心の境界線
自尊感情が低下すると、自分と他人の境界線があいまいになりがちです。
自分ではどうにも出来ないことなのに、自分のせいのように感じたり、完全に相手の自由、相手が決めることなのに「なんでこうしないの!?」と口をはさまずにいられなかったり。どんな人も、強いストレスがかかると「やりたくなる」ものです。
しかしこれは、人間関係をこじらせる要因ともなります。
そしてこの心の境界線は、一旦引けたつもりでも、ストレスがかかるとまた曖昧になります。
その都度「境界線があいまいになっていないか」自分でチェックして、改めて引き直す習慣が「生きやすさ」に繋がります。
関心の輪と選択の輪
心の境界線を以下に図解します。
人間の意識に上るもの、上らないものをまずわけます。意識に上るものは大なり小なり「関心があるもの」、上らないものは「関心がないもの」になります。
私たちは世界の全てに意識を向けているわけではありません。関心の輪の中にあるものだけに意識を向けています。
関心の輪の中に選択の輪があります。
選択の輪とは、「自分が選択できることかどうか」です。
アメリカ大統領選挙に関心を持つことはできますが、選挙権のない日本人には選択できません。
今日の天気に関心は持てますが、選択することはできません。しかし、天候の具合によって「対処方法を選択する」ことはできます、この「対処方法」は選択の輪の中にあります。
いけすかないあの人のあり方に関心を持つことはできますが、あの人のあり方そのものは選択できません。しかしあの人との「関係性をどうしていくか」は選択の輪の中にあります。
境界線/選択の輪を明確にする三つの要素
私たちは「関心はあるけれど、本当は自分が選択することではないこと」に意識が向き過ぎ、あたかも「自分が選択できること」と混同してしまうことがあります。
「これは自分が選択することなのかどうか」を明確にする三つの要素があります。
① 責任
「子供の借金を親が返す」「子供の宿題を親が代わりにやる」これをすると境界線は曖昧になります。責任は、私たちの心にとって、筋肉を増やしてくれるダンベルのような役割があります。
ダンベルを上げ下げするのはきついかもしれませんが、その時々に合った負荷をかけないと、体と同様に心の筋肉はつきません。「だって誰それが~と言うから、~するから」の責任転嫁をしている間は、境界線は明確になりようがありません。
② 限界
自分の能力、立場、そして「この選択は全体にとってどうなのか」という判断、これを忘れてしまうと「自分ではどうにもできないこと」なのに、「それはおかしい!間違ってる!こうあるべき!」を振りかざし、境界線がぐちゃぐちゃになることがあります。
あるお医者さんのブログに「医者はタバコ屋のおばさんと同じだ。駅までの道を尋ねてきた人に、その道順を教えるだけだ」とありました。そのコメント欄に「こうしたことは、医者になって数年たってわかることだろう」ともありました。
お医者でなくても、他人は「駅までの道順を教える」だけです。その人をおぶって駅まで連れて行くのではありません。また、その人が駅へ行くのをやめたり、教えた道順と違う道を進んでも「せっかく教えてあげたのに!」をしない、この態度が自分の限界をわきまえる、ということです。
③ 価値観
選択の輪の中には無数の選択肢があります。そしてどの選択肢を選ぶか、その際重要になるのが自分の価値観です。
何故、その選択肢を選ぶのかに、自分が何を大事に生きているのかが反映されます。この価値観が明確になっていればいるほど、選択に迷いがなくなります。
「あの人何でああなの!?」は関心の輪の中、「あの人との関わりから、私は何を学ぶだろう?」は選択の輪の中
人間関係において、不快な感情を感じることそのものが、即悩みになるわけではありません。
「自分ではどうにもできない」関心の輪の中にあることに、意識が向き過ぎ、そこにはまり込んだ時に「悩み」になります。
「あの人、何でああなの!?」
「あの人がおかしい、悪い。だからあの人が変わるべき」
確かに道義的責任はあの人にあって、こちらは何も悪いことはしていないでしょう。しかし、どんなに理不尽に思っても、「困っている方が動く」しかありません。
買ったお皿にひびが入っていた、その時じっと待っていてもそのお皿が良品に化けることはありません。お店に電話をするなりして交換してもらう手間をかける、そうやって「困っている方が動いて」初めて事態は改善されます。
上記の質問は反応的に「出てきてしまう」ものです。もう一人の自分が、この悔しい気持ちを一旦充分に受け止めた後に、
「あの人との関係性を私はどうしたいだろう?」
「この関係性を改善するために、私は何が出来るだろう?」
「あの人との関わりから、私は何を学ぶだろう?」
こうしたWhat或いはHow、そして主語をIにした質問にすると、その途端に事態は「選択の輪」の中に入ります。
こうすると「悩み」から「課題」「チャレンジ」に変わっていきます。
「これは自分が選択できることか?」を自分に問う習慣
「選択の輪」を意識すると、「自分が出来ること、そして責任を負えること」はそう多くないのだな、と気づいていくでしょう。
今日の天気は、私たちの誰にも、どうにもできません。雨の日に「お足もとの悪い中お越しいただいて、ありがとうございます」とは言えても、雨になったことをわびることはできません。
しかし、地球の気候変動に関しては、私たちが出来る範囲内での責任はあります。
職場など、「立場上」ミスをした人になり代わって、全体の代表としてお詫びすることはあります。しかしそれは「立場として」謝っているのであって、具体的な責任の所在はまた別の話です。
境界線があいまいだと、自分ではどうしようもできない相手の反応にまで、責任をしょいこもうとしてしまいます。
人の目が過剰に気になる場合、「相手が自分をどう感じるか」という「相手の選択」をコントロールしようとしていないか、振り返ってみましょう。
特に人間関係において、「これは自分が選択できることか?」を問う習慣を身に着けておくと、気持ちの切り替えが早くなります。
また幼児的万能感がいくらかでも残っていると、まるで自分の正義感が世界の掟であるかのように思ったり、雨が降ったことさえ自分のせいのように感じたり、「自分が世界の中心にいて、自分の考えたように世界はあるべきだ」をやりたくなってしまいます。「私は絶対にやりません!」ではなく、やりたくなる自分をごまかさない方が、自尊感情にとっては重要です。
いじめの根源「幼児的万能感」何故人は自分いじめをするのでしょう?もしくは他人いじめをするのでしょう?自分いじめも他人いじめも根は同じです。自分を真の意味で大切にしている人は、他人も大事にできます。他人をいじめる、コントロールする[…]
相手にも境界線を乗り越えさせないことを瞬時に
自分が相手の境界線を乗り越えないのと同じように、相手にも乗り越えさせない、これを瞬時にできるようになる、これも意識的な努力の積み重ねです。
生きづらさとは、境界線を乗り越えたり乗り越えさせてしまったり、とも言えるでしょう。
特に責任と限界は、相手や状況によって変化します。境界線を乗り越えられた時の、不快な反応を瞬時にキャッチできるためにも、自分の感情をジャッジせず受け止める習慣が必須です。
また、低い自己価値感(自分には価値がある、という感覚)を埋め合わせるために、自己犠牲を払いがちだと、境界線を乗り越えさえっぱなしになりかねません。
「私はこんなに我慢してるのに!」といつか爆発することも自己主張が苦手だったり、「自分は我慢して相手に譲ることが常に美徳」と思い込んでいると、「自分さえ我慢すれば」が癖になってしまうことがあります。見返りを求めずに相手のために一生懸命に[…]
境界線を乗り越えさせないためには、自分の責任と限界をわきまえ、率直に伝えられる勇気が必要です。率直に、かつ丁寧に伝えられる自分であること。勇気は自尊感情の重要な一要素です。
選ぶのは常に「その人」
自分の大切な人、配偶者や子供が病気だったり、うつになったり、それに心を痛めるのはごく自然です。大切な人が元気になれば自分も嬉しく、ほっとするのも人情です。
しかし誰しも、他人に健康や幸福を「強いる」ことはできません。家族であろうと健康や幸福になっていくのは「その人の選択の輪の中」にしかありません。
選ぶのは常に「その人」です。
相手に希望・要望を伝えることはできます。根拠を示し、相手が理解できるよう丁寧に説明し、「わかってもらう、行動を改めてもらう」努力も必要でしょう。相手が大事な存在であればこそ、時には怒りや辛さを率直に伝えることもまた大事です。見て見ぬふりや、きれいごとでごまかすより、何百倍もましです。それでもなお、「相手の選択は、相手がすること」。蒔いた種は自分しか刈り取れません。
それは裏を返せば、「どんなことも、自分が選んでやっている」です。自分が「○○させられてる」の他人軸で生きている内は、境界線を乗り越えられても文句は言えません。
相手を信頼するとは、このもどかしさに耐える忍耐力の上に成り立っています。信頼とは甘く優しいことではなく、葛藤に耐える力が往々にして必要です。
そして信頼こそが、ー情緒的な優しさを超えてー私たち人間を人間たらしめます。
境界線を引く、何度でも引き直すのは、この信頼の土台を培うためでもあるのです。