「相手が何を伝えようとしているか」を知ろうとしていますか?
コミュニケーションとは発信と受信ですが、難しいのは受信の方でしょう。「伝えたつもりで伝わっていない」はしょっちゅう起きます。それは相手が「受信できたか」をこちらが受信できていない、言いっぱなしになっているためです。
殊に昨今はメールやLINEでのやり取りが多くなり、発信側は「ちゃんと書いてる、伝えている」と思っていても、受け取る側は流し読みになっていたり、自分が反応する箇所だけに反応して、文意全体を把握していないことがまま起きています。対面の場合でも、「わかってないのにわかってる風」を相手が装っていることもたくさんありますから、「伝えたいことは伝わっていない」位の心づもりで丁度良いでしょう。ある会社で管理職をされている方は、部下に指示した内容を必ず復唱させている、と話していました。
こちらが伝える時だけでなく、聴く立場になった際も同じことです。上述した通り、人間の脳は「自分が興味がある箇所に反応する」ようになっているので、相手が伝えたいことよりも、「自分が興味があって聞きたいこと」を聞いてしまいます。そして人は誰しも「聞きたくないことは聞きたくない」ものなので、聞きたくないことには「耳にシャッターが下りる」も起きてしまいます。葛藤耐性が低いと尚更すぐに耳にシャッターが下りる、それに相手が言いようのない傷を負う、しかし当人は氣づかない、こうしたすれ違いは枚挙に暇がありません。
大事なことは「そうそうあるよね、私はそんなことはしないけど」ではなく、「どんな人にも否が応でも起きてしまうもの、私も例外ではない」という前提に立って、相手の真意を知ろうとする、その不断の努力です。
「物事をあるがままに見る」とは、「見たいように見、聞きたいように聞き、信じたいように信じる」人間の脳の習性に逆らうことなのです。ですから、葛藤耐性を高め、視野を広げ続ける努力が要ります。視野を狭めていた方が「そんなことは他人事。自分の世界とは関係ない」にしてしまえて楽ですが、それでは葛藤耐性は低いままの悪循環になります。その態度には、氣持ちは優しいつもりでも、真の思いやりはありません。
「相手が何を伝えようとしているかを知る」とは、言葉だけでなく非言語(表情、姿勢、声のトーン、歩き方など)からのメッセージに敏感になることや、「どんな思いでこういうことを言ったりしたりしているのか」の背景を想像できることでもあります。
相手を心配しているようで、自分の不安を解消したいだけになっていないか
また「相手を心配しているようで、自分の不安を解消したいだけ」これも相手に伝わってしまうと、関係性を損ねます。
例えば子供が中々勉強したがらない、親御さんがそのことに不安になる、だから勉強しろしろと言うと子供は苦行を押し付けられたように感じて、余計勉強したがらなくなる、などです。
この場合、何故勉強が大事と思うのか、親御さん自身が明確に答えられるでしょうか?子供の成績が良くないと、自分の評価が下がるように感じていないでしょうか?それでは、親の面子のために子供に勉強を強いていることになります。また今の時代、学歴は大して当てにならず、大企業に就職すれば一生安泰などないことも、子供の方が良く知っています。
勉強は読み書きそろばんの基礎スキルや、視野を広げるための教養を身に着けること、そして何より自学自習の習慣そのものを身に着けるためのものです。社会人になればこそ「自分から勉強しようとする」か、「人から言われたことをこなすだけ」かで人生は全く変わってしまいます。後者の「人から言われたことをこなすだけ」の人ほど、TV・新聞のプロパガンダにあっさり洗脳され、自ら疑問を持って洗脳を解くことをまずやりません。
学校で習う教科のほとんどは、社会に出れば忘れてしまうものですが、その教科を通して勉強する習慣が身に着いているかどうか、これがその人の一生を支える重要なスキルの一つです。親御さん自身が実践できていないと、説得力がありません。何にせよ相手を説得するには、「何のため」の意義目的を伝えることですが、その意義目的が自分のものになっていないと「口先だけ」なのは伝わってしまいます。
また別の例で、「彼氏からのLINEの返信が来ない」これに不安を感じる氣持ちには正直であって良いのですが、あくまでそれは自分の不安です。
「何で返信してくれないの!」と、「中々返信がないから、どうしたのかと思って不安になっちゃったわ」では受ける感じが違うでしょう。前者は「私の不安はあなたが返信をしないせいだ」になっています。後者は自分の不安に正直でありながら、それは自分の感情だ、という線引きができています。
相手のペースを尊重して待つべき時・早く変わってもらう必要がある時
ところで、どんなにもどかしくても、辛くても、相手のペースを尊重して待つべき時、それをするしかない時と、そんな悠長なことは言ってられない、早く変わってもらう必要がある時があります。
例えば、不登校は事情がかなり様々で、十把一絡げにはできません。「学校なんか行ってたら、考える力を奪われた羊民になる」と本能的に悟って学校へ行かない選択をする子供も少なくありません。学校へ行くのが親の方のアリバイ作りになっていて、子供は肝心の自学自習の習慣が身に着かないまま、自ら考える力は奪われて、卒業証書だけもらって卒業してしまうケースもあり、子供の方がその欺瞞性を見破っている、ということです。
ですから、冒頭に書いた「相手が何を伝えようとしているか」「相手の真意は何か」を知ろうとする姿勢がとても重要になります。
引きこもりは尚更です。自己有能感を支えるスキル(自学自習のスキル、コミュニケーションスキル、対人関係スキル、自分の身の廻りのことをするスキル等)が身に着いていないがために、外の世界が怖くなって引きこもらざるを得なくなっているのですが、「どうやったら少しずつでもそれらのスキルを身に着けられるか」は、相手の状態をよくよく観察してアプローチしないと受け入れられません。
また一方で、「そんな悠長に待っていられない。早く変わってもらわないと困る」こともたくさんあります。職場や隣近所に迷惑が掛かることなどがわかりやすいでしょう。
社会的政治的な問題も同じです。政治に無関心な人はいつの世も多いですが、無関心なままでは、国民の生命と安全など全くどうでも良い連中にいいようにされてしまいます。SNSや、街宣活動で無名の市民が声を挙げ続けるのも「そんな悠長に待っていられない」からです。
私たちの生活には、相手のペースを尊重して待つべき時と早く変わってもらう必要がある時の二つがあり、それを見極めることがまず必要になります。例えば新人の指導は、基本は「相手のペースを尊重する」ものでしょうが、時には「早く変わってもらう」ことも起きる、そうしたモザイク状になっています。ここも「脳の単純化に逆らう」意識的な努力が必要です。
「人それぞれ」を尊重するべき場合と、事なかれ主義の口実にしている場合と
「相手のペースを尊重して待つ」とは、人の成長のプロセスは千差万別であり、早いのが良いとか、遅いのが悪いということではない、その人間観に立つ事が大切です。ある人にとっては何の苦も無く当たり前にできることが、他の人は時間とエネルギーを掛けないと中々できない、そしてそれはお互い様です。私たちはこんな当たり前のことをしばしば忘れます。
そしてまた価値観が多様化している社会では、より「人それぞれ」の選択を尊重するべきという風潮になっているでしょう。ほんの30年ほど前までは、男性も女性も一生を独身で通すとそれだけで色眼鏡で見られたものです。今は「結婚適齢期」は死語となり、基本的にそれは良いことだと私は考えています。
ただ一方で、「人それぞれでいいじゃないの」が、中立を装った事なかれ主義の口実になっている場合があります。コロナ騒動におけるマスクの着用を巡っても、いわゆる反コロナと言われている人の中でも「他人に強制さえしなければ、もうマスクをする人は放っておいたらいいじゃないの」と言う人もいます。
この記事を書いているのは2023年の7月中旬ですが、さすがに暑さと、徐々にマスクを外す人が増えてきたためもあってか、目測ではノーマスクは7割程度になってきたようです。4年目の夏になってもマスクを外そうとしない人は、TVが煽っている間は一生でもマスクをするでしょう。その愚かさに氣づくこともないでしょう。この3年半、何も疑問に思わず自分で調べていない、ワクチンもマスクも全くの逆効果だった、その結果がとうの昔に出ているのにマスクを外さないのは何も考えていないからこそです。
子供の9割、大人の8割がマスクを外したらまあ良しとする、もうそれ以上は望めないだろうと私個人は諦めています。
それでもなお、ワクチンシェディングの軽減のためやむを得ずなどの場合を除いて、いつまでたっても騙される、もしくは騙されたふりをしてマスクをし続けるのは、この全世界規模の謀略に加担することです。そのマスク姿を見て騙されて、やはりワクチンを打ってしまう人がいる、亡くなったり重い障害を抱える薬害が終わりません。また打った本人は平氣な風でも、ワクチンシェディングで迷惑している人が大勢います。
一回一回現実を見る、そして目先の自分の快不快、損得勘定ではなく、将来の社会全体に及ぼす影響を考える、それをすっ飛ばして「人それぞれでいいじゃないの」は尤もらしい逃げ口上であり、責任逃れとしか言いようがありません。これも「自分の不安を手っ取り早く解消したい。他人の事情はどうでもよい」無思考と自己中心性の現れです。
無意識のうちに発信している小さなSOS
冒頭でコミュニケーションとは発信と受信と書きました。大人である以上、自分の思いを言葉にして伝えられなくてはなりません。「察してちゃん」は「かまってちゃん」のバリエーションであり、「あんたが察しろ」は思い上がりも甚だしく、周囲の人を疲れさせます。
しかしそのこととはまた別に、人は無意識のうちにSOSを発信している、そのSOSを敏感に拾い上げられるアンテナを養うのは、成熟した大人の条件の一つでしょう。深い悩みであればあるほど、人は簡単に口には出せず、しかしその思いはふとした折に漏れ出ます。
「ただいま」の声が違う。お弁当を残して帰ってきた。身なりを構わなくなった。お風呂に入りたがらない。話しかけても上の空。「いつもとは違う。これまでとは違う」その違いを拾い上げることが、そのまま「相手を見る」ことになります。そして上述した通り「自分の不安を解消したいがために相手に変わってもらう」はやらない、この自制心が大変重要です。
身近な人が、自分のSOSを拾い上げてくれている。それを心の奥底で感じ取れれば、悩みはしてもあるタイミングで「あのね、実は・・」と話せる時が来るかもしれません。
悩みがあることが問題ではなく、「私は救われるに値しない」「私は一人ぼっち」と思い込んでいることが問題なのです。「あのね、実は・・」と打ち明け出した時、既にその人は救いへの道を歩き始めています。いつかはわからないその日のために、「相手を見る」。目立たない地味な仕事でありながら、誰でもはやらない、そしてたやすくはできない、誰かから評価されることはない、心の仕事とはそうしたものだと思います。