簡単には言えない「本当に辛かったこと」
ほぼ初対面だったり、浅い関係なのに自分の重い不幸話、「親に虐待された」「家庭内暴力があった」「再々大けがを負った」といったことを、聞いてもないのに話し出す人は時々います。浅い関係だからこそ「何でいきなりそんなことを話すの?」とも言えず、「失礼な態度を取ってはいけない」と神妙な面持ちで聞きはするけれども、何か違和感が残るものでしょう。
ショックな出来事の直後は別ですが、本当に心が深く傷ついたことは、時間がたてばたつほど、通常人はそうたやすく口に出せないものです。
当時の辛い感情を追体験しなくてはなりませんし、また聞き手の無理解にさらされれば尚更、かえって傷が深くなるため、心から信頼している相手でない限り、そうそう話せない方が自然です。
これはセラピストやカウンセラーに対してもです。最初はどちらかと言えば話しやすい職場の悩みなどから入り、セッションの回数を重ねた後、セラピストに対して「この人に打ち明けても大丈夫」と、心の奥底でOKを出せてようやく、ぽろっと話す、それも長々とは話さないものです。
愚痴や不平不満であってさえ、見栄や遠慮が働く浅い間柄の相手、つまり「まだお互い氣を遣っている間」はそうペラペラしゃべりません。
或いは心理系のワークショップなどで、デモンストレーションやペアワークでそうしたテーマを持ち出すことは、よくよく考えれば不自然なことです。
これは一体どのような意図があってのことでしょうか・・・?
同情を引こうとすることが相手を支配する手段に使われる
ところで、精神疾患の一種にミュンヒハウゼン症候群があります。ミュンヒハウゼンとは「ほらふき男爵」と言われたドイツ貴族の名前です。周囲の関心や同情を引くために、病氣を装ったり、時にはわざわざ自分の体を傷つけたりすることです。病氣やけがを治す氣はそもそもありません。
「解決する氣のない、同情を引きたいための不幸話」をする人、世間で言う「不幸好き」は、広義のミュンヒハウゼン症候群と考えていいでしょう。ある程度経験を積んだ医療関係者やカウンセラー、セラピストで、このミュンヒハウゼン症候群の患者・クライアントに悩まされたことのない人は、まずいません。
客観的に見れば「それを続けておきたい」わけで、即ち本当のところは余裕があるのです。熱湯や氷水に突き落とされれば、誰だってそこから飛び出そうとします。セラピー・セッションでは「もっと困ってから来てください」と打ち切ることもあります。
多くの人は同情心から「ああ気の毒に、どうにかしてあげたい」と思うと、親身になって色々手助けをしようとします。しかし「不幸話」を浅い間柄の人にペラペラしゃべる人は、どんなに助け船を出されても色々理由をつけて自分から拒否します。「だって・・」「でも・・」
「不幸話」が解決してしまったら、同情を引けなくなるからです。
そしてまた、そのうち助け船を出す方が疲れてくる、弱ってくる、この「人が弱っていくのを見るのが元気の素」これが本当の目的です。
また、同情心は関係づくりのために手っ取り早いのです。ナンパ師がターゲットにした女の子をちやほやして、偽の信頼関係を築こうとするのと相似形です。ちやほやの代わりに、同情を引こうとするとイメージして頂ければと思います。
そして人は、一旦築いた信頼関係を失いたくない心理が働きます。信頼関係が築けたと相手が安心すると、突然嫌なことを言ったりしたりします。そして信頼関係を失いたくないがばかりに「私が悪いことをしたかな?」と自分を責めてしまう、こうなると相手の思う壺です。
同情を引こうとするだけでなく、迎合したり持ち上げたり、心配するふりをしたり、時には親切でさえ、相手を支配する手段として使われることがあります。
こうした非常に歪んだ支配欲を満足させたい、これには自覚がないので、何度でも繰り返します。ごくごく普通に見える人でも、無自覚に繰り返す人は少なくありません。
こうした人には、腹も立つし抗議したくもなりますが、まず刺激しないこと、そしてさりげなく引きさがって距離を開けるのが一番です。
氣持ちが優しく、人に尽くす人ほど「カモ」にされやすい
関係がまだ浅いのに、トラウマ的なことを話す相手には、氣持ちが優しく、真面目で純情な人、そして悪く言えば世間知らずな人ほどターゲットにされやすいです。自己価値感の低さを埋め合わせるために、自己犠牲を払う癖のある人は要注意です。
「私はこんなに我慢してるのに!」といつか爆発することも自己主張が苦手だったり、「自分は我慢して相手に譲ることが常に美徳」と思い込んでいると、「自分さえ我慢すれば」が癖になってしまうことがあります。見返りを求めずに相手のため[…]
意地悪な人、冷たい人、また世間の裏も表も知り尽くしている海千山千の人はターゲットにされません。
自我が強く、巻き込まれにくい人、「自分の人生は自分の責任」が芯から腑に落ち、胆識がある人もターゲットにはされません。「それであなたはどうしたいの?その不幸好き、いつまでやってるの?」と自分に責任を負わされたくないからです。
人の不幸に心を痛め、「どうにかしてあげたい」と反射的に思う、そうした人間の心の動きをよく知り、利用しようとします。
しかし後述しますが、この「どうにかしてあげたい」は実は思い上がりであり、真の思いやりではありません。
行動に移す人は美辞麗句を振りかざさない
また不幸話をペラペラしゃべる人は、美談や美辞麗句を語りたがる傾向があるようです。
地道な実践の積み重ねがなく、中身が薄い人ほど美辞麗句を振りかざします。そして「○○さん、さすがです」「素晴らしいです」と言ってもらうと喜んだり、或いは口にするだけで自分がヒューマニストになったような氣分になっています。不幸話をして関心を引こうとすることの、バリエーションとも言えるでしょう。
しかし、口で「人を大事に」「思いやり」「感謝」と言っても、行動が伴わなければ人を大事にしている人でも、思いやりがある人でも、恩に報いている人でもありません。
が、人は案外、こうした人にころりと騙されてしまいがちです。
真に自分に自信がある人は、氣づきを行動に移します。行動に移せばこそまた氣づきが深まります。
真に自分に自信があるとは、そのままの自分を受け入れる自己受容度が高いということです。なので、「人を大事にしている/思いやっている/感謝している人だということにしておきたい」即ち偽善はなくなります。また、失敗談を面白おかしく話すことはあっても、仰々しい言葉で自分を飾ることをしません。
自信がある人ほど、基本的に自分のことはー相手の理解を促すための、自分の体験談以外はー話さない傾向にあります。ですから、意外と目立たない、少なくとも目立とうとはしないのも特徴です。
第一印象は覆りにくいからこそ
見るからに意地悪そうな人は、こちらも最初から用心します。しかし実際には、そのような人はそうたくさんはいません。
「人が弱っていくのを見るのが元気の素」の人は、最初の印象は悪くありません。人当たりが良かったり、か弱そうに見える人だったりすることすらあります。
最初から警戒されては「人が弱っていくのを見るのが元気の素」を得られないからです。また社会的地位が高い人の中にも少なからず存在します。ですので、肩書きに惑わされないことも大切です。
第一印象は中々覆りにくいです。
ですから初対面の人に会う場合は、ごく普通の社会人なら身だしなみや挨拶などに充分に留意するでしょう。
その一方で「第一印象が全てではない」も心に留めておくと、結果的に自分と相手を守ります。
「あなたを何とかしてあげたい」は思い上がり
その人の責任ではない不幸ー犯罪、いじめ、病氣や災害などーに見舞われた際、周囲の支えは不可欠です。孤立は心の傷を深め、共感は心の重荷を軽くします。また違う見方ができるだけで、現実そのものは変わっていなくても、心が解放されて楽になった経験がある人も多いでしょう。相談はそのためにするものです。しかし、人に相談はしても、立ち上がっていくのはその人を措いて他ありません。
互いに助け合う心がなければ、人間はロボットになり下がってしまいます。そのことと、まるで困ったことが起きればドラえもんに泣きついて、4次元ポケットから魔法のグッズを取り出して解決してもらってばかりののび太に、相手をさせてしまうこととは、はっきりと区別する必要があります。「あなたを何とかしてあげたい」は、のび太にとって都合の良いドラえもんに、自分がなろうとしていないか、それは癒着であり、思い上がりなのですが、共感性の高い人ほど陥りやすい罠でもあります。
自尊感情の高さとは、「あなたを何とかしてあげたい」の思い上がりがなくなることでもあります。そして自分にとって大事なことを行動に移す、言行一致の生き方をしていればこそ、関係が浅いうちの不幸話にすぐ違和感を感じ、結果的に巻き込まれにくくなります。
自尊感情の豊かさによる生きやすさとは、こうしたことにも表れています。