインに自分を位置づけ、どんなに努力をしているつもりでも、自分を信じることはでなくなってしまいます。
以下は、この二つの課題にどう向き合っていくかの解説です。
①父親からもらえなかった愛情に向き合う⇒本当は寂しかった子供の自分
「父は素晴らしい人だった」「父のような人が現れないものか」彼女のこの思いにそのまま沿って、次のように尋ねてみます。「私たちはいつか死んで、あの世に行きます。そうすると、懐かしいあなたのお父さんにやっと再会できますね。その時、お父さんにどんな言葉をかけるでしょう・・・?」
「会いたかった」「長い間待っていた」「やっと会えて嬉しい」といった答えが返ってきたら、「長い長い間、じっと待って耐えていたあなたのインナーチャイルドに『良かったね』と言ってあげましょう。この長い間、インナーチャイルドはお父さんから何が欲しくて、ずっと待っていたと思いますか?」インナーチャイルド(内なる子供)と、大人の自分自身を分離し、客観視しやすくします。
「全面的に愛され、守られること」「優しいぬくもり」「笑顔で共にいてくれること」などが想定できます。「あなたのインナーチャイルドが、これらを待ち望んでいたのは当然のことですね。現実には余りに長い間、お父さんからもらえなかったので、寂しかったでしょうね。待ちくたびれていませんでしたか?どうでしょうか・・?」
もし「そうだ」という答えが返ってきたら「再会したお父さんに『寂しかったよ。待ちくたびれて辛かった』と言っても良いのですよ」と、彼女の寂しさや疲れ、悲しみに焦点をあてます。怒りは二次感情です。怒りの下の寂しさや悲しみを癒せれば、無理やり父親に怒りをぶつけなくても構わないのです。
怒りの沸点が低いとトラブルの元、しかし怒らないのが良いわけでもない喜怒哀楽、人間の様々な感情の中で、怒りほど扱いが難しく、奥が深いものはないかもしれません。「怒らない人」は温厚で面倒を起こさない、いわゆるいい人と思われてい[…]
「大丈夫。お父さんの方が可哀そうだもの」などと返ってくれば、「お父さんの大変さは大変さとして、お父さんに再会できた今、もう我慢する必要はなくなりましたよ」と「我慢して正直な氣持ちに蓋をする」必要はなくなったと提案します。
「ずっと待ってたのに、どうして戻って来てくれなかったの?私、我慢してたのよ」といった言葉が出れば、彼女の怒りを表現できています。後からでも大人の理性を使って、「子供の私を置き去りにして、私の氣持ちを顧みなかったのは、やはり父の身勝手だった」と自分で氣づけるための下準備です。
②「父親のような白馬の王子様に救い出されなければならない」になっていないか
上述した通り「○○さえ現れれば、○○さえ変われば、なくなれば、私はこの嫌な状況から救い出される」は、自分を被害者になりっぱなしにする、問題を慢性化する戦略です。この状態では「自分を信じて何か一歩踏み出す」ことを中々やらなくなってしまいます。「一歩を踏み出そうとしないから、自信が持てない」の逆もまた真なりです。そしてその結果、同じ問題が続いてしまいかねません。
知らず知らずのうちに自分から「ドツボに嵌る」以下の記事で「人は困難をどのように乗り越えているのか」について書きました。[sitecard subtitle=関連記事 url=https://prado-therapy.com[…]
この女性は父親を理想化する余り、見出しの通り「父親のような白馬の王子様に救い出されなければならない」に陥ってしまています。この状態では、どんな男性と出会っても、その人の嫌なところが見えた途端に落胆し、「相手に突っかかって口論する」が延々と続いてしまいかねません。
「父みたいな素晴らしい人はいないものかと思う」を、例えば「(父のような)素晴らしい上司はいないものか」と角度を変え、置き換えて考えてもらいます。自分の「理想の上司像」を、実際の上司に押し付けていると、いつまでたっても「自分の高すぎる期待値」に首を締められてしまいます。
「誰が上司でも、そんなに変わらないわよ」
「上司なんて『まあ、そんなもの』よ」
と現実を受け入れた上で、
「そうは言っても、やはり納得できないものは納得できない」
と自分の怒りをごまかさないことと、
「何であの上司は『私の理想の上司』のように振舞わないの!」
の違いを感じ取っていただけるかと思います。
上司であれ職場であれ、「全ての人が完全に満足する環境」は現実にはありえません。しかしその中でも、皆何とか頑張っています。ここまで読まれた皆さまも、そしてこの女性もそのはずです。上司や職場に不満はありながらも、娘を育て上げるために働いてきたでしょう。その娘は母親を「知らんわ、あんな人」と匙を投げて放り出すのではなく、フォワードを探し出す手間を取ってくれました。母親思いの娘と言っていいでしょう。
上司に置き換えてシュミレーションしましたが、これが恋人でも配偶者でも同じです。関係性がもっと密になり、また配偶者は運命共同体ですから、さらに慎重な見極めとコミュニケーションが必要になる、その違いがあるだけです。
自分の道筋を振り返り、「不満はある環境の中でも、何とか頑張ってきた自分。救世主に頼らなくても、自分で道を切り開ける自分」を思い出すこともできるでしょう。
「親の理想化」と「救世主に救い出されたい」の罠
どんな人も「親の理想化」と「救世主に救い出されたい」を、特に幼いうちはやってしまうものかもしれません。大人になるとは、現実に向き合い、受け入れ、失望に耐える力を養いながら「万人にとっての理想郷も、理想の人もいない。それでも皆、何とかやっている。私もその一人だ」と自然に思えることなのでしょう。
心が健全な親は、子供の失敗を慰め、励まし、また子供の自由意志を節度の中で尊重できます。そうやって、現実を受け入れて乗り越える力を子供が養えるよう、支えて行きます。毒になる親は、その力を養いきれないまま、親になってしまった人達と見ることができます。彼女の父親の責任放棄の原因は、まさにそれだったのです。
今回の事例においても、やはり「押し殺していた自分の氣持ちに正直になること」「『救い出してもらう』は楽だけれど、自分を信じなくなるだけと氣づく」という、誰にとっても、自分自身の人生を生きるに当たり、不可欠なことに行きつくように思います。


