豪州在住のツイッタラーJ Satoさんによる翻訳ツイート
今回は緊急提言として、オーストラリア在住のツイッタラーJ Satoさんの翻訳ツイートを転載・引用します。
世界中で全体主義が着々と進んでいる今、最も重要なインタビュー動画と感じた。心理学Matthias Desmet教授イ…
Satoさん曰く「世界中で全体主義が着々と進んでいる今、最も重要なインタビュー動画と感じた」とのこと。ちなみにオーストラリアはコロナの全体主義弾圧がもっとも激しい国です。
バラバラの大衆が、共通の群衆心理へと変容するには、変容する前の大衆が次の4条件を満たしている必要がある
1)社会的絆の希薄さ
2)生きていることの意味の希薄さ
3)漠然とした不安感
4)漠然とした不満や向かう先のない攻撃性→コロナ前の現代社会はその状態だった
上記4条件が成立している大衆に
・不安の対象→ウイルス
・その対象への対応戦略→感染症対策
を提示する物語を、繰り返しマス・メディア等を通じて大衆に語りかけると、大衆は群集心理状態へ変化する群集心理状態となった大衆は、団結して対応戦略を遂行しようとする。犠牲を払うことも厭わない
その団結が、新たな種類の社会的絆を生み、生きている意味を人に与える
孤立感のあるネガティブな精神状態から、社会的絆が非常に強いハイな状態へと変化し、社会的絆への精神的中毒状態になる
この精神的中毒状態が、どんなに馬鹿げているコロナ物語でも群衆が支持し続ける理由。気持ちいいのだ
物語に合理性は求められない。むしろ馬鹿げている方が社会的絆を確認する「儀式」として機能する
群集心理状態となった大衆は、物語の対象となっている非常に狭い範囲のこと(→コロナ)にしか、認知的・感情的リソースが向かわなくなる
他のより重要なことで問題や痛みが起きても気づかなくなる
群集心理になると、個人の自由よりも集団を優先させ、進んで自己犠牲を払うようになる
スターリンは、自らの共産党メンバーの50%を粛清・殺害したが、驚くべきことに、その粛清された共産党メンバーは反対や抗議をすることなく、集団のために粛清を受け入れていた
群集心理となった人々は、危機管理モードであり、生きる目的・意味を見出した状態である
政治家は群集心理に合わせると支持率が高くなり、合理的な政策でも群集心理にそぐわないものを取ると支持率が下がると理解し、群集心理・団結をより強める方向=煽る方向に行動する
群衆には今の状態が前の状態よりも気持ち良いわけであり、群集心理から目を覚ましてもらう時に、「前の状態(the old normal)に戻ろう」と呼びかけても効果がない。下手したら逆効果になる
そうではなく、前の状態(the old normal)ではない、よりよい状態に変化することを呼びかけなければいけない
物語にそぐわないことを言う人は、侮辱され非難され別扱いされるようになる
群集心理の一つの特徴は、異なる意見に対して、極めて不寛容となることだ
群集心理下では、正・善・得等の価値基準よりも、集団の団結を守ることが最優先事項となるから、こうなる。団結さえ守れれば何でもよいのだ
群集心理および全体主義が存在・存続するには、敵(不安の対象)を必要とする
敵(不安の対象)がいなくなると、群衆は目を覚まし、膨大な損害に気づき、リーダーを殺害する
リーダーは群衆が目を覚まさないように、敵(不安の対象)を残すように動く
古典的独裁体制と全体主義は異なる
古典的独裁体制は、大衆を怖がらせるだけで、反対がなければリーダーは大衆に優しくなる
一方、全体主義は大衆が洗脳された群衆化状態であり、反対がなくなると暴走が加速し最も残虐な行いをするようになる。1930年代のソ連、1935年のナチスがその状態だった
公の場で合理的な反対意見を述べ続けなければいけない。無力と感じてもそうしなければいけない。なぜなら、反対意見がなくなると、洗脳は進み、群衆は残虐な行為を行うようになるからだ
合理的な反対意見で目を覚ます人が多く出てくることは期待できないが、洗脳が進むことを止めることはできる
群集心理となった大衆は、以下3つのグループに分類される
30%:催眠術にかけられ洗脳された人々
40%:世論・多数派・群衆についていく人々
30%:催眠術にかからず、異なる意見を述べ、何かをしようとする人々3つ目のグループは、不均一な人々だ。あらゆる政治的信条、社会経済階級、人種。このグループの共通項・傾向はわかっていない
なお、教育レベルが高いと群集心理に飲まれ洗脳されやすくなる
このバラバラな3つ目のグループがまとまって一つの勢力となれると、群集心理を止められる可能性がある
Q:合理的な意見を聞いてくれない。群衆心理の人の目を覚ますのに、よい方法はないか?
A:新しい不安の対象を提示するのが効果的だ。全体主義となることの恐ろしさを提示し、コロナよりも全体主義の方が怖いと思える人は目を覚ます
目を覚ましたら、合理的な意見を聞いてもらえるようになる
Q:変なことが他国で起きた時に「自国では起きない」と思う人が多い。着々と広がっているのになぜこう思うのか?
A:これも群集心理に飲まれ、認知的・感情的に一つのことしか考えられず、それ以外のことは存在しないも同然になるからだ。群集心理から目覚められないと気づけない
Q:今のおかしな動きは今後どのようになっていくのか?
A:残念ながら、ある種の新しい全体主義に社会が陥ってしまうのは避けられない可能性が高いと見ている
20世紀前半の全体主義と異なるのは、世界規模で起きるという点、外に敵(不安の対象)がいないが内に敵(不安の対象)がいるという点だ
全体主義は敵(不安の対象)を必要とする。敵が消えてしまうと崩壊するからだ
なので、内の敵を消すことはしないが、疎外し、社会の主流からはじき出すだろう
ワクチン未接種者が、内の敵(不安の対象)として扱われるだろう
※インタビューは2021年9月
コロナワクチンが感染を防がないことは科学的な事実だが、群集心理・全体主義では科学的な正しさなどどうでもよいことである
物語で大事なことは、不安の対象(コロナ)に向けた群衆の団結を強められるかどうかだけである。むしろ馬鹿げていることの方が、団結を強める「儀式」として機能する
Q:洗脳されていない30%の人はどうしていくべきか?
現実的な戦略は以下の2つだ
・合理的な反対意見を公の場で言い続ける
・全体主義に飲まれずに2−3年生き残る
全体主義を打ち負かそうとする必要はない。全体主義は必ず自壊する崩壊後、飲まれなかった人々が社会を再建する重要な役割を担う
Q:今の全体主義はどこまで進んでいて、いつ崩壊するのか?
A:今回の全体主義は、20世紀前半のよりも短い期間で自壊すると見ている。なぜなら、今回はワクチン等で体に侵入しているからだ
群集心理下で進めるワクチンは、医療だけでなく、あらゆる分野における歴史上最も壮絶な惨事になる可能性が高い
群集心理に飲まれないために
共通の群集心理へと変容する4条件
1)社会的絆の希薄さ
2)生きていることの意味の希薄さ
3)漠然とした不安感
4)漠然とした不満や向かう先のない攻撃性
は、未然に防ぐことができます。年齢に関わらず、この4条件を満たさなかった人は「群集心理に飲まれなかった」でしょう。
社会的絆とは必ずしも会社勤めをしているとか、家庭を持っているとかではありません。会社の仕事と家庭にしか関心のない人ほど、あっさり飲まれてしまいます。
自分自身と社会との関係性を意識し、「社会全体が健全に機能していなければ、自分も健全な生活は過ごせない」と腑落ちしているかどうかです。
これが腑落ちしてれば、仕事や趣味やボランティア活動が「生きがい」にならなくていいはずです。何か特定の活動を「生きがい」にするのは、悪いことではなさそうですが、それを取り上げられた途端に「生きがい」を失うようであってはいけません。厳しい言い方になりますが、それではそれらの活動はおもちゃに過ぎません。
私たち一人一人の日々の内面の反応と、それに伴う外側への判断選択の積み重ねが、私たちの社会を作り、引いては歴史を作っています。その意識でいれば、何かをする、しないは付属的なことだとわかるはずです。
それがあればおのずと、「生きていることの意味の希薄さ」はなくなり、具体的な不安や不満(経済的なことや人間関係のいざこざなど)はあっても「漠然とした不満」はなくなるでしょう。そうなると「不満や不安の解消のために、何かに矛先を向ける」必要もありません。
いわゆるコロナ脳の人々は、今は「生きがいを与えられた」状態です。生きがいとは「他から与えられるものではない」の世界観の人たちとは、全く話が噛み合わないのも道理です。しかもお上のお墨付きで、世の中人ほとんどが参加している心強さもあります。コロナがただの風邪だとか、そもそもPCR検査詐欺だとかは、どうでもいいことなのでしょう。
有害無益なマスクや消毒、打てば2年以内に死ぬワクチンも、彼らにとって生きがいであるなら、殊に家族が反対すると猛烈に反発するのは「アンタは私の生きがいを奪おうとするのか?」になっているのかもしれません。
「合理的な反対意見を公の場で言い続ける」意味
このページに辿り着いた方は、「催眠術にかからず、異なる意見を述べ、何かをしようとする人々」だと思います。日本に30%もいるかどうかは甚だ疑問ですが、少数派とは言え、昨年よりも確実に増えつつあります。
これらの人々がやるべきこととして「合理的な反対意見を公の場で言い続ける」が挙げられています。何故「私的な場」ではないのか、以下は私の推測になります。
私的な会話だと中々聞いてもらえない経験をした人が多いでしょう。最初から拒否されたり、相槌は打つけどその場限りだったり。
人は何かを知り、そしてその知識・情報を「自分のものにする」ためには必ず段階を踏みます。認知→興味です。
たとえて言うなら、お店の看板は「認知」の段階です。「あそこに〇〇を売っている店がある」この段階ではただ「知っている」だけで、そこで売られている商品に興味があるわけではりません。
「興味」は「どんな商品が売られているか、知りたい」段階です。直接行って下見をしたり、今ならネットで検索して下調べをしたり。そして「これが自分のニーズを満たす商品だ」と思えたら買う、という購買行動へ移ります。
私的な場で話すことを、私も散々やりましたが、上手くいかないのは相手に興味がないからです。話す方は危機感を抱き、一人でも気づいてほしいと願っています。この気持ち自体は、失ってはならない大変重要な動機でしょう。
公的な場で話すのは、看板に当たることをすること。種まきをすることです。デモや街宣をすると、街ゆく人のほとんどは何の興味もなさそうに通り過ぎます。しかしそれすら決して無駄ではありません。
今、ワクチンの害に関心を持たない人たちが、いよいよ関心を持ち始めるのは、残念ながら被害が身近に及んでからでしょう。それですら、一人二人では「ワクチンのせいではない」と否定するかもしれません。これが三人四人と増えていったときに「もしかして・・」と以前種まきされたことを思い出す、そうして「認めるのは辛いけど、やっぱりそうだ」になるのを待つしかないのだろうと思います。
「公的な場で話す」は、デモや街宣、SNSなどでの発信やシェア、またノーマスクで堂々と街を歩くのも含まれるでしょう。
救急車のサイレンの異常な多さ、喪中欠礼葉書の多さ、ワクチン接種後体調不良で仕事や学校を休んでいる人の多さ。事実の重みにはかないません。平和ボケしてTV洗脳が深い日本人も、いよいよ見て見ぬ振りができなくなる日がやがて来ます。
犠牲の出ない戦争はない
犠牲の出ない戦争はありません。
昨年の内からコロナの嘘に気づいていた人は、子供のワクチン接種後の死亡を「どうして止められなかったのか」と無念に思うでしょう。正しい知識と拒否する勇気があれば止められたからです。
太平洋戦争も、開戦前から「アメリカと戦争をするなんてとんでもない」とわかっていた人もいれば、日本中焼け野原になっても「本土決戦!一億玉砕火の玉だ!」と本気で思っていた人もいます。
今は昭和20年初め、あちこちで空襲が始まり、口には出せないけれど「日本は負ける」と思った人が増えつつあった時期に当たるでしょう。
9月末時点の超過死亡が約59000人です。これだけでも異常事態ですが、考えたくない人たちは考えたくありません。しかしやがて「考えざるを得ない」日のために、粘り強く、励まし合って種まきを続けるのみだと思います。