何年経っても消えない悔しさ・・何故?
最も多い親との葛藤のご相談の中でも、進学先の進路や、結婚相手を親の体裁、世間体のために決められた恨みは、何年、何十年経っても消えるものではないようです。
それは進学先の学校が自分に合わなかったとか、結婚相手が良かった/悪かったとは別の問題です。ご自身は進学先の学校に馴染めなかったけれど、学校自体は悪くなかったので、自分の子供に進学を勧めた方もいらっしゃいます。
ついつい他人は「自分が望んだ学校に行けても、好きな相手と結婚できたとしても、それで幸せかどうかはわからないよ」などと言ってしまいたくなるものでしょう。しかし単に「望み通りにならなかった」ことを不満に思っているのではありません。
「何に自分が傷ついているのか」は実は中々わかりづらいです。ですので、人は起きたディティールを「ああだった、こうだった」と語るのですが、それだけでは堂々巡りになり、肝心の理不尽な悔しさは中々解消しません。
親の借金の形(かた)や爵位欲しさに王の愛妾にされた貴族令嬢
「何に自分が傷ついていたのか」は、親のエゴのために自分の人生を「使われた」ことへの怒りかもしれません。支配する親にとって、子供は自分の所有物です。例えるなら将棋の持ち駒です。その持ち駒も、歩であれば大して役に立たず、飛車や角なら利用価値があると考えるようなものです。
その利用価値とは、必ずしも利発とか容姿が良いなどではなく、「自分の意のままに動く」「あんまり馬鹿でもないけれど、自分の脅威になるほど有能でもない(だからこそ、子供が能力を伸ばし発揮することに本音では嫉妬し、その芽を巧妙に潰そうとします)」「『○○ちゃんは偉いわね』と親戚や近所の人に言ってもらえるようなお利口さん」と言った、どこまで行っても親の都合です。王将は自分であり、持ち駒の子供は王将を凌ぐことはあってはならないのです。
昔の貴族の娘が親の借金の形(かた)に、王の愛妾に「売られた」例を見ると「自分の身に起きたことと相似形だった」とわかりやすいかもしれません。
スウェーデン貴族の娘、ヘドヴィグ・タウベ(1714年-1744年)は、16歳の時にスウェーデン国王フレドリク1世に見初められ、愛妾になることを求められました。父親の男爵は、怪しいビジネスやギャンブルのために莫大な借金を抱えていました。国王はその弱みに付け込んで、借金を肩代わりするばかりでなく、息子たちを要職に就け、また父親を男爵から伯爵へ叙します。
ヘドヴィグには若い貴族の婚約者がいた上に、フレドリク1世は54歳であり、王妃は既にいて自分は妾になるなど、とても受け入れられることではありませんでした。母親ともども逃げていたのですが、父親は「既にかなりの金額でヘドヴィグを王に売った。そのお金で借金を返してしまった(だから王に返金することも出来ない)」と娘を犠牲にしたのです。
ヘドヴィグは無欲で、権力を得て宮中でのし上がろうとするタイプではなかったので、大変辛い生活を送ることになりました。彼女は4人目の子供を出産した後、僅か29歳で亡くなります。
宮中での様々な嫌がらせも辛かったでしょうが、それ以上に「父親に売られた」心の傷は、王から邸宅や宝石やドレスなどを贈られて癒えるようなものではなかったのです。
親の虚栄心のために「私は売られた」
借金や爵位などの目に見えるものとは異なる、親の世間体という虚栄心のために、自分の才能や未来を引き換えにされた、つまり「売られた」心の傷は、ヘドヴィグ同様癒えがたくても当然です。
昔のTVドラマ「おしん」のように、「そうしなければ自分も家族も生きて行けない」貧しさのために、奉公先に米二俵で売られたのとはまた訳が違います。また親の会社を継がなければならない人は、結婚相手はただ好きなだけでは決められないなど、本人もそれなりの納得ができていることとも異なります。
世間体というただただ親の都合だけのために、自分の自由意志を踏みにじられたことは、納得できるものではありません。
そしてまた、本来なら無条件に愛し守ってくれるはずの、自分の親にそれをされた情けなさは受け入れがたいものです。真面目で向上心がある人ほど「自分の親がこんな人だったなんて」とは簡単に割り切れないのです。
「虚栄から自尊へ」の生き方に昇華する
この手の親のエゴによる理不尽さは「だって仕方がない」と受け入れてはいけないのです。尊重されるべき自由を蔑ろにされることに、何の疑問も持たないのは、家畜根性そのものだからです。また自分が受け入れてしまえば、同じ境遇にある他人に対して「だって仕方がないじゃない、受け入れなさいよ」をやってしまいかねません。
そうは言っても、この怒りや恨みに苛まれて一生を送ってしまえば、それもまた「自分は親の体裁の犠牲者」の人生を自分が歩んでしまいます。そのため「こうしたことは起きてはいけない」自分の生き方に昇華する必要があります。
昇華とは、昨年2024年に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞しましたが、被爆の苦しみを核廃絶のための原動力にするようなことです。
【ロンドン=湯前宗太郎】ノルウェーのノーベル賞委員会は11日、2024年のノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(日…
虚栄と自尊は反比例です。自分を大切にする自尊感情が高まればこそ、他人をも大切にできます。愛とは、エーリッヒ・フロムによれば、責任、配慮、尊重、関心の4要素が満たされることです。自分の虚栄心のために我が子の人生を売ることには、この4要素の何一つありません。
自尊感情豊かに生きるとは、ルンルンニコニコのお花畑、事なかれ主義で生きることではありません。言うべき「No」を言うことも含みます。「No」を言うとは、抗うことです。子供の頃には抗いようがなく、親の理不尽さにされるがままになってしまいました。
しかし大人の自分は、親であっても、それ以外のことにも、尊厳を傷つけることには「だって仕方がない」を安易に言い訳にしない、抗うべき時には抗っている。その自負を持てた時、傷ついた子供の頃の自分に、誰でもなく自分が報いることができるでしょう。