マインドフルネス「今ここ」に集中すること
マインドフルネス、「今ここ」に集中しましょう、と聞いたことがある方も多いでしょう。マインドフルネス自体は比較的耳新しい言葉かもしれませんが、古今東西の賢人たちが説いてきたことです。
それゆえ、あなた方に言っておく。命のために何を食べ、何を飲もうか、また体のために何を着ようかと思い煩ってはいけない。命は食べ物に勝り、体は着る物に勝っているではないか。
空の鳥を見なさい。種を蒔くことも刈り入れることもせず、また倉に納めることもしない。それなのにあなた方の天の父は、これを養って下さるのである。(略)
野の百合がどのように育つかよく見なさい。骨折ることも、紡ぐこともしない。あなた方に言っておく。栄華を極めたソロモン王でさえ、この花一つほどにも着飾ってはいなかった。今日生えていて、明日は炉に入れられる野の草をさえ、神はこのように装って下さるのだから、ましてあなた方に対しては、尚更のことではないか。(略)
まず、神の国とそのみ旨を行う生活を求めなさい。そうすれば、これらのものも皆、あなた方に与えられるであろう。だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日思い煩えばよい。その日の苦労は、その日だけで十分である。
新約聖書 マタイによる福音書 6章25節から34節
福音書の中でも人口に膾炙した美しい箇所ですが、やはり人は「思い煩って」しまうものです。これがたやすくはできないからこそ、読み継がれ、受け継がれてきたという逆説も成り立ちます。
「今ここ」ではないとは、過去や未来に囚われるということです。誰しも好き好んで過去や未来に囚われたいわけではありません。
過去や未来に囚われている時、一体何が起きているのか、主だったものを挙げていきます。
【過去に対する囚われ】納得のいかなさ・理不尽さ
もう過ぎ去ったことで、今更何をどうにもできなくても、何度でも心をよぎってしまうのは、自分が納得がいかないからです。心は落としどころを探そうとして、ああでもない、こうでもないと考えたり、ネット検索で何とか答えを探そうとしたりします。
納得のいかなさの中には、「上司(お客さん、今の若い人、ご老人)なんてそんなものよ、○○さんはまだましな方よ」「いつまでたっても『NHKが言わないことはないのと同じ』で、自分で調べない人って、もうどうしようもないよ。放っとくしかないよ」」などと自分の見方・捉え方を広げ、対人関係スキルを磨いて先回りして対処するしかないことと、受け入れてはいけない理不尽の二通りがあります。
受け入れてはいけない理不尽と「あの人がそういう人」の課題の分離
受け入れてはいけない理不尽とは、自分の尊厳を傷つけられたことです。行き違いや誤解、悪氣はないが余り氣が利かない人だとか、その時は余裕が持てず、或いは若いうちはどうしても視野が狭くなるなどで、結果的に自分のことで精一杯などではありません。状況如何に関わらず、人を物のように扱う、自分の都合だけで利用するなどです。
利己主義は他人に対する純粋な関心を一切排除しているように見える。利己的な人は自分自身にしか関心がなく、何でも自分の物にしたがり、与えることには喜びを感じず、もらうことにしか喜びを感じない。利己的な人は外界を、自分がそこから何を得られるかという観点のみから見る。他人の欲求に対する関心も、他人の尊厳や個性に対する尊敬の念も、持たない。利己的な人には自分しか見えない。彼は、自分の役に立つかどうかという観点から、一切を判断する。そういう人は根本的に愛することができない。
エーリッヒ・フロム「愛するということ」(下線は足立による)
この利己主義は性格が我がままとか横柄とかではありません。人当たりは優しかったり、常識的で温厚な人に見えることもあります。自分にとって相手が都合が良い時は優しく、サービス精神旺盛に振舞っても、少し都合が悪くなれば掌を返して逃げてしまいます。或いは、こちらに理由にならない言いがかりをつけてくるなどです。引用の通り、他人の尊厳を尊重することがありません。ですので、抗議しても全然通じません。相手が謝るのは、「自分が憎まれたくないから」の自分の都合であって、心を痛めて反省した結果ではありません。
これを殊に自分の親にされると、子供は大変傷つきます。本当は子供は悪くないのですが、「自分には尊重される価値がない」と子供は受け取ってしまうのです。自尊心を深く傷つけ、頑張っている割には自信が持てない、土壇場で怯んでしまう、そしてその自分にまた怒りを感じるという悪循環になります。またその怒りは心の奥底に抑え込まれ、自分でも氣づけない心の足かせになってしまうのです。
ところで、この原稿を書いているのは2025年2月ですが、コロナワクチンを3回接種後、悪性リンパ腫になった原口一博衆院議員が、自分の癌細胞を調べて、それがコロナワクチン由来であることを突き止めた論文を、国会で発表しました。その答弁を聞いた加藤財務大臣(元厚労大臣)は、「私は6回打ちました。(でもご覧の通り、ぴんぴんしています)」と目の前の原口議員に言ったそうです。開いた口が塞がらないとはこのことです。
こうした理不尽で無礼千万な態度は、誰にとっても受け入れていいものではありません。一方で、加藤大臣に対しては「本当に情けないけれど、あの人がそういう人」と、改心を求めない。それをしても無駄ですし、自分が無間地獄に陥るからです。しかしこれも、遠い他人にならできても、身近な人、まして親だと大変葛藤します。簡単には割り切れず、紆余曲折は当然ありますが、最終の着地点は「あの人がそういう人。心のあり方は、その人自身が選ぶこと」の課題の分離だと心に決めます。そのように決めてしまうことと、「どうか改心して。でも無理。でも改心して」の堂々巡りに自分が嵌り込むことの違いを感じ取っていただければと思います。
フロムの引用に戻りますが、利己主義者は基本的には変わりません。「外界を、自分がそこから何を得られるかという観点のみから見る」態度のためです。そこに良心の呵責はありません。性格や人当たりの印象ではなく、その人が「外界から何を得られるか」になっていないかどうかで見極めます。大人しい人でもお客さん意識どっぷりで、言われたことはするけれど、自分からは与えないのであれば利己的と判断して良いでしょう。その逆で少々荒っぽい人でも、損をしても大事なことをやり抜ける人は利己的ではありません。
【未来の不安】自尊心を傷つけられていると自分を信じ切れない
未来は未知ですから、誰しも多かれ少なかれ不安があるのは当然です。しかし「まあ、何とかなるよ」と氣楽に構えられないのなら、未来を過剰にコントロールしたい欲求があるのかもしれません。
多少の心配性が、「前もって早めに準備する」などの行動に昇華できればそれは長所になります。いつもギリギリになってバタバタするより良いでしょう。
しかし例えば、どこに行くにも、日帰りの外出にも、「もし○○がなかったら困るから」とバッグを二つも三つも抱え、どんなカンカン晴れの日でも雨傘を持ち歩いていれば、それはやり過ぎです。コンビニやスーパーに飛び込めば、いざとなれば何でもそろいます。「いざとなれば何とかする、何とかできる」と自分を信じ切れていないために、過剰な防衛をしてしまっています。
大荷物は持ち歩かなかったとしても、他のことで「こうでなかったら困る」を知らず知らずのうちにやっていると、それは囚われになります。人間の三大悩みはお金、健康、人間関係と言われますが、このいずれか、或いは複数に「こうでなかったら困る」はないでしょうか?例えば「〇歳までに貯金はいくらないと困る」「〇歳までに結婚できなかったら困る」「誰それが○○だったら困る」等々。
「〇歳までにいくらいくら貯金をする」「〇歳までを目安に結婚したい」などの目標を持ち、具体的な行動を積み重ねて努力するのはごく自然なことです。しかし、「そうでなかったら困る」ならば、それは恐れが動機になっています。そしてそれはもしかすると、傷ついた自尊心の埋め合わせ、「そういう私でなければダメだ」をやっているのかもしれないのです。
現実には、「〇歳までにいくらの貯金」があってもなくても、「〇歳までに結婚」してもしなくても、それでも人生は進んでいきます。望んだ結果になってもならなくても、自分は自分で、そのことで自分の価値が上下するわけではありません。「襤褸(ぼろ)は着てても心は錦」これは表面的なことで左右されない真の誇り高さです。しかし心からそう思えていないと、即ち自尊感情が低いと、過剰に未来をコントロールしようとしてしまいます。
「目標⇒計画⇒実行」の人間の思惑と、その思惑を超えること
例えば製造や販売の仕事なら、受注・発注⇒製造⇒流通⇒販売の計画を半期ごとに立てます。そしてこの計画に従って日々の仕事があります。段取り八分という言葉がある通り、仕事は準備がほぼ全てです。しかしそれをしてもなお、全てが思惑通りになるわけでは当然ありません。私たちは自分の願い通りにならないと、不安になったり、怒ったりします。
しかし長いスパンで人生を振り返ると、自分の思惑を遥かに超えたことの方が、新たな人生を切り開き、また自分が大きく成長したきっかけになったと氣づけるでしょう。どんな人もそうだと思います。
自分の小さな頭で考えた、計画通り、思い通りよりも、それは大きな影響を与えていた、それがなければ今の自分はないと思えると、「何が何でもこうであらねば!」と力まなくて済むかもしれません。
「計画も目標もないと、行き当たりばったりで何をしていいかわからなくなるけれど、『思わぬ展開』が新たな道を切り開いてくれることもある」の二つの観点を持ちます。そうすると「思わぬ展開」を過剰に恐れ、未来をコントロールしたい囚われからは自由になっていけるでしょう。
親以外の人から認められ、大事にされた経験
傷つけられた自尊心による低い自己評価は、本当の貴方ではありません。曇った、或いは歪んだ鏡に映った自分を、本当の自分の姿だと思ってしまっているだけです。人は自己評価を高めようとして、能力や評価評判を得よう得ようとしてしまいます。真っ当な努力だけでなく、取り巻きを求めたり、誰かに迎合したり阿諛追従したりで埋め合わせようとすると、その不誠実さは鏡ではなく、自分の魂を曇らせてしまいます。
自分を映し出している鏡の曇りや歪みを取るところから、本来は始めなければならないのです。
そのやり方は一つではありません。ここでは、親以外の人から、認められ、大事にされた経験を思い出すのを提案します。必ずしも学校の先生や職場からの評価とは限りません。
例えば子供や動物の方が、利害打算ではない、本能で相手のことがわかります。ある女性は、友人が飼っていた保護犬に、初対面なのに懐かれました。友人曰く「こんなことは今までない。保護犬だから警戒心が強くて、お客さんがビーフジャーキーで釣っても、貰ったらすぐに自分の小部屋に引き上げちゃう」とのことでした。背中を撫でさせてくれたのは、ワンちゃんが安心しきっていた証拠です。友人とのおしゃべりに興じていると、そのワンちゃんが、女性の手首を甘噛みして、自分に注意を向けようとしたそうです。
彼女曰く「会社からの評価よりも、嬉しかった」とのことでした。打算のなさで自分を慕ってくれたのが嬉しかったのでしょう。
他にも入院の経験がある方は、思いもかけない人達からお見舞いしてもらったことなども思い出してみます。利害打算ではなく、自分を大切に思って、わざわざ足を運んでくれたのです。
親から蔑ろにされた痛みが、他人から大切にされたことで帳消しになるほど、人の心は単純ではありません。それでもなお、利害打算ではなく、その人を認め、大事にされ、慕われるのは、それもまた貴重な出来事です。私たちは誰も皆、既に得ているものに感謝を忘れ、ないものねだりばかりしてしまいます。「実は当たり前ではないこと」即ち「ありがたいこと」に意識を向け直し、鏡の曇りや歪みを少しずつ取っていきます。
心からの感謝は、自尊感情の中身の一つです。
「幸せは不幸の顔をしてやってくる」
上述した通り、私たちの思惑を超える出来事が、私たちの可能性を大きく開きます。しかしそれは通常、痛みを伴う辛い経験、その時は「何でこんな目に遭わなきゃならないの!」と恨み節が出ることです。それが見出しの「幸せは不幸の顔をしてやってくる」です。
冒頭のマタイ福音書の一節は、神の摂理を説いたものです。
「求めなさい。そうすれば与えられるであろう。自分の子供がパンを求めているのに、石を与える者がいるであろうか。魚を求めているのに、蛇を与える者がいるであろうか」も、マタイ福音書のイエスの言葉です。但しパンを求めればパンを、魚を求めれば魚を与えるとは言ってません。子供がチョコレートを欲しがっても、賢明な親はいつでも言いなりに与えたりはしません。チョコレートの代わりに野菜を与えるかもしれません。そして私たちは「何で!これは違う!」と文句を言います。そしてずっと後になって「あの時は野菜で良かった」とわかる。そうしたことを一生繰り返しているのでしょう。
過去の理不尽さは受け入れない、毅然として退ける心の強さを養い、「あの人がそういう人。あの人の心の問題」と課題の分離をする。未来の不安は「目標や計画に沿って行動はするけれど、『思いもかけない展開』が新たな可能性を切り開くこともある」そしてその「思わぬ展開」は、通常「幸せは不幸の顔をしてやってくる」このように考え方を整理すると、「今ここ」に集中しやすくなるでしょう。やりやすいところから、是非実践していただければと思います。