共感と同情の違い・共感の必要性
心のことは目に見えません。コミュニケーションもまた目に見えず、会話はどんどん流れてしまうので、「似て非なること」をやってしまいがちです。
注意と叱責とお説教、提案とアドバイス、主張と抗議、似ていますが実は異なります。
その中でも共感と同情は、まったく似て非なるものです。見かけは似ていますが、「自分が相手をどう見ているか」の差が言葉の内容以上に伝わってしまいます。
共感能力という言葉はあっても、同情能力という言葉はありません。
共感が必要と言われていても、何故、どのように必要なのか。同情とはどう違うのかを掘り下げていきます。
他者の共感は、自己共感を助けるため
共感、承認(認めること)、受容(受け入れること)、これらをしばしば人は、他人から得ようとしがちです。
しかし本来、共感も承認も受容も、「自分が自分に対してするもの」です。
例えば、他人から承認を得たがる人ほど、実際に承認されると「そんなことありません!」と自分から否定しがちです。自尊感情が低いから、他人から承認されたくてたまらないのですが、いざとなると素直に受け取れません。「それを受け取るにふさわしい自分だ」と思っていない、それが自尊感情の低さだからです。
ところで、コミュニケーションのスキルの一つに、「相手が使った言葉をそのまま使う」があります。
これは言葉を変えてしまうと、自己否定感が強い人ほど「そんなことありません!」になりがちだからです。
(例「人に迷惑をかけたくないんです」「とても誠実なんですね」→「そんなことありません!」になることも)
相手が使った言葉をそのまま使う(例「人に迷惑をかけたくないんです」「迷惑をかけたくないんですね」)と、相手はそれを否定することはできません。
セラピストを含めて、他者が共感、承認、受容するのは、この自己共感、自己承認、自己受容を助けているのに過ぎません。
相手に共感、承認、受容を「与えて」いるのではない、まして「してあげている」のではない、これを肝に銘じるのが対人援助の鉄則です。
差し出せるのは、相手が自分で共感、承認、受容する「きっかけ」だけです。
心の苦悩は「この悲しみのもって行き場」が自分の内側に作れないこと
では何故、自己共感が必要なのでしょうか?
心理セラピーで扱うのは「心の中で起こっていること」です。
現実的な事柄には、クライアントからアドバイスを求められない限り、原則としてセラピストは立ち入りません。
心の悩みの多くは、「今更現実は変えられないし、変えられるとも思っていない。でも『この悲しみのもって行き場』が見つからない」ということでもあります。
ひとつの例を挙げます。
ある女性が結婚を考えていた恋人から別れを切り出されました。
彼女は「別れたくない」と哀願しましたが、哀願されたからと言って翻意するくらいなら、彼も最初から別れようとはしません。
ですので、結局は別れることになりました。
彼女は自分たちの仲の良さに自負を持っていたため、突然の別れに納得できませんでした。長い間ぐるぐると悩み続けました。
現実のどうにもできなさに疲れ果ててしまいましたが、しかしだからと言って、悲しみのそのものが消えるわけではありません。
長い時間ののち、彼女は、自分が本当にほしかったのは「彼」でも「復縁」でもなく、「ごめんね」の一言だったことに気がつきました。
もし、彼が一言でいいから、心から「ごめんね」と言ってくれたら、この悲しみに居場所を与えることができたのだろうと。
そしてこんなに恨まず、身を引くことができただろうと。
そしてそれは、今は自分が自分に作るしかないことにも。
そこで初めて、「彼はもう二度と、自分の元には帰ってこない」現実を受け入れることができました。
残念には思うけれど、致し方なかったのだと折り合いをつけることができたのです。
それに至ってようやく、彼を恨むこともしなくなりました。
新たな現実を生きるためにも「この悲しみのもって行き場」を
彼女は「この悲しみのもって行き場」を自分の内側に作れなかった間、「恨んだって仕方がない」と理性ではわかっていても彼を恨み続けました。
或いは、演歌の歌詞にあるように彼を「死んだ人と同じ」と思い込もうとしました。
つまり、現実を受け入れられなかったのです。
現実を受け入れられない間は、次のステップには進めません。
よく人は「気持ちを切り替えて・・」とか「もっといい人とのご縁があるよ!」などと慰めたり励ましたりしますが、悲しみが大きければ大きいほど、「はい、そうですね」と右から左に切り替えることはできません。
「この悲しみのもって行き場」を作り、現実を受け入れ、そして初めて、新たな現実へ踏み出せます。
「この悲しみのもって行き場」を作るのは、ただの慰めではなく、まして自己憐憫でもなく、次の、新たな現実を生きていくためです。
下手な同情は勇気をくじき、共感は勇気の土台に
新たな現実を生きようとする、これは勇気に満ちている状態です。
共感は、この勇気に満ちた状態になる、その前段階です。
ここが同情との違いです。同情は「かわいそうがること」、つまり相手を下に見ています。
お悔やみの気持ちとして「お気の毒に」と伝えることもありますが、いつまでもかわいそうがっていては、相手の自尊心を傷つけます。
体の具合が悪いとか、緊急の困りごとならともかく、それ以外のことで変に心配されて、却って自尊心が傷ついた、そんな経験をされた人も少なくないでしょう。
自尊心を傷つける、とは勇気をくじくことです。
生きていくことは、ルンルンで楽しいことばかりではありません。
誠実に、まっとうな生き方をしようとすればするほど、辛い思いをすることも起こります。ずるいことをして平気な人は、こうした苦悩を抱えません。
その時に私たちを縮こまらせず、新たな現実を、地に足をつけて生きるために必要なのは勇気です。自尊感情の中身の一つに、勇気があります。そして勇気は、後天的なもの。思いやりと同じく、生まれた後に自ら養い育てるもの。だからこそ、誰かにできて誰かにはできない類いのものではありません。
共感は、その勇気の土台のためにすることなのです。