同調圧力は「迷惑をかけたくない」善意に付け込む

「あなたに迷惑をかけないために、私がこの苦しいマスクを我慢しています」と言われて嬉しいですか?

このコロナ騒動が、皆うすうす「コロナは大したことはない」とわかっていても、ダラダラ続くのは、日本人が同調圧力に弱い特性があるからでしょう。

勿論、個人主義が強そうな欧米であっても、殊に田舎に行けば行くほどやはり同調圧力はあるそうです。人間が孤独に弱く「皆と同じなら何となく安心」「一人だけ違ったことをするのは勇気がいる」のは万国共通のようです。

そしてコロナ騒動における同調圧力は、「大事な人を守るため」のおためごかしとセットになっているので更に厄介です。

恐怖を煽ること、罪悪感を刺激することは人心操作の典型です。罪悪感を刺激して人を動かそうとする人を、決して信用してはいけません。その人は貴方のことを、都合の良い駒としか考えていません。貴方の自由意思を尊重していないからです。自尊感情を高く保つためには、「自分を尊重しない相手とは距離を置く。できるだけ関わらない」ことも大変重要です。

マスクの害をどれだけ知らされても、中々マスクを外せないのは、この罪悪感に動かされているからかもしれません。

ところで、罪悪感と良心の呵責は似て非なるものです。

罪悪感は「言われたとおりにしても、『やらされた感』が残る。何かモヤモヤする」。良心に従ってやったことなら「やってよかった」と素直に思えます。良心は自発的なものであり、罪悪感は元々は自分の意志ではない、この違いがあります。

自尊感情豊かに生きるためには、良心を磨き、罪悪感からではなく自分の良心に従って生きる、当たり前のことのようですが、中々当たり前にはできないことを日々心掛けることがベースとなります。

エゴではなく良心に従ってやったことなら、他人がわかってくれなくても気にすることはありません。人の目が気になるのは、「私を悪く思うな」のエゴが実は潜んでいます。人の思念をどうこうしようとする無駄な努力ではなく、自分の良心を磨くこと、少しでもエゴの動機を減らし、良心の動機を増やす、この誰にも気づかれない努力をしない限り、「人の目が気になる」ことから解放されることはありません。

マスクを外すことにもし罪悪感があるのなら、それから解放されるために、「あなたに迷惑をかけないために、私がこの苦しいマスクを我慢しています」と人から言われて嬉しいかどうかを、自分に尋ねてみましょう。

うんざりする、嫌な気分になるのなら、貴方もマスクを外せるはずです。

「迷惑をかけたくないからワクチンを打つ」・・それは本当に正しいこと?

もっと深刻なのはワクチンです。今この文章を書いているのは10月の初めです。緊急事態宣言が解除され、クリニックでの接種は10月上旬から中旬で終わりになるところがほとんどのようです。

海外で行われているような3回目の接種が、日本でも行われるかどうかは未知数です。しかしその頃には、ワクチンが効かず、むしろ健康を害するばかりで、接種後の死者も発表されている以上に多いことが知れ渡るでしょう。(10月1日厚労省発表。9月24日時点で1233人が接種後死亡)

打ってしまった人は自分が打ちたくて打った人もいれば、「コロナに罹ったら迷惑をかける」とプレッシャーを掛けられ、しぶしぶ応じた人も多いでしょう。「どちらでも、貴方が自由に選んでいいよ。ワクチン接種は何の感染症だって自分のためにやることだよ」と言ってくれたら、打たなかった人も少なくないでしょう。

そうした人たちには「させられた感」が残ります。「させられる」のは見返りがある前提で応じてしまうのですが、何の見返りもなく、それどころか自分が死ぬかもしれないと知れれば「話が違う」になります。その時、拳を振り上げて怒り立ち上がるか、泣き寝入りするかで日本人の器量がいよいよ別れるでしょう。

「迷惑をかけたくないからワクチンを打つ」それは気持ちの優しさかもしれませんが、果たして本当に正しいことでしょうか・・・?気持ちの優しさ、言葉を替えれば善意だけでは、私たちは自立し成熟した、見識と実践力のある大人にはなれません。

「地獄への道は善意で舗装されている」(ヨーロッパのことわざ)

ごく普通の人であれば、善意から行動を起こしたいと思うのが常でしょう。わざわざ好き好んで意地悪をしたい人の方が少数派です。

「自分が善意の人でありたい」この普遍的な心理を悪用されるのです。このコロナ騒動の当初から「大事な人を守るため」ステイホームしろ、マスクをしろ、集まるな、イベントをやめろと言われ続けてきましたが、結果はどうだったでしょう?社会が疲弊し、昨年は子供の自殺が戦後最悪になりました。子供が未来に希望を持てない社会は、それだけで病んでいます。子供が大事にされ、希望を持ち、生き生きとしている社会は、大人も老人も幸福なのです。

誰かの犠牲の上に成り立っている幸福は、真の幸福とは言えません。このことと、ほんの少し譲り合うこととは区別する必要があります。ほんの少し譲るのは、相手がその上に胡坐をかかないこと、自分が疲弊しない、すぐリカバーできる程度の犠牲(電車で席を譲ったり、できる範囲の寄付をしたりなど)であることなどが重要です。

善意が不要ということは決してありませんが、善意だけでは社会の自由は保たれません。ただの善意の人では駄目なのです。あらゆる角度から、どんなに目を背けておきたくても事実を検証すること、大多数がどうであろうと「私はこう思う」とはっきり主張し、行動できること、自分の判断選択が誤っていたらすぐ修正する柔軟性、粘り強さ、自分をごまかさない勇気等が必須です。

自分が傷つきたくない善意の人は、結局のところ「だってみんなが」「マスクはマナーだから」「決められたことだから」で自己保身に走ります。

生涯で再び経験することはないかもしれない、この動乱をどう生き抜いたかが、自覚の有無に関わらず、今後のその人の人生を否が応でも決定づけるでしょう。そしてそれは、取り返しがつきません。騒動が終わってしまったあとではもう遅いのです。

無関心と自己保身に走り、マスクをして遊びまわることに何の自己矛盾も葛藤も感じていなければ、この騒動が終わった後もそれなりの人格であり、それなりの人生になっていきます。

勇気と使命感で声を挙げ続けた人は、たとえその時「頭のおかしい陰謀論者」とレッテル貼りされても、鍛え抜かれた人格になります。鍛え抜かれた人格にふさわしい人生が待っていることでしょう。

「感染しない!させない!」がそもそもの思い上がり

またそもそも「感染しない!させない!」が自然の摂理に反した、神をも恐れぬ思い上がりです。子供の間はしょっちゅう風邪を引くものですが、そうやって子供たちは免疫を鍛えていきます。大人であっても、風邪を引いて熱を出した後、却って体がすっきりした経験がある方もいらっしゃるでしょう。発熱はがん細胞を殺してくれますし、どういう仕組みかは詳しくありませんが、デトックスにもなるそうです。そう長く病みつかない、治る病であれば、それも悪くはないのです。

感染症は自然災害であり、移したり移されたりを許容しないと、私たちは人間らしく生きていけません。現代の日本人が、除菌や殺菌ばかりしていることと、ちょっとしたことでパワハラ扱いされるため、昔のように上司が部下を叱ることを躊躇してしまい、ストレス耐性が弱くなった大人が増えてしまったことと、相似形のように思います。

「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 これはこれ災難を逃がるる妙法にて候」(良寛)

生老病死ー生まれること・老いること・病むこと・死ぬことーは生きている限り万人が経験するものです。これが嫌なら、最初からこの世に生まれないようにするしかありません。

「感染しない!させない!」のキャッチフレーズのために、マスクをしない人や(それが当たり前のことで、マスクをする方が不衛生かつ、感染症に罹りやすくなります)、他県から訪れた人を疫病神扱いする(全国で動いている物流の存在は無視)、多くの日本人は最後の最後まで、コロナの嘘を見破れず、思い上がりと自己保身のために、人間の尊厳を傷つけています。そしてそのことに気づこうともしません。

「迷惑をかけたくない」その裏返しの「俺に迷惑をかけるな」

できるだけ迷惑をかけないように心がける、ごく普通の心ある人なら当然のようにやっていることです。迷惑をかけて平気な人は、社会から受け入れてもらえません。

そして「迷惑をかけたくない」を裏返せば、「俺に迷惑をかけるな」があります。「俺がコロナに罹ってもいいのか」とはそういうことです。

できるだけ迷惑をかけないように、時間に遅れないとか、約束は守るとか、それはそれで大切なことですが、どんなに気を付けていても全く遅刻をしたことがない人や、すべての約束を守れる人などこの世にいません。わざととか、常習犯とかではないのなら、また相手が真摯に反省しているのなら許容し合わないと、誰も生きてはいけません。

不摂生をしたわけではなくても病気になる時はなります。また、体が丈夫とか弱いとかには個人差があって、それを受け入れ合いながら生きるしかありません。

迷惑をかけずには生きていけない、それが人間

白か黒か、0か100かで考える方が脳は楽です。ですから「迷惑をかける=悪」とレッテル貼りして脳に入れてしまう方が楽なのです。まして「コロナに罹ったら大変なことになる」と恐怖洗脳しておけば、「コロナに罹る=悪=迷惑をかける=だからワクチンを打つべきだ」といともたやすく誘導できてしまいます。

しかし現実は、人は迷惑をかけずに生きていくことはできません。迷惑をかけずには生きていけない、それが人間です。「迷惑をかけたくない」に、「迷惑をかけたら社会からつまはじきにされる」恐れや、「自分は迷惑をかけない人間であるべきだ、あるはずだ」という思い上がりがないかどうかです。

迷惑をかけない心がけと共に、もう一方の「迷惑をかけずには生きていけない」この両方の側面を知り、受け入れる。これも脳の柔軟性であり、真の寛容であり、また謙虚さになるでしょう。

無闇やたらに人を傷つけていいわけではない、しかし時には「相手に泣く思いをさせてでも」「相手がついぞ理解できなくても」やるべきこと、言うべきことは言わないと、愛を実践できないのと同じです。

喧嘩もできない関係性が、実は不毛で、虚しいものであることともよく似ていると思います。

【音声版・自尊感情を高める習慣・6回コース】

1回約20分、6回コースの音声教材です。

第1回 自尊感情とは何か。何故大事か
第2回 全ての感情を受け止め、否定しないことの重要性
第3回 「何が嫌だったか」を自分に質問する。目的語を補う
第4回 期待通りに成らない現実を受け入れざるを得ない時
第5回 小さな一歩を踏み出す・最低限のラインを決める
第6回 人生が変わるのは知識ではなく氣づき

第1回目は無料で提供しています。まず一週間、毎日聴き、ワークに取り組んでみて下さい。その後更に日常の中で実践してみたくなったら、6回分の音声教材(税込5500円)をご購入下さい。

🔗第1回・要約・氣づきメモ

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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。