心の傷には癒せるものと、生涯残るものが
心の傷には、学びや気づきに変えられるものと、やはりそうは言っても、生涯その痛みは残ってしまうものとがあります。
多くの場合は、対処方法を身に着け、事実の受容(「どこに行ったってわがままなお客さんはおるねん!」「どんな上司だって完璧じゃない」「どんな世界にもいじめや嫌がらせはある」など)をしていくことで、生きた知恵に変えられます。
一旦生きた知恵にしてしまうと、大抵はその「嫌だったこと」は「そんなこともあったなあ」と受け入れられます。傷がうずくことにはなりません。
こうして私たちは困難を乗り越え、成熟した大人になっていきます。
しかし、痛まなくなる傷ばかりではありません。これが人間の世界の不条理とも言えますし、また奥深さとも言えます。
私たち人間は、どんなに傷ついても生きていかなくてはなりません。
ただ中には、「自分の不幸は蜜の味」とばかりに自分から不幸に溺れ、責任と主体性を放棄する言い訳にする人も少なくありません。
一方で、また人間はそう捨てたものでもなく、深い心の傷を使命に変えることもできます。人間の偉大さとはこうしたことにも潜んでいます。
若き日の向田邦子の恋人と、その死
脚本家・エッセイスト・小説家の向田邦子は、没後30年以上たってもなお、根強い人気を誇っています。
彼女のドラマや小説は、人間洞察に富んでいます。特に男女関係における人間の悲しさ、時にはだらしなさに対する鋭くも深いまなざしが、人気の秘密でしょう。
その向田邦子は若き日、妻子ある男性と恋をしていました。脳卒中で倒れた彼を、経済的にも精神的にも献身的に支え、尽くしました。
しかしその彼は、自分を不甲斐なく思ったのか、彼女の負担になるまいと思ったのか、自ら命を絶ってしまいました。
彼女はこの恋と、悲しい結末によって負った心の傷を、生涯自分の胸の内だけに秘めていました。
愚痴やおしゃべりなどには、とてもできることではなかったでしょう。
心の傷は深ければ深いほど、安易に口に出せるものではありません(ですから、浅い付き合いなのに不幸話をペラペラしゃべり、同情を引こうとする相手には要注意です)。
後年の彼女の作品の人間洞察の深さは、この時の心の傷を昇華したものと思われます。
そうすることでしか、癒しようがなかったでしょう。彼はこの世には既になく、また秘めた恋であれば、他人に打ち明けることもできなかったのですから。
それでもなお、この痛みが彼女の心から消えてなくなることはなかったでしょう。
怒りや憎しみは自尊心が死んでいない証拠であることも
ところで、ネガティブな感情は、怒りや憎しみに変わっていくことがとても多いです。
脳は大変素早く反応するので、往々にして元々の感情がどこかに吹き飛んでしまいます。
怒りや憎しみは、客観視して受け止めることをせずに、そのまま行動化してしまうと、自分や他人を傷つけることになってしまいます。だからこそ、人はそれを「感じちゃいけない!」と抑えがちです。
大切なことは、「何に対して、どのように怒っているのか」です。自分のエゴが通らなかったから拗ねて怒っているのか、自分の尊厳、自尊心や内心の自由を侵されたから怒っているのか。それを客観視できる自分を育てることが、人間の成熟の条件の一つです。
自尊心(pride)と自尊感情(self-esteem)が共に下がっていると、屈辱的な扱いをされても気がつかないことがあります。反射的に自分を責める癖がある人は要注意です。
自分の自尊心が傷つけられたり、境界線を侵されたときに不快な感情を抱き、そしてそれを否定せずに受け止めることは、自尊感情を保つために非常に重要です。
心の境界線自尊感情が低下すると、自分と他人の境界線があいまいになりがちです。自分ではどうにも出来ないことなのに、自分のせいのように感じたり、完全に相手が自由に決めて良いことなのに「なんでこうしないの!?」と口をはさまずにいられなか[…]
怒りや憎しみは、その人の自尊心が死んでいない証拠でもあり得るのです。
怒りに潜む悲しみを愛に、そして使命に昇華する生き方
非常に強い怒りが、恨みになることもあります。人間の心には返報性の原理があるので、恨みの感情を抱くこと自体は止められません。
ただ理性的な人ほど、恨みをそのまま晴らしては自分も相手と同じレベルに成り下がってしまうと自制します。
この自制心は大切ですが、感情は感情として残るものです。ですので、できれば信頼できる第三者に、恨みの感情を否定せずに聴いてもらい、吐き出せるといいでしょう。
特にサイコパスや、境界性人格障害、自己愛性人格障害の人たちは、「わざわざ相手を怒らせて」報復させようとします。心理ゲームを仕掛けてきます。
報復させることで、自分を被害者に仕立て上げて更に相手を糾弾したり、大げさに泣いて謝ったり自分を責めてみせたりして、同情と許しを引き出そうとします。相手の感情を翻弄し、疲弊させていきます。
そうしたゲームにはまらないためにも、恨みや怒りをそのまま相手にぶつけることは、特に人格障害もしくは人格障害が疑われる相手には、絶対に避けなくてはなりません。
心が深く傷つき、生涯残る傷になるのは、単なるわがままのためではありません。怒りの中に深い悲しみがあればこそです。
怒りや恨みの感情を適切に処理しつつ、その中に潜む悲しみを探ること。そして悲しみは愛があればこそでもあります。
向田邦子が恋人の死を、生涯口に出せないほど悲しんでいたのは、それほど深く彼を愛すればこそだったでしょう。どうでもいい相手には、私たち人間は心から悲しむことは中々できません。
そしてこの愛を、今度は使命に昇華することができます。向田邦子が、作品における人間洞察に昇華したように。
彼女の作品には、きれいごとは描かれていません。しかし「きれいごとばかりでは生きられない」人間の悲しみに対する深い理解があります。この理解を愛と呼んでもいいでしょう。そしてこのことが、死後もなお新たな読者を獲得し続ける理由の一つかもしれません。
使命とは特定の職業や活動ではなく、日々のあり方の発露
使命というと、特定の職業やボランティア活動などの行動レベルで捉えている人も多いでしょう。
しかし、使命とは「この仕事や活動をしている時には使命を果たし、それをやっていない時は使命を果たしていない」という類いのものではありません。
仕事や活動は、使命を果たす手段の一つでしかありません。
例えば、向田邦子の使命が「人間の悲しみに対する理解」だったとして、執筆している時だけその使命を果たしている、ということがあり得るでしょうか・・・?
執筆していない時であっても、何をしていてもしていなくても、「人間の悲しみを深く理解している」人であってこそ、使命を果たすことができます。
使命とは、行動というよりもむしろ、自分のあり方に込められている心そのものなのです。
使命を生きているかは、一貫性に現れる
使命とは心そのものです。ですから、何故それを使命とするのか、自分の言葉で言えること、また言葉にできなかったとしても、一貫した態度行動振る舞いに現れていることが大切です。一貫性に現れてこそ、本当の使命です。裏表がある人を、使命に生きている人とは言いません。口先では立派なことを言っていても、特に危機に際してどのような態度を取るかがその人の真価です。
この生き方である使命を得るために、潜在意識は時として、血を吐くような悲しみを経験させることがあります。向田邦子が恋人を自死によって失ったように。他にも、家族を交通事故で失った人が、交通事故撲滅の運動に携わるようになるなどもそうです。
「このようなことが決して繰り返されてはならない」「未来永劫起きてはならない」こうした強い思いを持ち続けるには、知識ではなく経験を通す必要があります。
生涯残るような深い心の傷に向き合うことの意義は、こうしたことにもあるのです。
弊社Pradoの使命
ところで、弊社Pradoの使命は、
「個々のクライアント様の課題を通じ、自尊感情を高めること。そして依存も支配もしない、されない、させない生き方を増やすこと。単に戦争が起こらないということではない、お互いが同じ目の高さに立って尊重しあえる、真の平和な世の中を創ること」
です。
何十年か前までは、「声の大きい人の後ろについていけば安心」という世の中だったかもしれません。それは依存であり、依存したい人がいる限り、支配したい人も現れてしまいます。依存は支配の裏返しです。
人々の意識が高まり、マスコミや、偉い先生の言うことをそのまま鵜呑みにする人も減ってきています。勉強し考え続けている人と、そうでない人の差が、学歴などとは無関係に広がっているように思われます。
(学歴は必ずしもその人の知性や教養の深さを証明するものではありません)
依存と支配に翻弄され続ける人生が、どれだけ虚しく、愚かなことか。そしてどの人生も有限です。
あたかも、個々の免疫力が高まれば感染症が発症しないように、自己責任と自己決定に裏打ちされた個々の自尊感情が高まれば、平和な世の中も実現すると信じてやみません。
結果ではなく「使命に沿っているか」に誠実に
私たちはどうしても、売り上げや評価などの結果に意識が向きがちです。社会の中で生きていくためには、現金収入が不可欠なのでもっともな心情ではあります。
しかし、多くの人が既に経験しているように、結果のみに意識が向いていると、一喜一憂して心が休まりません。
何をしていても、していなくても、自分の使命に沿っているかに注意を払うこと。その使命が真に人様のお役に立つことなら、紆余曲折はあるにせよ、長い目で見れば必ず報われます。
それが信じられない場合、「そこそこの収入や地位は得ていても、それは自分の使命感の結果ではない人。自分のエゴで他人を振り回し、欺き、真の責任や困難から逃げ続けている人」を思い浮かべてみるといいでしょう。
多少の小金があったとしても、その人たちは真に幸せと思えるでしょうか・・・?何より、自分自身がそう生きたいと思えるでしょうか・・・?
結果とは必ずしも、収入や世間的な評価ではありません。
心の通い合った人間関係、自分に対する信頼感、素晴らしいものやあり方に感動できる心、人様からの愛情がわかり、受け取れること、等々。
人間の人間らしさを生きている実感こそが、真の結果のように思います。
何をしていてもしていなくても、使命に沿っているかに誠実に生きること。このことが、その人のあり方であり生き方です。そしてこれは、誰にも何にも、奪われることはありません。