自分への愛情を受け取れる、それがわかる感性
岡ひろみの特筆すべきところは、素直さでしょう。
松下幸之助も素直さを大事な特性に挙げていたが、これはただ何でもはいはいと言う事を聞く、ということではありません。これはただの思考停止です。
素直さとは、「自分への愛情を受け取れる、それがわかる」感性のことだと思います。そして案外、これは得難いことです。
物語中、西高を卒業していくお蝶夫人と、岡は高校生同士として最後の試合をします。
試合前、お蝶夫人は父親の竜崎理事に、その心構えをこう話していました。
「たぶん同じ西高生としての最後の真剣勝負でしょう
それにふさわしい試合をしますわ一球一球すべてのショットがあの子への置き土産です
どの球をどうさばき どんなペースでどう走り どんな種類のショットがあるのか
力の限り見せるつもりです先輩として後輩の成長を促すように 戦った意味があるように戦いたいと思うのです」
お蝶夫人の、宣言通りのあらゆる技を目の当たりにした岡は、次のように自問し、そしてお蝶夫人の真意を悟ります。
「ただ勝つためのプレイに あんな技が必要だろうか
ロブもボレーもスマッシュも あんなみごとな あんな多彩な・・・私のために!・・・私に見せるために 教えるために」
岡は試合に敗れましたが、試合後ネット越しに握手をした際、お蝶夫人に涙ながら「ありがとうございました」と告げました。お蝶夫人は自分の意図を、岡が正確に理解したことを、また理解します。
「わかってくれた!ああ よくわかってくれたわね
これであたくしの全てを出しつくした甲斐があったわ よかった!」
愛するとは命がけ、愛されるとはその命がけに応えること
相手に適した愛情を注ぐのも難しいものですが、受け取るのも、実はそうたやすくはありません。人はしばしば、受け取った愛情を自分から投げ捨て、まだ足りない、愛されていないと拗ねます。そして、自ら心を開いて愛情を受け取り、無駄にしない人を、あまつさえうらやんだり妬んだりします。
或いは、甘言を弄してちやほやし、利用してくる人を「自分を愛してくれている」と勘違いしてしまいます。
愛することも、愛されることも、常日頃のその人の生き方が問われます。
では、どうすれば注がれた愛情をしっかり受け取れるのでしょうか・・・?
岡もお蝶夫人も、真剣勝負でした。岡は試合前に、心の中でお蝶夫人にこう話しかけています。
「お蝶夫人・・
わたしのあこがれ わたしの理想 私をテニスにいざなった方―
そのあなたを わたしは今 本気で倒したいと思います」
そしてお蝶夫人も、試合直前、岡にこう告げます。
「来なさい 死に物狂いで
最後よ どれほど力がついたか あたくしにはっきり見せなさい」
二人のうちいずれかが、いい加減な気持ちだったら、死に物狂いでなかったら、愛を注ぎ、また受け取るということはあり得ませんでした。
愛するとは死に物狂いでやることです。真剣に命がけでやることです。「片手間の愛」「いい加減な愛」は言語矛盾です。死に物狂いを言い換えるなら、渾身ということです。
この渾身ということは、作品中さまざまに形を変えて、随所にメッセージされています。宗方が、後に岡のコーチになるレイノルズに、岡について語るシーンがあります。
「あれは限界を知りません
受けられない球だとか 耐えられない特訓だとか 自分のプレイを限る考えが一切ないのです
それでここまで伸びたのです」
今の自分の限界をわきまえることと、「だって、どうせ」で先回りしてシャットアウトすることは別のことです。
お蝶夫人の言葉に「あれも耐え難い これも耐え難いと思うだけで この世に耐えられないことなどないのかもしれません」というものもあります。
不当な、心身を虐げるような事柄を我慢してはいけません。そうしたことには敢然とNoを言えることも(言い方はさらりとかわすこともあるでしょうが)、自尊感情にとっては不可欠です。そしてまた、自分のあり方、到達しうる境地には限界はありません。そして、そのための試練は当然やってくるもので、耐えられないものはありません。それから逃げたところで、また追いかけてきます。
「だって、どうせ」を言わないことと、渾身と素直さはつながっている
岡の限界を決めない素直さは、目立ちませんが、できそうで中々できないことです。「どうせ私には無理」「だってあの人は特別だから」ともっともらしい言い訳をし、ごまかして逃げる方がずっと楽です。
物語の序盤、岡は自分がぼろ負けしたお蘭について「(だって)でもあの人とは素質が(違うから)」と宗方に言い訳しようとしました。宗方は
「馬鹿なことを言うな 体格さえあればあのサーブが打てるか!
あれはお蘭の努力の結晶だ」
と戒めました。
「だってあの人と私は違うから」は、相手に対しても大変失礼です。裏側にある努力を、無かったことにしているからです。
そしてまた、「どうせ」は自分に対しても失礼です。「どうせあなたなんか無理よ」と言われてうれしい人がいるでしょうか・・・?他人に対して「どうせあなたなんか無理よ」と平気で言えるでしょうか・・・?そしてまたおかしなことに、この「どうせ」を自分にやる人ほど、他人にかまってもらおうとします。かまってちゃんになって、人生が好転することは決してないにもかかわらず。
「だって、どうせ」を言わないことと、渾身ということと、注がれた愛情を受け取れる素直さはつながっています。
こうした態度は、見る目のある人にはわかってしまうものですが、悪目立ちすることはありません。
誰に気づかれなくても、誰にもわからなくても、言い訳をせずに渾身の思いで生きる、それに勝るものはないというメッセージが、登場人物たちの生き方を通じて込められているかのようです。