「No」を伝えた時に怒り出すのは「ママのばか!」と叫ぶ2歳児と同じ
もし「No」を言うことに抵抗を感じるのなら、何を恐れているでしょうか?どんな時に恐れを感じたでしょうか?まずこの質問を自分にしてみましょう。自分に正直に向き合うのが恐れを解消する第一歩です。
例えば仕事の後に飲みに行くのを断った時、「付き合い悪いな」と言われたことがある。自分にではなく他の人に言われたことであっても、それを恐れると断るのが怖くなるかもしれません。「付き合いが悪い人と思われたくない」がこの場合の恐れです。
「No」を言うのは「はいはい」と従うよりも、心遣いと知恵が要ります。以下の3原則を覚えておくと、サッと「No」が言いやすくなります。
①今夜は付き合えないのを残念に思う氣持ち、(ごめんなさいね)②断る理由(体調が良くない、家族との約束がある等)、③「またこれに懲りずに誘ってね」「夜は中々お付き合いできないのだけれど、休日のランチなら私も助かるわ」などの代替え案を添えれば、無礼な断り方にはならない筈です。もしくは飲み会そのものが苦手なら、「お酒の席はどうも苦手で」と伝えておけば、心ある人なら無理強いはしないでしょう。
また例えば「今月は出費が重なって金欠なの。だからごめんなさい!」と中々言いにくい理由を正直に言うと、その正直さに心打たれて「しょうがないね」とその人自身を悪くは思わないかもしれません。
それらを伝えてもなお、相手が不満を漏らすのは、相手の人格の未熟さの問題です。本書ではかなり辛辣に「他者が彼らに『ノー』と言うと、彼らは欲しい物を奪い取られて『ママのばか!』と叫んで駄々をこねる二歳児と同じ反応をします」「そのような人は自己中心的で、世界は自分と自分の慰めのためにあるのだと思っています」と指摘しています。「世界は自分と自分の慰めのためにある」身近な人の心当たりがある人もいるでしょう。
つまりそれ以上は相手の人格の問題であって、相手が自分で解決する/しないを選択することです。逆切れや逆恨みは誰だって嫌ですし、対処に苦労するものです。しかしここで妥協して、境界線の中に相手を招き入れれば、相手は図に乗ってどんどん食い込んできます。
別の角度から言えば、断られて当てこすりを言ったり逆恨みしたり、嫌がらせをするような人とは付き合わない、付き合わざるを得ない場合は心理的物理的に距離を置く、その判断材料にできます。そのような未熟さを放置しておけば、やがて誰でもなくその人自身にツケが廻って来る、それを示すのが境界線です。
「No」を伝えた時の相手の不満を自分が迎合して解消しようとしない
この飲み会が日常的なものではなく、何かの打ち上げだったり、もう滅多に集まれない人同士だと、断られた方のがっかり感は増すかもしれません。こうした場合は「がっかりさせてごめんなさいね」の一言を添えると、相手の氣持ちに寄り添えます。相手が貴方と同席できないことを残念に思う、その氣持ちを無視するのは、やはり思いやりに欠けるでしょう。
ただそれでも、「相手の不満を解消したくて自分の『No』を引っ込める」のは迎合であり、自分の選択に責任を負っていません。相手をがっかりさせてでも、優先したいことがある、このことに誰でもなく自分自身が責任を持たなくてはなりません。人は何かを選べば、何かを失う、それが選択です。
この迎合と、例えば仕事の交渉事で、お互い歩み寄ったり譲り合ったりして妥協点を見つけ出すのは、全く動機が違います。迎合は恐れであり、交渉して妥協点を見つけ出すのは、仕事なら仕事に対する建設的な態度の現れです。この動機の区別がつくと、「やってはいけない『Yes』」がわかりやすくなるでしょう。
「人から悪く思われたくないから○○する」は、結局は自己保身であり、打算です。断られる、断られないを別として、その動機で日々を生きていると自分が本当はどうしたいかを見失います。自分にとって何がYesでNoなのかがそもそもわからなくなります。その結果「正解を外側に求める」「言われたとおりにしておけば安心」「皆がやってるから」の自分の判断基準を持てない根無し草になってしまいます。
自分の良心や品位、価値観や信念、そして独りよがりにならない視野の広さ、それらに基づいて「私がこれが良いと判断したからそれを選ぶ」で毎日を生きる、この心構えが境界線においても大前提となります。人から言われたことに従う際も、「自分が(納得の上であれ、しぶしぶであれ)それを選んだ」自覚が大切です。
怒りのカモフラージュの罪悪感で操作することも
断られた時に相手がわかりやすく怒るとは限りません。寧ろ罪悪感で操作してくる方が多いかもしれません。罪悪感で操作する人にとっては、心優しく、人のためについ頑張ってしまう、情にほだされやすい、或いは評価評判を氣にする、人から悪く思われたくない氣持ちが強い人、氣の弱いお人好しほど、格好のカモです。
ため息混じりに「どうせ私なんて・・」と卑下してみたり、「あなたのことが心配で言うのよ」などのお為ごかしや、他にも「あなたならやってくれると思ったのに」「まさかあなたからそんな言葉を聞くとは思わなかった」「○○してやった(育ててやった、進学させてやった、旅行に連れてやった)んだから、今度はあなたが私に何かをしても良い番でしょ」と恩に着せて脅したり。「No」に怒ると相手が反発するかもしれませんが、こう言われると真っ向から反発しにくくなります。相手はまさにそれを狙っているわけで、うんざりするのが当然です。このうんざり感が、罪悪感で操作されているサインです。
罪悪感と良心の呵責は区別がつきにくいのですが、良心はあくまで自分のものです。そして良心に従ってやったことは「やって良かった」と誰に知られなくても自分が納得できます。罪悪感は他人が背負わせてくるもので、「させられた感」のモヤモヤ感が残ります。ですから常日頃から自分の良心からの選択を心がけると、罪悪感との違いがわかりやすくなります。
著者は「支配的な人の手持ちの武器で、罪悪感に訴える発言ほど強力なものはありません。確固とした境界線を持たない人は、罪悪感を負わせるような言葉を浴びせられると、まず間違いなくそれらを自分の内側に取り入れます」と述べています。
そして罪悪感で操作しようとするのは、実は怒りのカモフラージュであると指摘しています。彼らは「No」と言われたことへの怒りや失望、悲しみを正直に認めることができません。「あなたにそれを断られたことに私はがっかりした」が現実に起きたことですが、それをIメッセージでは言えないのです。「がっかりしたのは自分」だと、その感情の所有者は自分だと認めたくないがために、相手を動かして自分の責任を回避しようとします。「あなたがそんな冷たい人だったとは思わなかったわ」など。
この罪悪感で操作しようとしてきた場合は、「がっかりさせたことは残念に思うわ。でも以前に貸したお金を返してもらえない内は、あなたにお金は貸さないと決めたの」「電話でのおしゃべりは夜11時までと決めたの。翌日の仕事のコンディションを整えるのも私の責任だから。その代わり休みの日に、ランチかお茶をしましょう。その時にまた話を聴くわ」など、自分が何を選択し決めたかを明確にします。「私はこれこれを選択し、決めた」と人は意外と明言しません。覚悟と責任が伴うからです。この選択と決断を伝えた上で、代替え案を提案(夜中の長電話の代わりに休日にランチをする、など)すると、夜中の長電話がNGであって、自分を否定されたわけではないと受け取ってもらいやすくなります。
罪悪感で操作してくる人にこそ、「ここまでが私の選択であり、決断。その範囲内ならお付き合いできますが、それ以上は付き合えません」と自分の限界を明確にし、伝えることが必要です。
もし相手が全く聞く耳を持たずに暴言ばかり吐いたり、本来の話の要点はわざと避けて話をすり替えたり、或いは些細なことの揚げ足取りばかりして、要は「話し合いにならない」場合であればこそ、自分の限界はしっかり保ち、それ以上は「私の限界は伝えました。もうこれ以上話すことはありません」と「(相手が冷静に話し合える状態にならない内は)相手にしない」この態度もまた境界線を明確にすることです。
本書の例では、自分が氣に食わないとすぐに声を荒げる夫に対し「あなたが1分以内に冷静に話をしないのなら、今夜は友人の○○さんの家に泊まります」と言って、必ずその通りに実行するなどです。そのためにも、理解のある友人に前もって「緊急の際は泊めてもらう」約束を取り付ける必要があります。後述しますが、境界線を育てるには、思いやりと理解がある友人・知人に支えてもらい、「No」と言える練習が必須です。
ごく普通の思慮分別のある人なら、提案された通り「夜中の長電話は控えて、その代わりに休日のランチをする」「大声を上げることを止める」ものですが、不安の裏返しの支配欲に取りつかれた人は、「休日のランチではなく、長電話に付き合わせないと満足しない」「俺に大声を上げさせるようなことを言ったりしたりしたお前が悪い」になりかねません。その時こそ、境界線を乗り越えさせない強い氣持ちが必要になります。
これも繰り返しになりますが、常日頃の平時から、自分の限界を設定し、その中での優先順位付けをする意識的な習慣がないと、とっさの時にできません。行き当たりばったりで流されて生きていては、境界線は育てられないのです。
満たされていない必要によって境界線の抵抗は起きる
上記は「No」と言ったときに起きる相手の反応への恐れについてでしたが、更に掘り下げると、「No」を言うこと、即ち境界線を引くことへの抵抗は、私たちの内側にあるものに起因しています。
「何であんなろくでもない男とばかり付き合って言いなりになってしまうのだろう」「急な横入りの仕事なんか断ればいいのに。何で安請け合いするの?」「子供に『自分で目覚ましを掛けて朝起きれなかったら、自分の責任よ。お母さんが車で学校まで送ったりはしません』と何故か言えない」等々。
著者は「境界線を引けない理由の多くは、癒着してきた人を手放すことができないことです」と指摘しています。上記の最初の例は、父親からの愛情を渇望し、それが得られなかったがために恋人にその埋め合わせをしてもらおうとする。しかし恋人の無理難題を断ると、「父親からもらいたかった愛情」の埋め合わせができなくなるのでは、と恐れ始め、結果「No」を言えずに言いなりになるというパターンです。
私たちが子供の頃、親から過不足なく愛され、全ての必要を満たされて育った人はまずいません。親は生身の人間であり、またきょうだいであっても、親からもらいたいもの、必要とするものは異なっています。愛情と善意に満ちた親であってさえ、全ての子供の必要をタイミングよく満たすことは不可能です。まして親自身が癒されないまま、子供を支配欲と虚栄心の道具にして自分の人生の埋め合わせに使い、そのことに自覚がない例は枚挙に暇がありません。
ですから、著者は「程度の差はあれ、私たちは心理的な孤児」と述べています。
「相手との間に持っていないもの」を認める悲しみ
多くの場合、誰かに対して境界線を引き始めるとは、あなたが長い間切望していた愛を失うことになるかもしれないことを意味します。支配的な親に「ノー」と言い始めることは、彼らとの間に持っていないもの(※足立注:共感、信頼、愛、思いやり、対等なコミュニケーション、親の真摯な反省と謝罪など)を得ようと必死に努力する代わりに、持っていない悲しみに向かい合うことです。
(略)
私たちは境界線を引く代わりに「もし~でさえあったなら」と夢想します。無意識のうちに、自分自身にこう言うのです。「彼の完璧主義な要求に対決する代わりに、私がもう少し努力すれば、彼は私を好きになってくれるだろう」、あるいは「もし私が彼女の願いを聞き入れて、怒らせるようなことをしなければ、彼女は私を愛してくれるだろう」という具合です。
真面目な頑張り屋ほど、このような報われない頑張り方をしたことがあるかもしれません。そしてそれが、自分の望んだ結果にはならなかったことも。「きれいな氣持ちで愛情を注ぎ続ければ、いつかきっとわかってくれるに違いない」そう思うのは尤もですが、支配的でない人、即ち貴方を心から尊重する人であれば、それを貴方に延々とさせることはしません。頑張った相手が親だったり、恋人だったりしたでしょう。「持っていない悲しみ」に向き合うのが怖い、認めたくないがばかりに、へとへとになるまで頑張ってしまう、これは真っ当な努力のようで実は違うのだと著者は指摘しています。
愛を得るために境界線を捨てることは、相手についての真実を知り、その真実の持つ悲しさ(※足立注:実際には相手は貴方を愛していない。親は愛情からではなく義務感や世間体大事で子育てをしていた、など)を受け止め、手放し、前に向かって人生を歩み続ける、といういずれは避けて通れないことを先延ばしにするだけです。
上記の例で言えば、「夜中の電話のおしゃべりは夜11時まで」と伝えて、相手がへそを曲げるようなら、その相手は貴方を「都合よく」付き合わせていただけであって、貴方のことが好きでも大事でもない、それを認めざるを得ないということです。それを認めると、その人との関係は事実上終わらせるしかありません。それをしないと「手放して前に向かって人生を歩み続ける」ことができないからです。
また例えば、貴方ばかりデートのセッティングをして、お相手からは「いついつに会おう」とは言わない。そのことに段々疲れてきたなら、「もう少し頑張れば彼から誘ってくるようになるかも」の代わりに、「〇回連続で私がデートのセッティングをするのに疲れてきたの。この疲れが癒えるまでは、私からはセッティングをしません。でもあなたとの付き合いをやめるわけではないのよ」と境界線を引く。そしてその後、彼からデートのセッティングしようとしなければ、これも上記の長電話と同じで「都合よく付き合わせていた」に過ぎません。それを知るのを恐れると、延々と頑張り続け、貴方は疲弊し、彼にとっては都合の良い関係が既得権益化します。
よくやりがちなのは「あなたからもたまにはデートに誘ってよ!何で私ばっかり!」ですが、それをすると相手は自己防衛に走ります。「今までごめんね、次からは僕がデートに誘うよ」とあっさり言ってくれることは中々ありません。大抵は言い訳したり、ひどい場合は「お前が勝手に誘ってきたんだろう」とこちらのせいにしたり。ですからこれをしてしまうと「怒りで相手を操作する」を自分がやってしまい、良い結果を生みません。境界線の原則は、自分の限界を示し、その上で自分がどうするのかを宣言することです。
小さな事柄で「No」を言う練習
境界線を引くには、誰にとっても努力が必要です。強い意志と知恵、心遣いとエネルギーが要ります。それらがなくなると、うっかりすると「No」を言えずに流されるものなのだ、とまず意識化することが肝要です。流されて生きているとは意識的に生きていないということです。自尊感情と同じく、境界線を育てることにも終わりはありません。
それから小さな事柄で「No」を言ってみる、成功体験を積んでいきます。小さな成功体験をできるだけ数多く積む、数稽古を積んでこそ、「No」と言う恐れがなくなり、より大きな問題で毅然とした態度を取れるようになります。
エクササイズ:「あの時断りたかった経験」を再度シュミレーション
ご自身の日常を振り返って「あの時は本当は断りたかった」経験をまず洗い出してみます。LINEのやりとり、急な残業依頼、横入りの仕事・電話、実家・義実家への帰省、食事中に電話がかかってきた、など。
そして「今ならどのように断るか。『No』を言うか」をシュミレーションします。
例えば横入りの仕事の場合、状況はどんどん変わるので、「これだけが正解」はありません。実際の場面で「あの時は本当はこれこれの仕事を優先したかったのに、断り切れずに受けてしまった」その反省があるのなら、まずその横入りの仕事の中身を聴いた上で「2分お時間頂けますか?今日の私の仕事の優先順位と照らし合わせます」と考える時間をもらう。そして「今日はこれこれの仕事を先に進める必要があるので、これが終わった後ならお受けできますが、それで間に合いますか?」と交渉する、などです。
他にも、部下や同僚、他部署の人が「ちょっとすみません・・」と話しかけてくる場合も、まず緊急の案件かどうかを確認した後、そうでなければ「ごめんなさい、今は急ぎの仕事があるの。長くなりそうな話なら、改めてセッティングした方が私も集中して話を聴けるし、その方がお互いにとって良いと思うけど」とこちらから提案するなどです。
要は「こういう時にはこう返す」を自分の頭の中でシュミレーションし、準備しておくということです。そして逆切れしたり、逆恨みしたりを決してしない、常識的な話が通じる相手で練習させてもらいます。職場はお互いに「仕事が円滑に回ること」を目的としていますので、納得してもらえる理由と代替え案を提示すると「No」を伝えやすいでしょう。
こうした職場がない場合は、LINEのやりとりをこちらから切り上げる練習、どの店でランチをするかを「誰かが決めてくれるのに乗っかる」ではなく、自分から提案するなどの練習をしてみます。自分から「こうしたい」と明言するのも、境界線設定の一環です。これらも、常識的で理解のある優しい人をまず相手に練習するのがコツです。シュミレーションだけで終わらせるのではなく、実践してみて手ごたえをつかむ、そしてよりスキルに磨きをかける、これの繰り返しにより自信を育むことができます。
「No」を言い始めると、境界線を引くと、境界線を尊重しない人は貴方から去って行くでしょう。その悲しみは、しっかり感じきるべきなのです。悲しみきるとは、境界線こそが尊厳の現れであり、価値あるものだと知ることです。それがわからない人とは、ご縁を終わらせるしかありません。それをしてようやく、境界線を尊重しあえる人との新たな出会いを得、そして何より、自分の境界線を通じて「自分とは何者か」を知り、その自分に忠実に生きることができるのです。