「聴く耳を持ってもらえなかった」辛さは後々まで残るもの
「自尊感情を高める習慣⑤話の噛み合わなさはどこで生じるか」の最後に、「『歩み寄り不可能』を受け入れるのは第三層の最大の試練」と書きました。
「説明すればわかる筈!」をつい頑張ってしまうけれど2020年からのコロナ騒動において、私も含めた、少数派ではあっても決して少数ではなかった人々が、「何とかこの出鱈目を止めなくては」と情報発信を頑張り続けました。金融経済や国[…]
身近な愛する人々に、コロナワクチン接種を止めようとしたけれど、果たせなかった。話をよく聴いてくれた上で「納得がいかないからやっぱり打つ」よりも、最初から「話し合いにならなかった」「聴く耳を持ってくれなかった」ことの方が、多かったのではないでしょうか。それは心の深い傷になっていても、全く不思議ではありません。
コロナワクチン接種に限らず、親子間の葛藤においても相似形です。子供の方が親とコミュニケーションを取ろうとしても、聞いてもらえない、スルーされる、それは自分の存在を「なかったことにされる」死刑宣告のようなものと言っても、過言ではないでしょう。
但し、必ずしもその相手は、特別に意地が悪いとか、冷淡で自己中心的とは限りません。人間性はそう悪くない筈なのに、「話を聞いてもらえなかった」理不尽さは、余計混乱するものだと思います。
第三層の問いは自分の存在の深さを問うもの
ところで、人間の意識の三層構造において、第一層・第二層は「責任を外に置く」、第三層は「責任を内側に置く」という区別があります。

これは、第一層・第二層が全てにおいて無責任ということでは必ずしもありません。第一層・第二層の人達でも、役割責任や社会的責任は大抵の場合果たしています。役割責任は、職場や家庭での役割を果たすこと、社会的責任は、社会のルールを守り、納税や選挙に行くなどの、社会を維持するための責任を果たすことです。
第三層の問いは、これらの役割責任や社会的責任を問うものではありません。自分の存在責任を問うものです。
- 倫理観「自分はどうありたいか」
- 哲学「自分はどう生きるか」
- 宗教性「生きるとは何か」
普段はこれらの言葉では考えていなかったとしても、「自分としてどう感じ、考えるのか。何を信じ、何を是とし、何を非とするのか。そして自分は何を選択するのか」を常に自分に問いかける姿勢そのものです。これが「責任を内側に置く」ということです。ここには「世間やメディアやみんながそう言っているから」が入り込む隙がありません。
誠実さとは、単に人との約束や、ルールやマナーを守ることだけではありません。この「自分自身に誠実に、忠実であり、正直であるか。自分をごまかしていないか」という姿勢です。そしてこの姿勢は、当たり前にやっている人はやっている、「みんながそうしてる」で自分をごまかし続ける人はその自覚すらない、その乖離に「当たり前にやっている方が悩む」これがコロナ騒動の間、起き続けていたのかもしれません。
横に広がる本能×社会性VS下に伸びる存在の深さ
では、何故このような乖離が起きるのでしょうか・・・?「人間性や知性は決して悪くはない筈なのに」と、人間性や知性、或いは経験や価値観の問題に帰してしまうと、中々わからなくなるかもしれません。
人間は社会的動物と言われます。共感、理解、承認、愛情、信頼を求め、関係を築きたいと願う。「皆で力を合わせて乗り越えましょう!」に鼓舞される思いがする。だからこそ、協力し合う。それがなければ人間は社会を営めず、生きてはいけません。これはごく普通の人に元々備わった、本能的な希求でしょう。この本能と社会性の掛け合わせを、横に広がる力学と、ここでは位置付けます。
そして上述した「自分としてどう感じ、考えるのか。何を信じ、何を是とし、何を非とするのか。そして自分は何を選択するのか」の問いは、下へ伸びる方向性があります。存在の深さを担う領域のものです。所謂「深い話」「深い人」とは、この問いに支えられてこそのものです。この問いなしにはどんなに良書を読んだところで、自分のあり方には反映されないでしょう。これを下に伸びる力学と位置付けます。
この横に広がる力学と、下に伸びる力学は、90°違います。つまり、元々が相容れない方向性です。

表層と深層のコミュニケーションは前提が違う
横に広がる力学のコミュニケーションは、表層のコミュニケーションと言えます。これは「誤解が生じないように、正確に伝える」が目的となります。報連相、「この理解で間違いないですか?」と確認する、お断りの際は根拠と配慮を示して丁寧に、課題や目標を共有する、等々。特に職場はこの表層のコミュニケーションがなければ成り立ちません。
私が住む西宮市では、2026年1月からゴミの収集の区分が変わりました。そのリーフレットに言葉の説明だけではなく、イラストやレタリングを添えるのも「正確を期し、誰がやっても同じ結果になる」ための、表層のコミュニケーションの典型です。
ですから、表層のコミュニケーションは説明や、時には説得が必要とされます。工夫や粘り強さが奏功しやすいのが表層のコミュニケーションでしょう。
下に伸びる力学のコミュニケーションを、深層のコミュニケーションとするなら、これは説明や説得がほぼ利かない、わかってもらえるのは同じ深度にいる人だけに限られます。わかる人は一言でわかる、わからない人は百万言を費やしてもわからない、それがコロナ詐欺を巡る人々の反応の分岐だったように思います。
つまり、表層のコミュニケーションは「誤解が生じないようにするのが前提」、深層のコミュニケーションは「わかる人にしかわからないのが前提」と区別がつけられます。但し、人間の世界はこの二つのコミュニケーションが混在しています。特に家庭はそうです。家族関係の悩みの深さは、こうしたことにも起因しているかもしれません。
深層のコミュニケーションをやっている人は、表層のコミュニケーションも得意な人が多いのではと思います。だからこそ、深層のコミュニケーションに表層のコミュニケーションを持ち込み、「説明すればわかる筈!」を頑張り続けたのかもしれません。しかし残念ながら、それはやがて限界に達する時がやってきます。
第三層は純文学の読書を通して自分の影(シャドー)を感じ取る
「自分としてどう感じ、考えるのか。何を信じ、何を是とし、何を非とするのか。そして自分は何を選択するのか」の第三層特有の問いを、自ずからしている子供は、やがて思春期に入ると自分の影(シャドー)を見るようになります。影(シャドー)とは、嫉妬や焦り、怒り、悔しさ、狡さ、弱さ、不甲斐なさ等々、「見たくない自分の姿」です。
それらに直接向き合うというより、純文学の読書を通じて、「フィクションの中で安全に」自分の影(シャドー)を感じ取るようになります。人間の悪を描くのが純文学です。娯楽性の高いピカレスクロマンだと、「悪い主人公は他人事。自分ではない」と氣楽に楽しんでよいのですが、純文学の場合は「これは私のことではないのか・・?」と無意識のうちに問いが立ちあがる、そうした役割の違いがあります。
夏目漱石「こころ」の先生の影(シャドー)
夏目漱石「こころ」の「先生と私」の章で、先生は学生の「私」に、自分を再々訪ねるな、と釘を刺します。それを訝しむ「私」に、先生が次のように言うセリフがあります。
「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を退けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の自分を我慢する代わりに、淋しい今の自分を我慢したいのです。自由と独立と己(おの)れに満ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
もしこのセリフを忘れ難く記憶しているのなら、「これは影(シャドー)を見てしまった人の言葉だ」と直観したからで、それは第三層ならではの現象です。そして「こうやって他人に対して、声に出して言えるのは、大変な勇氣が要ることだ」とも。
第一層なら「暗い」「意味がわからない」「自意識過剰だ」などと、「不快」のカテゴリーに入れ、それ以上は考えようとはしないでしょう。
第二層の内、分析的に思考する人は「この場面は漱石特有の心理描写だ」などと、「評価」はしますが、自分の問題とは考えないでしょう。
「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとする」これは自分の中にもある、免れることはできないと感受するのが第三層で、だからこそ「他人からの評価評判に振り回されない」のです。自分の影を見てしまっているので、それ以上取り繕いようがないからです。「こんなけったくそ悪い茶番に誰が従うか!」は、単に氣が強いためでも「敢えて空氣を読まない」からでもなく、自分の影(シャドー)を見ているからこそできることなのです。
自分の影(シャドー)を見ていないとこの世のおぞましさに耐えられない
コロナ騒動は、世界史に特筆すべき人道に対する罪、謀略事件そのものでした。それまである程度、人間の心の闇を経験してきた人であっても、「世界はこんなにおぞましかったのか」にショックを受けたのではないかと思います。私もその一人です。そしてそのおぞましさは「自分の中にもある」これが影(シャドー)を見ている、ということです。だからこそ、他人事にはできなかったのです。
そのおぞましさにショックは受けても、結果的に耐えられた人、尚且つ長いものに巻かれて知らぬ存ぜぬを決め込まなかった人、自分に嘘をつくことに耐えられなかった人だけが、コロナの嘘に真剣に抗おうとしたのではないかと思います。それはそれ以前に、自分の影(シャドー)を見て、否定はせず、かつ埋没するまいとした生き方の履歴があればこそだったでしょう。
「自尊感情を高める習慣⑤話の噛み合わなさはどこで生じるか」で、「『従う=責任を果たす=安心』という構造は、自分で鍵を閉めてしまう心地の良い牢獄になる」と書きました。責任という負荷から逃れ、安心できるだけでなく、何よりも「自分の影(シャドー)を見ずに済む」
しかしそれと引き換えに、この世のおぞましさに耐えられなくなる。「耳にシャッターを下ろして」聞くまいとする。相槌は打つけれど本当のところは聞いていない。或いは「アタオカの反ワク」も中傷に自分から乗って攻撃する。「そんなものは陰謀論だ」と思考停止する。何度もワクチンを打つことがやめられない。2024年以降は65歳以上の定期接種になったため、殆どの現役世代はワクチンは打たなくなったにせよ、未だにマスクを外せない人も少なくはない。
これらも「この世のおぞましさに耐えられない」⇒「自分から快い嘘の物語に乗る」に集約できるかもしれません。
かつては「メディアを信じていると洗脳されるよ」と言っていたのに、強制されたわけでもないのに4回もコロナワクチンを打った人がいました。メディアの嘘を知っているかどうかが、実は根本原因ではなく、影(シャドー)を見ていたかどうかが決定的な分岐になったのかもしれない、2026年の初頭に、私はこのような振り返りをしています。
そして影(シャドー)を見るかどうかは、他人が強制することも、勧めることもできない類のものです。
横へ伸びる力学・表層のコミュニケーションだけで生活が廻っている人にとっては、下へ伸びる力学・深層のコミュニケーションに触れること自体が、まるで本能を脅かされるように感じ、瞬時に拒否反応が出るのかもしれません。
ですから、
受け入れがたく、耐えがたい
⇒文字通りノイズに聞こえる
⇒口には出さなくても「うるさいなあ」になる
こうした齟齬が起きているのではと推測しています。
無理解・無関心に傷つきながらも「不干渉と不介入で充分」は両立する
そうは言っても、真剣に抗った人、薬害に遭ったり、過剰な感染対策のために店を潰された人達が、世の中の無理解・無関心に晒されれば、傷つくのは当然です。
マスク姿を見ると「嫌だった時のことを思い出してしまう」だからイライラする。道行く人だけでなく、お店の人が未だにマスクをしていると「いつまでそれやるつもり?20年後も30年後もそれやるの?」とげんなりする。そして何より、避けられたはずの害を避けられなかった悔しさは、消えようがありません。それは自分の生き方に誠実であろうとした証なのです。

そして自分に誠実であろうとする、下に伸びる力学がより下へ、つまり深度が更に深くなると、イライラや悔しさは否定せず、その上でわかろうとしない他人には「不干渉と不介入で充分」と腑落ちするようです。「腹が立つから変えたくなる」VS「腹立ちを抑えて変えまいとする」の二択ではなくなり、腹立ちと変えようとしないのが自然に両立するように思います。
自分の影(シャドー)を見て、自分をごまかさず、誠実であろうとしない限り、人は自ら牢獄に閉じこもり、自分で掛けた牢獄の鍵を開けようとはしない。それは他人が介入できないことなのだと体感していくからでしょう。
なので「相変わらず腹は立つけれど、こちらから首を突っ込んで無駄に消耗したり、傷つかなくて良い。情報はもう充分出回っている。その人のアンテナが立っていなければ、仮にNHKが全国放送で、コロナ詐欺の真相とワクチン薬害の実態を毎日放送したとしても、意識の中には入らない」日常の言葉に置き換えれば、このような落としどころになるかもしれません。
深層のコミュニケーションは、言葉を超えた、存在の質で響き合う。互いの存在の深さによってしか伝わらない。それを徐々にでも体感するからではないかと、今の時点では私はこのように考えています。

