「正しい/正しくない」から「何が大事か」へ
人が心が深く傷つくのは、自分が大事にしていたものを傷つけられた時です。
どうでもいい、というのはある種の救いで、どうでもいいことには私たちは余り悩みません。
クライアント様のお話に耳を傾けている中で重要視していることの一つは、クライアント様の価値観は何か、人生において何を大事にされているのかを探ることです。
「○○さんは☆☆を大事にされているんですね。何回も☆☆についてお話しなさってますね」
「○○さんは☆☆が大切だからこそ、そのことに傷つかれたのですね」
「○○さんは☆☆をないがしろにされたからこそ、そのことが許せなかったのですね」
などと私からフィードバックを得ると
「ああ、そうだったんだ」
と自分で自分の輪郭が明確になっていくようです。そして結果的に、自分の選択に自信を持てるようになっていかれます。
辛い気持ちをなかったことにせず、向き合うことの意義はこうしたことにもあります。
価値観のない人はいません。しかし多くの人は
「貴方は何を大事に生きていますか?」
と尋ねられても、通常即答できません。
これは価値観は、顕在意識(頭)ではなく潜在意識(心)のレベルのことだからです。
つまり人は、常日頃余り意識できていません。
人は自分が大事だと思っていることを大事にできていない時に、フラストレーションを感じます。どんなに簡単なことでも意義を見つけられない、「どうしてこんなことしなくちゃならないの?」と思うことには中々手がつけられない、そう言う経験をした人も多いでしょう。
その反対に、少々大変なことでも「心からこれが大事だ」と思えていることならそう苦にはなりません。
楽が出来ること、嫌なことが起きないことが自尊感情を高めるわけではなく、それが人間の真の幸福というわけではありません。
「生きるべきWhyを知る者は、人生のほとんど全てのHowに耐える」
(V・E・フランクル「夜と霧」に引用されたニーチェの言葉)
人間の脳は「正しい/正しくない」のジャッジをしたがりますが、これで生きてしまうと「自分は『正しい/正しくない』」になりかねません。そして「正解を求めてしまう」生き方をやめられません。これは更に言えば「間違いたくない」「失敗したくない」になり、思い切ったチャレンジができなくなります。
チャレンジができない自分とは、自信が持てない自分ということです。そして「誰かに何とかしてほしい」「誰かに決めてもらって、自分はその後についていきたい。そうすれば正しくても間違っても、自分は責任を取らなくて済む」に陥ってしまいます。「自分は責任を取らなくて済む」の生き方をしている人が、他人から信頼されることはありません。
「正しい/正しくない」から「何が大事か」の生き方にシフトすること。状況によって「何が大事か」は刻々と変わります。あらかじめ決まり切った「正解」は、本当はどこにもありません。
そして「何が大事か」の判断を瞬時に下せるためにこそ、自分の価値観を明確にしておく必要があります。
価値観が明確になると「ぶれない自分」に
また価値観は、その人のアイデンティティの土台になるものです。
能力や評価がその人の自信に必ずしもなるわけではありません。これらは「失われうる」ものだからです。「何を大事に生きているか」が明確な人が、能力や評価に関係なく、真に自信のある、いわゆる「ぶれない」人なのです。
「ぶれない」とは頑固一徹で梃子でも判断を覆さないということではありません。時には状況の変化に応じ、判断と選択を変える柔軟性も生きやすさのためには必要です。
「ぶれない」とは自分のアイデンティティがゆるがないということです。あちらがこう言ったからあちらへ、こちらがそうしたからこちらへという、自分の外側の価値基準にー参考にし、取捨選択することはあってもー振り回されないあり方のことです。アイデンティティがゆるがないからこそ、状況に応じた柔軟性を発揮できるとも言えるでしょう。
自尊感情を高めるとは「自分は自分でいい」「自分を生きている」「良くも悪くも『自分はこうだ』。それ以上でもそれ以下でもない」と自分に対して思えること、ぶれない自分になることです。
よく「好きなことを仕事にしましょう」と言われますが、これは好きなことをやっていれば成功するなどという甘いことではなく、「自分を生きている」実感が困難を乗り越えるバネになるからです。嫌いなこと、即ち価値観にそぐわないことでは「自分を生きている」実感は中々得にくいものです。
かつてユニクロの柳井社長と、日本電産の永守社長が対談された時、最初から最後まで「好き嫌い」の話だったそうです。価値観とは「好き嫌い」でもあります。お二人のような立場にいる人は、日々重い決断の連続です。彼らの安くないお給料はその「決断代」です。
そしてあれくらいの立場になると、A案B案C案のいずれも、最初から「これはダメだろう」と言うものは上がってこず、「やってみなければわからない」類のものになります。ですから結局、自分の「好き嫌い」で決断するしかなく、その感度を如何に磨いているかにかかってきます。
価値観を明確にするために
柳井社長や永守社長のように、「自分は何が好きで何が嫌いか」「どんな価値観に沿って生きているか」「何を大事に生きているか」が明確になっている人は、そう多くはないようです。
価値観のない人はいません。しかし価値観を明確にし続けるには、心の感度を上げる不断の習慣が必要です。つまり意識的に生きることです。これは誰かが成り代わってやってくれることではありません。
意識的に生きるとは、思考停止してボーっと生きる、誰かに判断をゆだねて自分はその後についていくという「楽な」生き方ではありません。習慣にならなければ、結構面倒くさいものです(「自尊感情を高める7つの習慣」は、習慣になりきるまではいずれも面倒くさいものです)。だからこそ、多くの人は「何が大事か」がわからなくなってしまっています。
① 心の感度を上げる/何に心が動いたか
価値観を明確にするためには、一つには冒頭に書いた通り「自分は何に心を動かされたか」に向き合い、考えることです。
価値観とは理屈抜きのこと、頭で考えて選ぶものではありません。嫌なことでも、素晴らしいと感じたことでも、それは自分の心が動いたことです。
肝心なことは、世間の眼よりも何よりも、君自身がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に君の魂で知ることだ。そうして、心底から、立派な人間になりたいという気持ちを起こすことだ。
いいことをいいことだとし、悪いことを悪いことだとし、一つ一つ判断してゆくときにも、いつでも、君の胸からわき出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはならない。北見君の口癖じゃあないが、「誰がなんていったってー」というくらいな、心の張りがなければならないんだ。
(吉野源三郎「君たちはどう生きるか」)
「世間での評価が高いから」「有名人だから」「成功しているから」ではなく、自分の心が「これは得難いことだ」「本当に立派な態度だ」、或いは逆に「(みんなはこれがいい、この人がすごいと言うけれど)私はどうしてもそう思えない」と感じ取っているか、ということです。
この心の感度を上げるにつれて、本当に立派な人ほど目立たない、少なくとも自ら目立とうとはしない(芸能人であっても、一流の人ほど「町ですれ違ってもわからない」ものだと思います)ことを実感していきます。また見逃しそうな小さなことほど、大切なことであり、大事を為す人はその小さなことを決してないがしろにはしないこともわかっていきます。
「何に心が動いたか」は自分が発見するものです。
嬉しいことでも嫌なことでも、「外側から降ってくる」僥倖や災難とだけ受け取るのではなく、「私は何が素晴らしいと感じたのか」「何を嫌だと思ったのか」と自分に問い、向き合う習慣が心の感度を高めていきます。
感動する心を養うことも、「あるがままの自分を大切にする」自尊感情のためには必須なのです。
② 日々の優先順位づけを意識する
そしてもう一つは、日々の優先順位付けを意識することです。
私たちは自覚の有無にかかわらず、必ず何かと何かを天秤にかけて選んでいます。しぶしぶ、嫌々「させられた」と思ったことでも、「それよりも嫌なこと」よりもそちらを選んでいます。極論すれば、今生きているということは、「死ぬよりかはまし」なものを選び続けてきた、ということです。
部屋が散らかっていても、約束の時間に遅刻しないことの方が大事なら、部屋の片づけは後でする、こうしたことはたいていの人が自ずとやっています。
私たちの日常、そして人生は、大小無数の選択の連続です。この選択の際に「今のこの状況では、何を優先するのか」を意識すると、「日々自分が何を大事に生きているか」が明確になっていくでしょう。
レストランのウエイター、ウエイトレスさんが、どんなにお客さんが立て込んでも、あわてずに落ち着いて動き回れるのは、瞬間瞬間に「今は何を優先するべきか」を考えているからです。
「今入ってきたお客様を席へ案内するのか」「オーダーを取りに行くのか」「出来上がった料理を運ぶのか」「レジで会計をするのか」「お客様が帰った後のテーブルを片づけるのか」これらは、どれも大事な仕事で優劣はありません。しかし優先順位は刻々と変わります。
価値観を明確にする目的のひとつは、優先順位を明確にし、自分なりに納得できる選択をするためです。「ああ、あれもできてない、これもできていない」「できない私はダメだ」ではなく、「何もかも一遍にはできないけれど、納得した選択ができている」この納得感が「自分は自分でいい」という自己受容につながります。
自尊感情を高めるとは、完璧な自分になることではなく、納得できる人生を歩むためのものです。
②-補足:劣位順位を付けられるために「完璧な自分でなくてOK」
そしてまた、優先順位を付けるとは、裏から言えば劣位順位を付けることでもあります。「(今は)これはやらない」順位が劣位順位です。
劣位順位を付けられるためには、「何もかもができる自分でなくていい」「完璧な自分でなくてOKだ」と思えていることが背景にあります。「私は全てにおいて完璧でなくてはならない!」だと、劣位順位は付けられず、そうなると優先順位も付けられません。「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」に毎日毎日追われる日々になってしまいます。
また逆に、劣位順位即ち優先順位を付けるからこそ、「完璧な自分でなくてOKだ」という暗示を自分の潜在意識に入れることができます。
質と量、或いは質とスピード、どちらもできればそれに越したことはありませんが、状況によってはいずれかを優先せざるを得ないことも起きます。どちらかを犠牲にせざるを得ない時、「全てにおいて完璧にはできない」ことを受け入れるとともに、「どちらかを犠牲にしたこと」に責任を持つ態度が必要とされます。
ここでも、「自分の選択に責任を持つこと」抜きには、優先順位も劣位順位も付けられず、結果自分の価値観が不明確なままになってしまいます。
「正解を求めてしまう」生き方とは、「この世のどこかにあらかじめ決まった正解があって、それに沿っておけば自分の判断に責任を持たずに済む」態度から来ているのかもしれません。
「誰かに『それで間違ってないよ』と言ってほしい」仕事においては、自分の立場によっては、勝手に判断せずに上位者に判断を仰ぐことも大切です。しかし自分の生き方まで「誰かに『それで間違ってないよ』と言ってほしい」のままでは、成熟した大人とは言えません。
だからこそ、「自分にとって何が大事か」を自分の心がわかっていることが不可欠です。
目標達成のためには、目標が価値観の上に立脚してこそ
目標が達成する時、それには様々な要素がからんでいます。何が欲しいのかの目標と、何をするべきかの課題が明確になっていること、そして「何故、それを達成したいのか」の動機が非常に重要です。
会社の目標がノルマ、即ち「嫌々、しぶしぶ」果たさなければならない枷になっていると、目標は中々達成しません。心からそれが大事と思うことでなければ、努力や創意工夫を粘り強くしようとしたり、どんなに怖くても勇気を出すことを、人はやりたがらないものです。
目標とは中長期的なことばかりではなく、「今、この場の」ことでもあります。
突然クレーマーが店頭に現れる。「誰それさんがあなたのことを△△って言ってたわよ~」と万座の前で言われる。「それなんぼほど言わすねん!」ということを相手がやる。こうしたことはあらかじめ予測がつきません。突然起きます。
そうした時、「ああ、嫌なことが起こった」だけに留めてしまわずに(「嫌だなあ」と思っていいのですが)、瞬時に
「自分にとって何が大事か」(価値観)
「欲しいものは何か」(目標)
「何ができるか」(手段)
「それは自分だけでなく全体にとってどうなのか」(全体への影響)
こうした質問を自分にするかしないかが、振り回される人生になるか、主体的に生きる人生になるかの分かれ道です。
中長期的なものであれ、今、この場のことであれ、自分が欲しいもの、つまり目標が単なるエゴの産物ではなく、「何を大事に生きているか」の価値観の上に立脚していること、それを日々生きることが、自尊感情を高める習慣の一つです。
そしてその欲しいものが手に入るか入らないかは、自尊感情にとっては実は重要ではありません。仮に手に入らなかったとしても、「大事と思うことを大事にしようとした自分」への誇り、自分に対する納得感が、自尊感情の中身なのです。