「わかってよ!大事なことなんだから!みんなを巻き込むことなんだよ!」の叫び
2020年からのコロナの嘘とコロナワクチンの危険性に、国内外を問わず、名立たる医師・医学者、政治家やジャーナリスト達、そして一般の人々が声を挙げ続けました。
見出しの通り「わかってよ!命と健康と、社会の将来に関わる大事なことなんだよ!自分さえ良ければいいんじゃないんだよ!みんなを巻き込むことなんだよ!」の危機感と正義感があればこそだったでしょう。
しかし、「自尊感情を高める習慣⑥自分の影(シャドー)を見ている人・見ていない人」で書いた通り、「世界のおぞましさに耐えられない人」には、残念ながらスルーされてしまいました。それは無意識の心理的防衛が働けばこそで、本質的には今でも変わっていないでしょう。
「聴く耳を持ってもらえなかった」辛さは後々まで残るもの「自尊感情を高める習慣⑤話の噛み合わなさはどこで生じるか」の最後に、「『歩み寄り不可能』を受け入れるのは第三層の最大の試練」と書きました。[sitecard subtit[…]
そしてこれは、コロナ騒動に限らず、皆さま固有の状況、職場や家庭の中でも似たようなことが起きていたかもしれません。
他人が横から「もう相手は聞かないよ。あなたが傷つくだけだし、もうやめておいた方が良いよ」と言っても、「はい、そうですね」と簡単に受け入れられることではなく、「そんなこと言ったって!」と益々ヒートアップする。しかしやがて、満身創痍になって限界に突き当たってこそ、やっと次の段階へ進めるもののように思います。
「相手を変えようとしない。自分が変わる」は、誰もが知っている言葉です。ですが、何度も何度も傷つき、心底失望し、悲しみ、怒り、恨み、寂しさを感じ、へとへとにならないと、「でも、もしかしたら・・」とどうしても希望を繋ぎ、諦めきれない。それは時に数年、場合によっては数十年かかることすらあります。
特に親は、人が最初に依存し、最後まで期待を手放せない存在です。人生の後半に差し掛かって漸く、諦められるケースも決して珍しくありません。
その痛みのプロセスを知ると、「人を変えようとしない」の言葉を人は安易に言えなくなる傾向にあります。自分の都合のために相手を変えたかったわけじゃない、「本当に大事なことだから」わかって欲しかった。それが果たせなかった無念が疼き続けるからなのでしょう。
満身創痍のようでも心の核は守れている
この「わかってよ!」は、自分の信念、生き方の表明であり、自分を超えたものに意識が向けばこその叫びです。自分だけのことなら「まあ、多少我慢して譲ってもいいか」で済ませられても、全体に及ぶことなら譲れない。そしてこのように考えられる人は、いつの世も少数派なのでしょう。
そしてまた、満身創痍になったかのようであっても、実は心の核ー価値観・信念・良心ーは守られています。その心の核から発せられた心の叫び、その核を裏切るまい、汚すまいとすればこその叫びだったからです。
ですから私は、満身創痍になって深く傷つき、疲れ果てたとしても、再起不能にはならない、そうした人は自暴自棄には決してならないと信じています。
信念の強さは足を踏ん張る力にも、「握りしめ」にもなり得る
信念の強さがあればこその心の叫びでした。また、世の中や、会社や、他からの目が届かない、孤立無援になりがちな家庭の中で、逆風にあっても足を踏ん張れるのは信念の強さが不可欠でしょう。共感し合える仲間の支えは、孤立しないために大切ですが、信念の直接の代替えにはならないのではと思います。
ただ一方で、この真剣に抗うための信念は、「世界に対して身構えている」戦闘モードに傾くこともあります。そしてどんなにそれが正当なことであっても、「何が何でも避けなければ!」が「握りしめ」の執着になり、結果的に人や仕事、お金の流れが滞る、こうしたことを実感されている方もおられるかもしれません。
「親の愛情を必死になって得ようとする」本能は消えない
信念自体は正当なことであっても、心の深い根っこに「世界に対して身構えている」感じがもしあったとすれば、機が熟した時に、「それは何だったのか」と静かに振り返ってみるのも良いかもしれません。
頑張ってしまう人ほど「そんなものだって」を受け入れるのが中々難しく感じるものなのでしょう。そしてもし「頑張って役に立たなければ、親に認めてもらえない。受け入れてもらえない」が心の根底にあったなら、それを解除して漸く「無闇に頑張らなくても良い」を受け入れられるのではと思います。
子供は実は幼い頃から、「自分は親に愛されていない。親に歓迎されていない」を本音の本音で感じ取っていることがあります。しかしそれを「はい、そうですね」と認めることができません。「そんな筈はない!」と激しく抵抗する、もう一つの本能との終わらない綱引きが、無意識の中で始まってしまいます。
ところで鳥や哺乳類など「親の庇護がなければ生きて行けない」動物は、本能的に親の愛情を必死になって得ようとします。巣の中で雛が親に餌を与えてもらおうとしてさえずります。人間はそのさえずりを微笑ましく思うかもしれませんが、彼らは必死です。
鳥や哺乳類の中には「育つ見込みのない子に餌や乳を与えない」「巣から雛を蹴り落としてしまう」種もあります。それは「野生という厳しい環境の中で、種が生き延びるのに有利な個体を選別する」生存戦略です。そして「選ばれるがために」雛は必死でさえずります。
人間の子供も「親の愛情を得て、家庭という『巣』から蹴り落とされないために○○する」を、「親は自分を愛していない」と感受してしまった子供ほどやってしまうのかもしれない、こうした仮説が成り立ちます。
そしてそれが「正しいことを頑張れば、相手の役に立てば、認めてもらえる。受け入れてもらえる」になったかもしれません。自然な成り行きとして、それは親以外の関係性にも転化されます。
そしてまた、人間の脳は単純化し、融通が利きません。裏を返せば「そうしなければ、『巣』から蹴り落とされる」の恐怖を、脳が刷り込んでしまったかもしれないのです。それが引いては「世界に対して身構えている」になっても、脳の一般化の働きに照らせば当然のことでした。
「親の愛情を必死になって得ようとする」本能そのものは、いくつになってもやはり消えません。「もういい大人なんだから」などと抑えつけるのは無理が生じます。ですので、ただ「あるんだな」と観察すると意識化され、過度に暴走しにくくなるでしょう。上記の「そんな筈はない!」の綱引きの一方の力が鎮まって来るのではないかと思います。
失望と落胆を味わい尽くしてこそ「私はもう世界に身構えなくていい」
コロナワクチン薬害に関して言えば、谷本誠一元呉市市議が、2021年晩秋頃、街頭演説で「大きな被害が出なければ皆わからんの!」と訴えていました。しかし「大きな被害が出てもわからない」が現実でした。そしてそれを、予測できた人はいなかったでしょう。
「ああ、もう駄目だ。わかってもらえない」の辛い失望と落胆。これに耐える力を予め養っている人はいません。
「わかりたくない人は死ぬまでわかろうとはしない」この単純な現実を受け入れるには、この限界経験以外に道はないと思います。人間はどうしても、「もしかしたら、もしかしたら・・」と儚い希望を繋ぎたくなるからです。
そしてこの限界経験は、その人のプロセスそのものであって、他人が急がせることも、遅らせることも、他の道へ逃そうとすることもできません。
失望と落胆をとことん味わい尽くして後、「もう私は充分にやりつくした」と自分を認め、自然に「私はもう世界に身構えなくていい」と、その鎧を脱げるのでしょう。
ただ、信念そのものを捨てるわけでも、曲げるわけでもありません。信念は持ちながら、「握りしめ」にはならず、「共感できる人はごくわずかなのかもしれない。その人と分かち合えれば良い」と静かな諦観に移るように思います。
「あの時はごめんね」と言ってもらえなかったとしても
私がこの記事を書いているのは、2026年1月です。この記事を読まれている方の中には、家族・肉親にコロナワクチン接種を止めようとして、果たせなかった方もおられるかもしれません。
2024年5月末に、コロナワクチンに反対する日比谷のパレードデモが開催されました。組織の動員ではない一般市民が約5万人も集まったそうで、大変画期的なことでした。当時はまだ「世の人々に知らしめなければ!知ってもらえば氣づける筈!」という氣運があったように思います。
2025年10月には、ドキュメンタリー映画「ヒポクラテスの盲点」が全国上映されました。中には、5回接種した方が、上映期間中2回も映画館に足を運んだそうです。以前よりかはワクチン薬害が認知されて来たとは言え、それでもなお世の中の大多数の人は無関心、「終わったこと、済んだこと」にして、ただやり過ごしているように私には見えます。
映画「ヒポクラテスの盲点」10月10日から全国上映ドキュメンタリー映画「ヒポクラテスの盲点」が、2025年10月10日から全国で上映されます。https://www.youtube.com/watch?v=nZ6[…]
ワクチン接種を止めようとした家族・肉親に「あの時はごめんね。きっとあの時はどうかしてたんだ。あなたが言っていたことが正しかった。解毒を頑張るから、もう心配しないで」・・と言ってもらった、という話を私は聞いたことがありません。
「その話は触れないで」と言わんばかりにやり過ごされると、命懸けの嘆願をなかったことのようにされたと感じてしまうのも、全く無理はありません。止めた方の心の痛みは、日を追うごとに寧ろ深くなっていくかもしれません。「歩み寄り不可能」の苦さが日々募っていても、自然なことでしょう。
この心の痛みは生涯消えない、抱え続けて生きざるを得ないかもしれない。ただそれは「自分を裏切れなかった」生き方の証でもあります。自分を裏切らずに生きることは、こんなに悲しい。その痛みが陰影の深い大人になるための、一つの契機になり得る、そのように私は考えています。
