自尊感情を高める7つの習慣① ネガティブな感情を受け止める

自尊感情は無条件のもの

自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感です。

お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など条件で自分を肯定していると、その条件が消えたとたんになくなってしまいます。

自尊感情はこうした条件に左右されません。「100点取ったら愛してやる!」とは180度違う心のあり方です。

ところで、自己否定感が強く、特に「親や大人にとっての都合のいい子」で育ってきた人の中には、いわゆるネガティブな感情を否定する傾向があります。
怒っちゃいけない、妬んだり憎んだりする自分は醜い、寂しい顔を見せてはいけない、等々。

人間の感情を大別すると快か不快に別れます。人間は快は感じたいし、不快は感じたくありません。
ですので、反射的に不快な感情を抑圧する癖がついている人は、決して少なくありません。

ただ、快=喜び、幸福、楽しさ=善、不快=怒り、悲しみ、妬み、寂しさ=悪、とレッテル貼りをしてしまうと、自分を追い詰めてしまいます。
快=善、では必ずしもありません。「しめしめ、あいつをだまして上手くいった」とか、「ざまあみやがれ」なども快の感情です。

快か不快かの感情は、このこと自体に良い悪いはありません。ただ「この状況に自分が満足しているか、満足していないか」のサインに過ぎません。

不快な感情を「ネガティブ」と表現するようになったのは、もしかすると本能を封じ込め、弱らせるための洗脳だったかもしれません。嫌悪感、怒り、違和感は、自分の身に危険が差し迫っていることを教えてくれるレーダーでもあります。これらの感情を感じず、表現しなくなった野生動物は死んでしまいます。幼い子供たちが元氣一杯なのは、自分の感情を恥じたりせず、素直に表現するからです。

不動明王や仁王の怒りの表情にもまた、私たちは深い感銘を受けます。こうした怒りの大切さを、現代の私たちはなおざりにしているかもしれません。

どんな感情もジャッジせず、ただ「何に対して、どのように喜んでいるのか/悲しんでいるのか/傷ついているのか」の見極めが、「そのままの自分を過不足なく知る」客観視の出発点になります。

「どんな感情もOKだ」が「どんな自分もOKだ」の自尊感情の基礎になります。

不快な感情を便宜上、或いは現在の社会通念上「ネガティブ」と記述していますが、喜びや楽しさと同じように、大切な感情であることには変わりありません。但し大人は幼い子供と違って、いつでもそのまま素直に表現して良いわけではなく、時には「顔で笑って心で泣いて」が求められることもあります。「心で泣いている自分」を大事にし、かつ溺れないのが、自尊感情の豊かな態度です。

不適切な行動化と身体化

不快な感情の処理を誤り、不適切な行動化と、体の症状に出る身体化が問題とされるだけです。

不快な感情を、自分がしっかりと受け止めないと、その感情が無意識のうちにダダもらしになり、自分の外側に飛び出てしまいます。これが不適切な行動化です。わかりやすい例は八つ当たり、いじめや嫌がらせ、逆切れなどです。かまってちゃんや察してちゃんも不適切な行動化です。

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何かうまくいかなかった時に、「同じようなことがまた起きた時、次はどうする」の具体的な行動レベルを改める反省ではなく、「(だって、どうせ)私はダメだ(から)」と自分を責めて思考停止する、これも不適切な行動化です。思考停止(「考えたくない、認めたくない」)は非常に多い不適切な行動化です。

思考停止が脳にとっての「サイレント・キラー」である理由は、思考停止をすればするほど、大脳の前の方、前頭連合野の神経細胞に「刈込み」が起きてしまうからです。脳が勝手に「あ、この神経細胞はいらないんだな」と判断して、どんどんちょん切ってしまうのです。体の筋肉が使わなければ衰えるのと一緒です。

前頭連合野は、人間の人間らしさや成熟、思考や判断選択を担う箇所です。前頭連合野を損傷しても、人間は生きていくことはできます。しかし「人間らしく」生きていくことはできません。判断選択ができないと、ただ流されるだけの指示待ち人間、飼いならされた家畜、ロボットになってしまいます。

心理セラピーは、「普段自分では考えない質問」をセラピストから受けて、「普段考えないことを考える」そして再び、前頭連合野の神経細胞を増やすことでもあります。ですから、クライアント様にもそれなりのエネルギーが必要です。

自尊感情が高い人にも、嫌なことは起きます。ただ不快な感情と真正面から向き合い、否定も言い訳もせずしっかり受け止めているから、不適切な行動化に出ないのです。否定ではなく、自制する心を育てています。自制心は人間の成熟の条件の一つです。これも前頭連合野が担います。

そして結果的に他人から見て「あの人はいい人ね」になります。しかし当の本人は、怒りや悔しさや、時には恨みや憎しみの感情に向き合っているので、自分をいい人だとは思っていません。

自尊感情豊かに生きるとは、「いい人でいたい、いい人でなくてはならない」から解放され、「私はいい人でなくても大丈夫」と心底思えることです。だからこそ、時には恨みを買うのも覚悟の上で、自分の信念を貫く勇氣を持てます。

「そう感じたことを、どう感じていますか?」

家族療法の第一人者のバージニア・サティアが、クライアントにした質問があります。

「あなたはそのことをどう感じていますか?そしてそう感じたことを、どう感じていますか?」

心にとって重要なのは、二番目の質問です。

自尊感情が低い間は、「こんなことで怒る自分が情けない」とか、「あの人のせいで、こんな不快な気持ちにさせられた」など「不快な感情を排除したい」になりがちです。「そう感じたこと」に許可を出せていないからです。自尊感情高く生きるとは、憎しみにも恨みにも罪悪感を持たず、かと言って責任転嫁もしないことです。それが自分だ、ということです。

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もっと自尊感情が下がると、屈辱的な扱いをされたり、利用されていても氣づけません。怒ることすらできなくなります。「私が悪かったのかな?」「あの人のことだから、きっと何か事情があるに違いない」になりがちです。いじめが続いてしまうのは、いじめられた側が、自分をないがしろにされていても怒れない(「馬鹿にするな!」「何してくれる!」)のも理由の一つです。

殊に親にとっての都合の良い子のまま、反抗期らしい反抗期がないまま中年期を迎えると、様々な弊害が起こります。責任が重くなる中年以降、ただ「会社が、世間が、みんながこう言うから、するから」で流されていては、守るべき人たちを守れません。

まず、自分の感情に素直になってみましょう。怒りや悲しみや悔しさは、「今のこの状況に私は傷ついている」というサインです。怒りなら怒りを感じる自分に、もう一人の自分がそれを押さえつけずに受けとめます。小さな子供が泣きじゃくっている時に、「泣かないの!」と押さえつけるのではなく、泣きたいだけ泣かせてあげると、子供はいつか自然に泣き止みます。大人の感情も実は同じです。

そして私たちは小さな子供ではなく大人なので、「何が嫌だったのか」「何が許せなかったのか」と自問することができます。そしてその答えが、自分自身です。

自分を見失わない、正直に生きるとは、全ての感情を恥じたり罰したりしない習慣が基礎になってこそなのです。

「どう感じているのか?」を言葉にする練習

自分の感情がよくわからない、という人はそう珍しくありません。

人は喜びでも怒りでも、「嬉しかった」「腹が立った」と感情を表す言葉で表現する方が少ないかもしれません。「あの人がああして、こうして・・・」という「起きた出来事」のディティールを延々と語ることの方が多いでしょう。

「あの人がああして、こうして・・・」を延々と語り続けると、「起きた出来事」と「それを自分がどう感じたか」がいっしょくたになったコップの中の嵐に、自分からまきこまれてしまいます。うっぷん晴らしにはなったとしても、「何が起こったか」「そしてそのことを自分はどう感じたか」の客観視にはなりません。

この状態では、サティアの「そう感じたことを、どう感じていますか?」以前の問題です。「そう感じた」ことさえ、わかっていないからです。

まずは「あの人がああして、こうして・・・」の「起きた出来事」を、「どう感じたのか」、「悔しい」「腹が立つ」「情けない」「ショックだ」「嫌だ」「傷ついた」等の、感情を表す言葉で表現してみましょう。言語化は客観視と自己共感の最初の一歩です。

「これこれの出来事を、『情けない』と感じた/『すごく嫌』だった/『うんざり』していた/『ショック』だった」と言葉にした瞬間、コップの中の嵐を外から眺めることができます。

「起きた出来事」と「それを自分がどう感じたか」は、本来二つの別々のものです。同じことが起きても、「それを自分がどう感じたか」は人により千差万別です。これに良い悪いはありません。

しかし脳は大変素早く反応するので、どんな人であってもこの二つがいっしょくたになりがちです。そしていっしょくたになったことが、「動かしがたいこの世の真実」であるかのように捉えてしまいます。「あいつは悪魔だ!(と思うくらい傷ついた)」・・・そう思うのは理由があってのことですし、そう思ってもいいのです。ただ、「あの人は悪魔だ」がこの世の真実かどうかは別の話です。

また「起きてしまった出来事」は自分ではどうにもできませんが、「それを自分がどう感じるのか」は変えることができます。そして変えたければ変えることができるし、変えたくなければ変えなくてもいいのです。

サティアの質問の通り、「そう感じたことをどう感じたか」が問われるのですから、「あいつは悪魔だ!(と思うくらい傷ついた)」でかまいません。しかし「そう感じたことをどう感じたか」のためには、まず「そう感じたこと(この場合は「私は傷ついた」)」を自分がわかっていなくては何も始まりません。

感情は無意識からあふれ出すもの。それを言葉にすること、即ち言語化とは意識化することです。人は無意識を意識化して初めて、客観視できます。

そして単に言葉にするだけではなく「本当に『傷ついた』/『情けなかった』/『嫌だった』/『うんざりだった』/『ショックだった』んだなあ」と自分に共感することにより、自分への思いやりを育めます。思いやりは自尊感情の重要な要素です。

良心、倫理観、品位という歯止め

ネガティブな感情をしっかり受け止めるのは、不快な感情に対する耐性を高めるためでもあります。すなわち自制心です。

快は感じたい、不快は排除したいで生きていると、少しでも不快なことは、それが当然やるべきことであろうと、それをしなければ周囲がどんなに傷つこうと、「どんな理由をつけてでも、直ちに排除しようとする」をやってしまいかねません。

責任転嫁、嘘をついてでも言い逃れをする、相手が真剣に訴えても聞きたくないことはスルーする、今の目先の、自分さえ楽で得で、いい思いをすればいい。これらは不快を排除し、快だけを求める生き方の現れです。これをやっている間は、口ではどんなにご立派なことを言っていても、サティアの「そう感じたことをどう感じたか」の試験に合格していません。

ちなみに犯罪とは「努力なしに刹那的な欲求、つまり快を満たそうとする行為」です。犯罪でなくても、人が深く傷つき、中々癒されないのはこの「まっとうな努力なしに、刹那的な快を満たすために自分の存在を利用された時」です。

良心の呵責や倫理観(「こんなことをしたらどんなに相手が傷つくか、だからやらない)、品位(「こんなことをするのは自分が恥ずかしい、だからやらない」)は、快か不快かと言えば不快な反応です。これらの不快な反応が、私たちの選択と行動の歯止めになります。

私たち人間は社会的動物です。良心、倫理観、品位を失えば、生物学的には人間であっても、精神的・社会的には人間になりそこないます。

誰にとっても永遠の課題である思いやりは、ふんわりと甘く優しいものではなく、「人の痛みを自分の痛みのように感じる」ある種の不快に耐えられるかということです。即ち厳しさが伴います。思いやりは共感と想像力の掛け合わせであり、勇氣と知恵と実践力がいる難しいものです。そしてこの思いやりも、自分の感情に寄り添えなければ、他人の痛みに寄り添うことは尚更できません。

良心、倫理観、品位という歯止めを、より高いレベルで保ち続けるためにも、「不快な感情はOKだ」にしておく必要があるのです。

より建設的な判断力のための、違和感という不快な反応

また私たちの人生は、大小取り混ぜ無数の判断の連続です。よりよく生きるとは、私たちの判断力を現実に即した、より建設的なものに磨き続けることでもあるでしょう。大人は子供と違って、誰かが自分に成り代わって判断をしてはくれません。

脳は単純化、一般化をしたがりますが、現実は複雑です。この脳と現実のギャップを埋め続ける習慣をつけること、このことが思考の柔軟性、そして結果的には生きやすさをもたらします。生きやすさとは、体が柔軟な方が動きやすく、けがをしにくいのと同じように、「楽に」生きられることであって、「楽が」できることとは異なります。

ところで判断とは、実は瞬時の快/不快でざっくりと大別し、そして後から「~だから」と根拠をくっつけています。

ですから、「みんなは『これがいい』『この人がいい』と言うけれど、私はどうしてもそう思えない」という違和感も、判断力のためには大変重要です。そして違和感は不快な反応です。

「あれ、何か変だな・・・」程度の違和感は、ごく小さいものでしょう。しかしできるだけ小さいうちにキャッチし、あらゆる角度から考えてみる、この思考の訓練が健全な判断力となり、私たちの身を守ります。

不快な反応を恐れず、受け止める力を養うと、この違和感を小さな段階でキャッチできるようになります。

「傷つくことを恐れるな」困難を乗り越える勇氣

ネガティブな感情を受け止めるとは、昔から言い古された言葉で言えば「傷つくことを恐れるな」、もう少し丁寧に言えば「傷つくことを恐れない自分になる」ことです。勿論これは、誰かのサンドバッグになることでは決してありません。

繰り返しになりますが、起きたこと、感じたことをあるがままに受け止め、「本当に辛かったんだなあ」と自己共感し、自分に「ダメじゃん!」も「だって・・・」もやらない、ということです。

自尊感情豊かに生きるとは、どんなに怖くても不安でも、自分を励まし困難を乗り越えていくこと。そして誰に氣づかれなくても「私はやればできる」と自分に対して思えること。或いは思い通りにいかなかったとしても、学びを得て、他人と比べてではなく以前よりも賢く強い自分になること。

その生き方をしている自負があればこそ、「何もかもがうまくできるわけではないけれど、自分は自分でいい」と思えるようにおのずとなっていきます。

【音声版・自尊感情を高める習慣・6回コース】

1回約20分、6回コースの音声教材です。

第1回 自尊感情とは何か。何故大事か
第2回 全ての感情を受け止め、否定しないことの重要性
第3回 「何が嫌だったか」を自分に質問する。目的語を補う
第4回 期待通りに成らない現実を受け入れざるを得ない時
第5回 小さな一歩を踏み出す・最低限のラインを決める
第6回 人生が変わるのは知識ではなく氣づき

第1回目は無料で提供しています。まず一週間、毎日聴き、ワークに取り組んでみて下さい。その後更に日常の中で実践してみたくなったら、6回分の音声教材(税込5500円)をご購入下さい。

🔗第1回・要約・氣づきメモ

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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。