五・一五事件の犬養毅首相「話せばわかる」の逸話
昭和7年の五・一五事件で暗殺された犬養毅首相の言葉「話せばわかる」、学校の授業で習ったことでしょう。
暗殺した青年将校らの「問答無用」と対比され、「憲政の神様」の所以であると学校では教わります。
しかし、実はこの「話せばわかる」とは「その話なら、話せばわかるからこっちへ来い」が実際のところだったそうです。
犬養首相の孫娘・犬養道子の自伝「ある歴史の娘」(中公文庫)によると、
たしかに「話せばわかる、と、言論の自由を高く謳う一語を残して死んで行った」と言えば、大変立派で、「教育的」で、地元選挙区の小学校校庭の記念碑などに刻み込むには持って来いである。
が、お祖父ちゃまと言う人はこんな一語を麗々しくのこすにしては、もう少々、わけ知りの人であった筈だと、私はいつも思っていたのである。
(略)
いくら話そうとわからない、わかるまいと前以って確固ときめてかかる相手であることを、それが時代の力の性格であることを、たれよりも知りつくしていたのは、(略)お祖父ちゃま自身であったのである。犬養道子「ある歴史の娘」より
ある程度は「話せばわかる」場合と、「いくら話そうとわからない、わかるまいと前以って確固ときめてかかる相手」である場合がある、これが人の世の複雑さです。
誰にとってもたやすくはない人間関係やコミュニケーションを、少しでも上手くやっていくために、「話せばわかる」ことなのか、「いや話してもわからない」ことなのかの見極めが、どのように言うかのスキル以前に必要です。
理由・根拠が示されると人は納得しやすい
ところで、人間の脳は理由を欲しがります。理由がわからないことに「何で一体・・・?」とああでもないこうでもないと考え続ける、これが悩みの正体のひとつでもあります。
アメリカの大学での実験で、コピー機の前で行列を作っていた学生の先頭の人に
「コピーを取りたいので、順番を変わって下さい」
と言ったらかなりの確率で順番を変わってくれた、という調査があります。
しかしそもそも、全員コピーを取りたくて順番待ちをしているのですから、「コピーを取りたいから」は本来は理由になっていません。
人間の脳は理由があると納得し安心する、そんな習性があります。
小さな行動を、きちんと理由をもって伝えると、「話せばわかる」になります。
「ああして、こうして」だけを伝えて、相手が「何でそれをしなくちゃならないの?」と口に出したり、不満げな態度を示したときはなおさら、面倒がらずに理由を伝えると、効果的なコミュニケーションになります。
例:「洗濯で生地を傷めたくないから、脱いだ服は裏返して洗濯かごに入れてね」
「すぐにスタートできるように、5分前には集合して下さい」
「会のスムーズな運営のため、携帯電話はマナーモードにして下さい」
日常の不平不満は、実はこうした小さなこと(脱いだ服は裏返しに、5分前に集合、携帯はマナーモードに、など)の積み重ねになっていることが多いものです。ですので、理由を添えて伝えていくと、関係性が改善されるケースもあります。
そしてこれらの小さな行動は、あくまで行動レベルのことであって、その人の人格とは別です。人格そのものをどうこうしろ、と言っているわけではありません。
また変えてほしい行動が、その人本人や、その人を含めた全員のためであることを伝えられれば、より納得してもらいやすいです。
価値・信念レベルで「伝えたいこと」「わかってほしいこと」は
親が子供に対してや、教師が生徒に、上司が部下に対してなどは、行動レベルだけではなく、価値・信念レベルを伝えたい、わかってもらいたいと思うのは当然です。
価値とは「何が大事か」、信念とは「物事はどうあるのが望ましいか」です。
例えば、
弱い者いじめをせず、友達を大切にしてほしい。
失敗しても腐らず、挑戦することを諦めないでほしい。
嘘をつかず、約束を守る誠実な人になってほしい。等々。
このニューロロジカルレベルの、上の方になっていけばいくほど「変えにくく」、しかしその人の人生を大きく左右するものになっていきます。
そしてこの上のレベルになればなるほど、言葉や理屈で理解するものではなく、心で「感じ取っていく」ものになります。
多くの親御さんが
「子供は親が言った通りにはしない、した通りにする」
とおっしゃいます。
一番伝えたい価値・信念ほど、「親(教師・上司)自身がそれを生きているか」、つまり「背中で教える」ことになっていきます。
親・教師・上司自身の「言行一致」が鍵になります。言行不一致はすぐに見抜かれてしまいます。
後は相手の感性が、どう受け取っていくかです。一つ屋根の下で育った兄弟姉妹でも、受け取り方はそれぞれ異なります。
子供のうちから、質の良い本を読ませるなど、感性を養う環境は整えられます。しかし感性そのものを、直接どうこうすることはできません。
「言っても無駄」は自己認識レベル、その人の品位・品格・志
「この人に何を言っても話がまるで噛み合わない。言っても無駄だな」と感じるのは、価値・信念レベルもありますが、それ以上に「自己認識・使命」レベルであることが多いでしょう。
価値・信念レベルは「賛同はできなくても『違う』ことはわかる」レベルです。状況によっては、賛同はしなくてもその「違い」に興味を持てたり、尊重できることもあります。
この「自己認識・使命」の「使命」は「何をするか」ではなく、「誰の何のためにそれをするのか」です。
品位・品格や志が高い、低いの志と言い換えても良いでしょう。
価値・信念は「それがどういったものか」を、言葉で説明しようとすればできます。
しかし、品位・品格・志は、ある、ないとか、高い、低いとしか言い表すことが出来ません。
品位とは、単なるファッションやマナーの上品・下品ではありません。品位とは言葉を換えるなら「それをする自分に耐えられない」ということです。恥を知る心、と言ってもいいでしょう。
例えば、ごみのポイ捨てだとか、嘘をついて人を騙すことだとかを、仮にでも「やってもいいですよ」と言われたとしても、「それをする自分に耐えられない」のが品位です。品位を裏支えするのは良心です。
世の中にはそれらのことを、平気でやって何とも思わない人もやはりいます。「え?何がいけないの?」と。
自尊感情を高めるとは、品位を高めることでもあります。ですから、必ずしもすべてにおいて、ルンルンで楽しいことばかりではありません。恥ずかしいことはしない方が、忍耐がいるからです。
しかし長く広い視野で捉えれば、結果的に同じように品位の高い人と繋がれるようになり、そうした意味において楽で、スムーズな生き方になっていきます。
ニューロロジカルレベルのどのレベルで付き合うか
ニューロロジカルレベルの下の方であればあるほど、「話せばわかる」ものになり、上の方になればなるほど「話してもわからない」「言っても無駄」なものになります。
上の方は、相手の感性や、価値観、品位・品格・志次第で、受け取れるか受け取れないかになります。理屈や論理で説得できるものではなく、感じ取るしかないことだからです。
浅い関係であれば、環境・行動レベルだけで付き合うのも充分ありです。
上の方のレベルで付き合える、付き合っていると思っていたけれど違った場合は、私たちはつい「自分が望むような」相手に変わってほしいと願いがちです。それほど私たちは「仲間を失うのが怖い」のです。
いきなりシャッターを下ろしてしまわず、言葉を尽くして話し合ってみるのもいいでしょう。
しかし、どんなに言葉を尽くしても、特に品位・品格・志レベルのことは「噛み合わない」「言っても無駄」に終わることもやはりあります。
その辛い気持ちは気持ちで、否定せずに受け止めた上で、残念だけれども距離を置かざるを得ない、そういう結論に達するのは決して悪くはありません。寧ろ、ずるずると相手に期待をかけているから、期待通りに振舞わない相手を変えたくなってしまいます。
誰もがわかっている「過去と他人は変えられない」「過去と他人は変えられない。未来と自分は変えられる」多くの人が一度は聞いたことがある言葉でしょう。誰もがわかっていても、何か事が起こるとやはり「相手を変えたくなる、変わってほし[…]
付き合う人の意識の在り方は、知らず知らずのうちに自分の意識に影響します。私たちは互いに影響を受けずにはいられません。
自分がどんな人生を生きたいか、それに責任を持つことは、「どんな人と付き合っていくか」「この人とはニューロロジカルレベルのどのレベルで付き合っていくか」を自分で判断していくことでもあります。人間関係の悩みは往々にして「自分がその人とどこまで付き合うかを決めてない」から起きています。
そしてまた、自分自身の品位・品格・志を高め、磨くことにより、それに呼応する新たな出会いもまた充分にあり得ます。