自尊感情は無条件のもの
自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感です。
お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など条件で自分を肯定していると、その条件が消えたとたんになくなってしまいます。
自尊感情はこうした条件に左右されません。「100点取ったら愛してやる!」とは180度違う心のあり方です。
ところで、自己否定感が強く、特に「親や大人にとっての都合のいい子」で育ってきた人の中には、いわゆるネガティブな感情を否定する傾向があります。
怒っちゃいけない、妬んだり憎んだりする自分は醜い、寂しい顔を見せてはいけない、等々。
人間の感情を大別すると快か不快に別れます。人間は快は感じたいし、不快は感じたくありません。
ですので、反射的に不快な感情を抑圧する癖がついている人は、決して少なくありません。
ただ、快=喜び、幸福、楽しさ=善、不快=怒り、悲しみ、妬み、寂しさ=悪、とレッテル貼りをしてしまうと、自分を追い詰めてしまいます。
快=善、では必ずしもありません。「しめしめ、あいつをだまして上手くいった」とか、「ざまあみやがれ」なども快の感情です。
快か不快かの感情は、このこと自体に良い悪いはありません。ただ「この状況に自分が満足しているか、満足していないか」のサインに過ぎません。
不快な感情を「ネガティブ」と表現するようになったのは、もしかすると本能を封じ込め、弱らせるための洗脳だったかもしれません。嫌悪感、怒り、違和感は、自分の身に危険が差し迫っていることを教えてくれるレーダーでもあります。これらの感情を感じず、表現しなくなった野生動物は死んでしまいます。幼い子供たちが元氣一杯なのは、自分の感情を恥じたりせず、素直に表現するからです。
不動明王や仁王の怒りの表情にもまた、私たちは深い感銘を受けます。こうした怒りの大切さを、現代の私たちはなおざりにしているかもしれません。
抑圧から抑制(自制)へ
不快な感情を、自分がしっかり意識的に受け止めず、反射的に抑えつける、心理学的に言うと抑圧する、これをやったことがない人はまずいません。ネガティブな感情を良くないもの、厄介者扱いし、なおかつ「いい子でいたい」と真っ先にやる心理的防衛です。
自我という「心のダム」様々な心理的な問題は、自我という「心のダム」が未熟で脆く、弱いか、大きくて強く、しなやかで成熟しているかに帰結します。この「心のダム」を様々なストレスから守ろうとして、ほぼ無意識的に行うのが心理的防衛[…]
しかし抑圧された感情は消えてなくなるわけではありません。無意識の内に立場の弱い人に八つ当たりしたり、いじめや嫌がらせをするなどの不適切な行動化に出たり、行動化しない場合は、何だかわからないけれどやる氣が出ない、毎日が楽しくなく、氣持ちが塞ぐ、甘いものばかり食べたくなる、或いはアトピーなどの体の症状に出たりします。これを身体化と言います。また行動化は、他人に向かうだけではありません。他人に向けるのが怖いと「だって、どうせ、私がダメだから」ということにして、自分を責め続けることも少なくありません。
自尊感情豊かな人も、怒りやくやしさを感じていないわけではありません。寧ろ、価値観や信念が明確になるので、怒りを感じることはより多くなります。次元の低いことにはいちいち関わろうとしませんが、「これは譲れない」ことには全身全霊で拒絶するようになります。
自分は何を嫌悪し、何に怒りを感じ、何が不安なのかと自己対話しています。これは感情に溺れ、振り回され、埋没するのではありません。それらの嫌悪や怒りや不安を、否定せずに受けとめ、意識化し、そしてどう言動に出すか出さないかの判断を一回一回しています。「キレ散らかして」ダダ洩らしにはしません。つまり抑制しています。言うべき時には、感情的にならず、言葉やタイミングを選び、相手に配慮をしつつ、但し毅然と伝える態度です。この態度を自制と言います。
勿論時には、自制的に伝えるだけではすまず、しっかり怒りを吐き出すことが必要になることも人生には起きます。
他人への怒りとは異なる親への怒りの根深さ親に対する怒りは、他人へのそれとは根本的に異なります。近所の人、友人、恋人、配偶者、職場の上司や部下、取引先には、その時はほとほと困っても、余程のことでない限り、縁が切れれば時間の経過ととも[…]
怒りに留まらず、恨みや憎しみ、呪いにすらなる自分をきれいごとでごまかしません。だからこそ、「それも込みの自分」という自己受容が深まります。これらの経験を重ねるごとに「自分は全然いい人ではない」とわかっていきます。なので、「思いやりワクチン」だとか、「あなたがそんな人だと思わなかったわ」などの、罪悪感を刺激されて操作されることを、瞬時に一蹴できるようになるのです。
この抑制・自制は、「自分の感情は自分のもの」という、自分の心のあり方に責任を持つ態度です。理不尽な行為には抗議をしても、状況の被害者にはならない、被害者になりっぱなしになることを潔しとしなくなる、それが自尊感情豊かな、真の誇り高さです。
「そう感じたことを、どう感じていますか?」
家族療法の第一人者のバージニア・サティアが、クライアントにした質問があります。
「あなたはそのことをどう感じていますか?そしてそう感じたことを、どう感じていますか?」
心にとって重要なのは、二番目の質問です。
自尊感情が低い間は、「こんなことで怒る自分が情けない」とか、「あの人のせいで、こんな不快な気持ちにさせられた」など「不快な感情を排除したい」になりがちです。「そう感じたこと」に許可を出せていないからです。自尊感情高く生きるとは、憎しみにも恨みにも罪悪感を持たず、かと言って責任転嫁もしないことです。それが自分だ、ということです。
クライアント様が共通して達する境地”This is me. ”弊社のクライアント様のご相談内容や、置かれている状況は千差万別です。しかし、自分と向き合うことから逃げず、「今の自分にできる小さな一歩」を馬鹿にせずにコツコツと取り組ま[…]
もっと自尊感情が下がると、屈辱的な扱いをされたり、利用されていても氣づけません。怒ることすらできなくなります。「私が悪かったのかな?」「あの人のことだから、きっと何か事情があるに違いない」になりがちです。いじめが続いてしまうのは、いじめられた側が、自分をないがしろにされていても怒れない(「馬鹿にするな!」「何してくれる!」)のも理由の一つです。
殊に親にとっての都合の良い子のまま、反抗期らしい反抗期がないまま中年期を迎えると、様々な弊害が起こります。責任が重くなる中年以降、ただ「会社が、世間が、みんながこう言うから、するから」で流されていては、守るべき人たちを守れません。それは「No」を言う境界線がまったくない状態です。
人間関係で疲れている時は自分の境界線を見直すサイン人間の悩みは突き詰めれば人間関係になります。そして私たちは往々にして、自分を傷つけた相手を恨んだり責めたり、そして相手に「反省して変わってほしい」と願います。しかし、反省は[…]
「どう感じているのか?」を言葉にする練習
自分の感情がよくわからない、という人はそう珍しくありません。
人は喜びでも怒りでも、「嬉しかった」「腹が立った」と感情を表す言葉で表現する方が少ないかもしれません。「あの人がああして、こうして・・・」という「起きた出来事」のディティールを延々と語ることの方が多いでしょう。
「あの人がああして、こうして・・・」を延々と語り続けると、「起きた出来事」と「それを自分がどう感じたか」がいっしょくたになったコップの中の嵐に、自分からまきこまれてしまいます。うっぷん晴らしにはなったとしても、「何が起こったか」「そしてそのことを自分はどう感じたか」の客観視にはなりません。
この状態では、サティアの「そう感じたことを、どう感じていますか?」以前の問題です。「そう感じた」ことさえ、わかっていないからです。
まずは「あの人がああして、こうして・・・」の「起きた出来事」を、「どう感じたのか」、「悔しい」「腹が立つ」「情けない」「ショックだ」「嫌だ」「傷ついた」等の、感情を表す言葉で表現してみましょう。言語化は客観視と自己共感の最初の一歩です。
「これこれの出来事を、『情けない』と感じた/『すごく嫌』だった/『うんざり』していた/『ショック』だった」と言葉にした瞬間、コップの中の嵐を外から眺めることができます。
「起きた出来事」と「それを自分がどう感じたか」は、本来二つの別々のものです。同じことが起きても、「それを自分がどう感じたか」は人により千差万別です。これに良い悪いはありません。
しかし脳は大変素早く反応するので、どんな人であってもこの二つがいっしょくたになりがちです。そしていっしょくたになったことが、「動かしがたいこの世の真実」であるかのように捉えてしまいます。「あいつは悪魔だ!(と思うくらい傷ついた)」・・・そう思うのは理由があってのことですし、そう思ってもいいのです。ただ、「あの人は悪魔だ」がこの世の真実かどうかは別の話です。
また「起きてしまった出来事」は自分ではどうにもできませんが、「それを自分がどう感じるのか」は変えることができます。そして変えたければ変えることができるし、変えたくなければ変えなくてもいいのです。
サティアの質問の通り、「そう感じたことをどう感じたか」が問われるのですから、「あいつは悪魔だ!(と思うくらい傷ついた)」でかまいません。しかし「そう感じたことをどう感じたか」のためには、まず「そう感じたこと(この場合は「私は傷ついた」)」を自分がわかっていなくては何も始まりません。
感情は無意識からあふれ出すもの。それを言葉にすること、即ち言語化とは意識化することです。人は無意識を意識化して初めて、客観視できます。
そして単に言葉にするだけではなく「本当に『傷ついた』/『情けなかった』/『嫌だった』/『うんざりだった』/『ショックだった』んだなあ」と自分に共感することにより、自分への思いやりを育めます。思いやりは自尊感情の重要な要素です。
良心、倫理観、品位という歯止め
快は感じたい、不快は排除したいで生きていると、少しでも不快なことは、それが当然やるべきことであろうと、それをしなければ周囲がどんなに傷つこうと、「どんな理由をつけてでも、直ちに排除しようとする」をやってしまいかねません。
責任転嫁、嘘をついてでも言い逃れをする、相手が真剣に訴えても聞きたくないことはスルーする、今の目先の、自分さえ楽で得で、いい思いをすればいい。これらは不快を排除し、快だけを求める生き方の現れです。これをやっている間は、口ではどんなにご立派なことを言っていても、サティアの「そう感じたことをどう感じたか」の試験に合格していません。
ちなみに犯罪とは「努力なしに刹那的な欲求、つまり快を満たそうとする行為」です。犯罪でなくても、人が深く傷つき、中々癒されないのはこの「まっとうな努力なしに、刹那的な快を満たすために自分の存在を利用された時」です。
良心の呵責や倫理観(「こんなことをしたらどんなに相手が傷つくか、だからやらない)、品位(「こんなことをするのは自分が恥ずかしい、だからやらない」)は、快か不快かと言えば不快な反応です。これらの不快な反応が、私たちの選択と行動の歯止めになります。
私たち人間は社会的動物です。良心、倫理観、品位を失えば、生物学的には人間であっても、精神的・社会的には人間になりそこないます。
誰にとっても永遠の課題である思いやりは、ふんわりと甘く優しいものではなく、「人の痛みを自分の痛みのように感じる」ある種の不快に耐えられるかということです。即ち厳しさが伴います。思いやりは共感と想像力の掛け合わせであり、勇氣と知恵と実践力がいる難しいものです。そしてこの思いやりも、自分の感情に寄り添えなければ、他人の痛みに寄り添うことは尚更できません。
良心、倫理観、品位という歯止めを、より高いレベルで保ち続けるためにも、「不快な感情はOKだ」にしておく必要があるのです。
心理セラピーにおいても、クライアント様のこの歯止めがどのレベルになっているかで、成否が決まると言っても過言ではありません。私はクライアント様の歯止めを再確認するきっかけは提供できても、歯止めそのものを差し上げることはできません。
より建設的な判断力のための、違和感という不快な反応
また私たちの人生は、大小取り混ぜ無数の判断の連続です。よりよく生きるとは、私たちの判断力を現実に即した、より建設的なものに磨き続けることでもあるでしょう。大人は子供と違って、誰かが自分に成り代わって判断をしてはくれません。
脳は単純化、一般化をしたがりますが、現実は複雑です。この脳と現実のギャップを埋め続ける習慣をつけること、このことが思考の柔軟性、そして結果的には生きやすさをもたらします。生きやすさとは、体が柔軟な方が動きやすく、けがをしにくいのと同じように、「楽に」生きられることであって、「楽が」できることとは異なります。
ところで判断とは、実は瞬時の快/不快でざっくりと大別し、そして後から「~だから」と根拠をくっつけています。
ですから、「みんなは『これがいい』『この人がいい』と言うけれど、私はどうしてもそう思えない」という違和感も、判断力のためには大変重要です。そして違和感は不快な反応です。
「あれ、何か変だな・・・」程度の違和感は、ごく小さいものでしょう。しかしできるだけ小さいうちにキャッチし、あらゆる角度から考えてみる、この思考の訓練が健全な判断力となり、私たちの身を守ります。
騙されるとは、前後の矛盾に氣づかない、違和感を自分から無視し続けることです。2025年7月現在、コロナ騒動開始から丸5年が経過しても、炎天下でもマスクを外さない人達は、本能が教えてくれる筈の違和感がすっかり摩耗してしまったのでしょう。この緩慢な自殺をもう誰も止めようがありません。自尊感情の低さここに極まれりです。
不快な感情や違和感を否定しないのは、生き抜くための鉄の直観の条件なのです。
葛藤耐性の高さが自尊感情の豊かさに
ネガティブな感情を受け止めるとは、昔から言い古された言葉で言えば「傷つくことを恐れるな」、もう少し丁寧に言えば「傷つくことを恐れない自分になる」ことです。勿論これは、誰かのサンドバッグになることでは決してありません。
自尊感情豊かに生きるとは、言い換えれば葛藤耐性が高くなることです。人は葛藤しない時、自分を変えようとはしません。「このままでいいや」になります。
人はえてして、不快な感情を感じた時、周囲や自分をただ責めて、そうすることで責任を逃れようとします。責任逃れとは「私に良きにはからえ」です。バッシングや不平不満はまさにこれです。しかし責任逃れをして、成熟した大人になるのは矛盾しています。不平不満で終わってしまうのか、自分を押し広げ、成長するための葛藤にするのか。不快な感情を大事にするとは、後者の態度です。
どんな感情、どんな経験も無駄にしない、結果で人と比べて満足するのではない、誰にも知られなくても自分の人生を肯定できる態度なのです。