「いつまた親が怒り狂い、自分たちを痛めつけるかわからない」
毒になる親は様々な方法で子供を苦しめますが、中でも「いつまた親が怒り狂い、自分たちを痛めつけるかわからない」ことほど、子供にとって恐ろしいものはないでしょう。
私がある大学院で開いたセミナーの受講者に、子供の頃いつも父親に殴られていたという二十七歳の男性がいた。彼によれば、一番恐ろしいのは父がいつ怒りを爆発させるのかわからないことだったと言う。彼は子供時代のほとんどを、父の怒りを待ち受けながら過ごしていたが、それはまるで、いつ押し寄せてくるかわからないがひとたび来たら避けることができない津波を待ち受けているようなものだった。
そのような生活は、彼の心に一生消えない恐怖心と孤独感を植え付けた。彼はまだ若いのに、既に結婚に二回失敗してたが、それは子供の頃に人を信頼することを学んだことがなかったからだった。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」
無力で養育者に全てを依存しなければ生きて行けない生まれたばかりの子供が、最も求めるものは愛情と安心です。おしめを替えてもらったり、お腹が空けば満たしてもらったりはその媒介となります。この繰り返しで、生後一年間の間に「基本的信頼」を人は学んでいきます。この愛情と安心を貰えないと、このクライアントの男性のように「基本的不信」を学んでしまいます。生後一年の間に学んだものが、基本的信頼か基本的不信かで、その子の一生の土台ができると言っても、決して過言ではありません。


生後一年を過ぎても、子供が愛情と安心、そして承認を求め続けるのには勿論変わりありません。親が子供に振るう暴力は、恐ろしいことに、その反対のもの、恐怖と非情、そして自己否定感を幼い心に植え付けてしまいます。これをされて、成人後「生きやすくなる」ことは決してないでしょう。
このクライアントの男性は大学院生でした。大学院には生半可な努力では進めません。しかしどんなに学業ができたところで、「一生消えない恐怖心と孤独感」を植え付けられてしまえば、幸福とも成功とも縁遠い人生に成ってしまいかねません。
親御さんが、お子さんの学校の成績が氣になるのは無理もないことです。我が子の将来を思えばこそでもあるでしょう。全くの無関心、無頓着もどうかと個人的には思います。しかしそれ以上に大事なことがあり、そしてそれは、学校のテストの成績のように数字で目に見えるものではありません。親自身が「人の痛みがわかるかどうか」が問われているのではと思います。
親が子供に暴力を振るう4つの理由
心が健全な親でも、子供を叩きたくなる衝動に駆られることはやはり起きるものなのかもしれません。
フォワードは長年の観察の結果、「子供に暴力を振るう親にはいくつかの共通した特徴がある」と指摘しています。以下はその特徴を4つに絞った解説です。
①衝動をコントロールする能力の欠如
怒りやフラストレーションを、反応的に「一番身近で、自分に反撃してこない、そして逃げられる心配のない」子供に向けてしまいます。
彼らの行動はストレスに対する反射的でほとんど自動的な反応に近く、衝動とそれに対する反応行動が直結してひとつになっているかのようだ。
前掲書
脳の前頭連合野がほとんど機能していないと言って良いでしょう。彼らは「こんなことをやってしまったらどうなるか」「こんなことをやってしまった結果、何が起きたか」を考えることができません。結果予測と結果検証は、共に前頭連合野が担います。良心や人の痛みを思いやる想像力も前頭連合野の領域です。
②自分自身も親から暴力を振るわれて育った
体罰が当たり前の家庭に育ち、それをまた自分も繰り返しています。私たちは良きにつけ悪しきにつけ、「親から育てられた通りに」子供を育てようとするものなのでしょう。自分の親が、怒りをそのまま子供への暴力で発散させることも、自分がそれに疑問すら持たず「自分もそうされたから」と繰り返してしまいます。
③子供の頃から大きなフラストレーションを抱えている
②のように「自分もそうされたから」と言って、心底納得できているわけでは当然ありません。暴力を振るわれた子供は、大きなフラストレーションを溜め、そして必要な愛情と安心はもらえず、心が満たされないまま、情緒面では子供じみた、仏教用語で言う餓鬼のまま成人してしまいます。
そして我が子を、心を満たしてくれなかった親の代わりにし、子供が自分の心を満たせないと激しく食って掛かります。これが暴力として現れます。
だが、その時、彼(彼女)が本当に激怒している相手は、その子供ではなく、自分の親なのである。
前掲書
当の親自身にその自覚はありません。まして、子供にそのようなことがわかりようもないでしょう。
④アルコールや薬物の依存症(その他は足立による補足)
過度で慢性的なアルコール摂取は、脳の前頭連合野を委縮させます。俗な言い方をすれば「脳が溶ける」のです。自制心をつかさどるのは前頭連合野です。フォワードはアルコールと薬物を挙げていますが、近年では、精製された小麦や白砂糖などの糖質摂取の偏り、それに反比例したたんぱく質やビタミン・ミネラル不足もその原因に挙げられています。
ドーパミンやセロトニンなどの神経伝達物質は、主にはタンパク質、そして鉄やナイアシン(ビタミンB3)を原料とします。質的栄養不足も心の不調の原因になっていて、心理療法と合わせて体の面からのアプローチも必要です。
心をつくるタンパク質 ~神経伝達物質~
私たちはみな心を持っています。
私たちが嬉しい、悲しい、と感じられるのも、タンパク質のおかげです。タンパク質が材料となって心の素(神経伝達物質)がつくられていきます。
私たちの心はセロトニンやGABAといった神経伝達物質のやりとりが頭の中でバランスよく行われることで、毎日さわやかに過ごせています。
この神経伝達物質をつくるタンパク質を十分に摂ってこそ、私たちの心は穏やかでいられるのです。
一般社団法人 オーソモレキュラー 栄養医学研究所HP
生命の基本 タンパク質 タンパク質とは何でしょう? 生命の根底をつくる最も大切な栄養素、それがタンパク質です。…
また長期間のストレスも、前頭連合野を委縮させます。時に人間が「火事場の馬鹿力」を出せるのは、前頭連合野のストッパーを瞬時に解除するからです。しかしそれは、一生に一度か二度あるかないかの、火事場だから受け入れられることです。またどんな人も、過度なストレスがかかると「何も考えられない。考えたくない」状態に陥りがちです。つまりそれ程思考、即ち前頭連合野はエネルギーを使うのです。こうした緊急時には、生き延びるために、前頭連合野を「ストップさせる」。しかしこれが常態化すると、前頭連合野が使えなくなり、委縮してしまいかねません。
特に発育段階にある子供に、安心してリラックスでき、のびのびと遊べることがどれほど大切かだと思います。それは判断選択、健全な自制心、良心や想像力を担う前頭連合野を時間をかけて育てるためでもあります。家庭のみならず、社会全体が平和で温かく、将来に希望が持てることも、大人以上に子供にとっても不可欠なことなのではと思います。
暴力を振るいながら時折見せる親の愛情に、必死にしがみつく子供
この大学院生のクライアントの父親は、暴力を振るうばかりでなく、不思議なことに、時折息子に優しく接することもありました。
父は機嫌のいい時には面白い人間になったり、たまには優しくなることさえあった。ある時などスキー大会に参加させてくれて、その練習のために十時間も車を運転してスキー場まで連れて行ってくれたこともあった。その帰り道には「お前は大切な息子だ」と言ってくれた。今でもその光景を必死で思い出そうとすることがよくある。
前掲書 下線は足立による
首尾一貫性のない、場当たり的な自分の機嫌や都合だけで、相手に優しくしたり、時には「いないかのように」振舞ったり、邪険にしたりする人間はこの世にいると、経験を積んだ人ならわかるかもしれません。執拗な嫁いびりをしながら、死ぬまで嫁と同居して、自分の世話をさせる姑が、氣まぐれで嫁に優しくするようなものと言えるでしょう。その嫁が「人として嫌い。受け入れられない」のでは必ずしもありません。普段は自分の負の感情のサンドバッグにし、時には「お人形さん遊び」のおもちゃにしていると、色々な経験を積んだ、中年を過ぎた大人ならわかるのではないでしょうか・・?しかし子供には、自分の親が機嫌次第で、子供である自分をサンドバッグやおもちゃにしているなどとは想像もできないでしょう。
子供はこの氣まぐれな親の優しさに、とても悲しいことに、真の愛を見つけ出そうと必死になります。そしてそれは、引用の通り、成人後も続き、子供を混乱させてしまいます。こうした親の氣まぐれが、成人した子供が「事実は何だったか」に向き合うことを更に困難にさせるのです。
「自分が悪いのではなかった」と認めることへの恐れ
客観的に見れば、悪いのは親であって、子供ではありません。少々子供が聞き分けが悪かったり、親を困らせることをしたからと言って、或いは自分自身に子供の頃からのトラウマがあるからと言って、親が自分の鬱憤晴らしに子供を痛めつけて良い理由には決してなりません。
心が健全な親でも、時にはつい八つ当たりめいたことを言ったりしたりしてしまうものかもしれません。しかし、良心が死んでいなければ、子供との信頼関係を築き直そうとするのではないかと思います。子供が自分に怯え、怒り、悲しむことに心を痛め、親である自分に心を閉ざしてしまうことに後悔すればこそなのでしょう。
それでもなお、当の子供自身が、成人後も「自分が悪いのではなかった」と認めるのは、実際には大変ハードルが高いのです。氣持ちの優しい、所謂「良い子」ほどそうなりがちです。そして皮肉なことに、こうした氣持ちの優しい良い子ほど、毒になる親にとっての格好のターゲットはありません。
「自分が悪いのではなかった」と認めるということは、裏を返せば「悪いのは親だった」と認めることと言えるでしょう。「自分の親がとんでもないクズだった」と認め、その事実を受け入れるのは、葛藤耐性の強さ、言い換えれば失望に耐える力が要求され、それはいつでも誰にでもできることでは、やはりないようです。そしてこの失望は、他人へのそれと違い、徐々に薄らぐことはあっても、生涯ついてまわることもやはりありえます。
厚く重い心の鎧から、「No」が言える境界線へ
子供時代に常に緊張と不安にさらされ、苦しみを強いられてきた人間は、成長するとともに、自分を防衛するために常に心身を硬くこわばらせた人間になっていく。それは精神的な鎧をまとっているようなものだ。しかし、そうやって自分を守っているつもりでも、それは他人を近づかせないということであり、自分を牢獄に閉じ込めているようなものだ。
前掲書
親からの身体的な暴力であれ、残酷な暴言であれ、過剰なコントロールやかまい過ぎであれ、様々な厚く重い心の鎧をまとわざるを得なかったことに、思い当たる節がある人も多いかもしれません。大変痛ましいことですが、誰も好き好んで、そんな鎧をまといたいのではありません。
私たちはしばしば「私がこんな厚く重い鎧をまとわずに済むように、あなたが変わって」を、どうしてもやりたくなるものなのでしょう。人間はそうしたもの、「お前いい加減にしろ!」と内心であっても叫びたくなる自分もなくなりはしない、その前提に立ちながら、鎧ではなく境界線を育てる、これが自尊感情豊かな、成熟した人間になることではないかと思います。
境界線は壁ではなく、柵と例えられます。通氣性があり、柵越しに話をすることも出来ます。柵の扉を開け閉めして「良いものは内へ、悪いものは外へ」のためにあります。そして境界線とは「No」を言うことです。「No」を言うには、大人はそれなりの根拠と、それを言うことへの責任が伴います。人が自分のわがままではない「No」を中々言えないのは、一つには選択責任を負いたくないためなのかもしれません。選択とは、選ばなかった何かは失うことであり、即ち美味しいとこどり、両方得ることはないということです。その意味での「No」が言えなければ、盲従ではない真の「Yes」もまた言えない、そのように私は考えています。
人間関係で疲れている時は自分の境界線を見直すサイン人間の悩みは突き詰めれば人間関係になります。そして私たちは往々にして、自分を傷つけた相手を恨んだり責めたり、そして相手に「反省して変わってほしい」と願います。しかし、反省は[…]
恐怖心と孤独から身を守るための鎧ではなく、柵である境界線を育てること。これにも時として息の長い努力が必要になることがあります。しかし、境界線を育てる、その意義と習慣が身に着けば、親への失望は消えなくても、恐怖と罪悪感に怯えて暮らすことはもうなくなる、そのように私は信じています。


