親からの常軌を逸した侮辱
今回のケーススタディは、「理屈をつけて自分を正当化する面倒なことはせず、怒りもあらわに残酷で口汚い言葉で罵り、長々となじるタイプの親」(スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」)です。
52歳女性 インテリアデザイナー 若いころはモデルとして活躍
幼いころから、父親はいつも残酷な言葉で私のことをからかっていたが、11歳のころ特にひどいことを言い出した。「お前は臭い」というのだ。それ以来、父はしょっちゅう「お前が不潔で臭いかをみんなが知ったら、たまげるよ」と言うのだった。母はと言えば、父が私をからかうのを黙って見ているだけだった。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」
彼女の父親は医者で、母は元オリンピック級の水泳選手でした。裕福な家庭だったとのことですが、こうした「社会的地位が高く、お金に不自由しない」家庭でも、毒になる親は全く珍しくありません。しかし世間の人は、「まさか、あの人が」と中々本氣にしないことの方が多いかもしれません。
父親は何故、このような常軌を逸した侮辱をしたのでしょうか・・・?
フォワードは「彼らは、娘が小さな子供だった時には普通の父親でいられたのに、娘が成長して性的な魅力が増してくると意識過剰になり、どうしていいかわからないために攻撃的になるのである」と解説しています。このクライアントの女性は、17歳の頃からプロのモデルとして活躍していました。容姿端麗で、性的な魅力もあったのでしょう。
父親が娘の「さなぎが蝶になる」変化に戸惑うのは無理もありません。しかしその戸惑いは自分の戸惑いであって、父親の良心に基づいた自制心のなさが、このような悲劇を生んだのかもしれません。
このケースでは父親が娘を攻撃していましたが、容色が衰えてきた母親が娘に嫉妬し、わざと下着を破ったり、靴がボロボロになっても見て見ぬふりをして買い替えない、陰湿な嫌がらせをするケースもあります。
成人後も「親から与えられなかった愛を求めさまよう」
「親から押された侮辱の烙印」は、彼女の成人後、三度の離婚に作用してしまいました。
17歳の頃からモデルの仕事を始めた。だが仕事で成功すればするほど、父のいじめはあからさまにひどくなっていった。そういうこともあって家を出たかったため、19歳の時にプロポーズした男と結婚した。だがその男は暴力を振るい、赤ん坊が生まれると家を出て行ってしまった。私は打ちひしがれ、自分を責めた。
一人目がそういう男だったので、次は物静かで平和な男と再婚した。だがこの男はほとんど口をきかないほど感情表現がなく、やはり本当に幸せにはなれなかった。しかしまた別れたら親に何と言われるかと思うと恐ろしくて別れられず、十年間一緒に暮らしたが、結局離婚した。モデルとして収入は安定していたので、ひとりで子供を育てることができた。
そしてようやくぴったりの相手と思われる男と出会い、また再婚した。この時期が、人生で一番幸福な時期だった。だがしばらくすると、その夫が浮氣をしていることがわかった。ようやくつかんだ幸せを離したくないという氣持ちから夫を許したが、その後も浮氣はやまず、そのままさらに十年が過ぎた。そして一年前、夫は私を捨てて若い女のもとに去って行ってしまった。
前掲書
フォワードの解説を要約すると、
父親による「お前は出来の悪い女だ」が内面化
⇒親から与えられなかった愛を求めさまよう
⇒父親との関係性を再現するために、父親に似た残酷で加虐的な、または心を開かない男ばかりを選ぶ。
⇒「お父さん(のような男)から、本当は愛されていたと確認したい」。
これが彼女の成人後30年以上繰り返されたことだったと言えるでしょう。
第三者の他人から見れば、「何故そんな残酷な男に、愛情を求めてしまうのか」と訝しく思うかもしれません。これは例えば、もう自分への氣持ちが冷めている交際相手に、別れを告げられても執着してしまうようなものと考えると、わかりやすいかもしれません。「もう一度やり直せば、相手からの愛情をもらえるのではないか」
人は愛されれば自分を肯定されたように感じ、愛されなければ自分には価値がないかのように捉えがちです。特に幼い子供は親を始めとした大人達から、浴びるように愛情を注がれることを、意識してもしていなくても必要としています。それほど、子供は無邪氣で天真爛漫に見えても、内面に不安を抱えているものだと思います。
「そうだよ、お前はお父さんとお母さんの、何よりの宝物。お前は私たちに望まれてこの世にいるのだよ」そうしたメッセージが「要らない」子供はいないでしょう。譬え意識はしていなくても。
無条件の愛を注がれないのは、「私に愛されるだけの価値がないからだ」と、悲しいことに子供は受け取ってしまうのです。この女性クライアントは、それを否定したくて、親や、親のような異性に、何度も何度も愛を確かめようとしてしまったのでしょう。
このことは、彼女の次の言葉にも顕著に表れています。
それは毎度のことだった。両親と会うたびに、いつも傷つき落胆させられるのだ。それなのに、今度ばかりは優しい言葉をかけてくれるのではないかとつい思ってしまう。だが、どんなに困っていても、「そんなことは自分のせいじゃないの」という言葉が返ってくるだけだ。覚えている限り、両親はそれしか言ったことがない。
前掲書 下線は足立による
この親の言葉は、他にも例えば
「あんたは子供の頃から変わってる」
「被害者意識が強すぎる」
「もう子育てはとうの昔に済んだ。卒親させてくれ」
などもあるかもしれません。
子育ては子供が成人すれば終わります。子供の成人後、普段は「便りがないのが良い便り」であっても、いざ何かあれば誰よりも寄り添いあう存在でいたい、いて欲しい、それが一生家族、一生親子ではないでしょうか・・?
親の方から「子育てはもう済んだのだから、もう親でも子でもない」と言われて、傷つかない子供はいないでしょう。そうした親ほど、いざ子供が「あんたなんか、もう親でも子でもない」と言い出したら、「はい、そうですね、卒親します。今日からはお互い赤の他人です」とは言わず、「育ててやった恩を忘れたのか」などと言い出すものではないかと思います。
自分の親が良心に欠けた腹黒い人間だったとは中々受け入れられない
「自分の親は、少々性格的な欠点はあっても、まあまあ常識的で、愛情と思いやりのある親だった」と望まない子供も、またいないのではと思います。自分の親が、多少氣がきかないとか、心配性で口うるさいとか、内弁慶の威張りんぼだとかなら、その時はボヤキが出ても、「まあ、人間だし、そんなもの」と分別のある子供であれば、最終的には受け入れられるものかもしれません。
しかし、自分の親がそもそも良心に欠けた、腹黒い人間だったと、簡単に認め受け入れられるものではないでしょう。これががパワハラ上司や、嫌がらせ目的のクレーマーとの違いの一つです。他人であれば、その時は傷つき、苦労もしますが、関係性が切れてしばらく経てば「世の中にはああいう人もやっぱりいる。実際に接しないと、対処方法の引き出しが増えない」と思うこともできます。
親には中々そう思えないのは、
一つには、子供は親を理想化することと、
二つ目には他人と違って「自分も親のようになりはしないか」という、同一視からくる恐れ
三つ目には、どんな親であっても、関係が切れてしまうと「自分が宇宙の孤児になったかのような」喪失感が非常に耐えがたい
ためと考えられます。もしかすると、他の可能性もあるかもしれません。
裏から言えば、親の理想化が自ずとやめられ、
そして「親がどうだろうと、私は自分の良心に沿った生き方をしている。自分の未熟さや限界のために、相手を傷つけてしまうことはあっただろうし、これからもあるかもしれない。思いやりや寛容さに欠けることを、今後もしてしまうかもしれない。しかし意図的な腹黒い真似は決してしない」
と自分に対して言いきれると、親との分離に罪悪感を感じなくなるかもしれません。
ただこれも、時に長い紆余曲折と、「もう駄目だ!この人達に関わっていたら、自分が立ち行かなくなる!」という限界経験を経て、生まれた時から誰にでもインストールされている、「親を愛し慕い、繋がり合いたい」生存戦略を上書きできるのではと思います。
「全ての人が、人を愛し、尊重しているわけではない」苦い現実
人は誰でも「私がこの失望に耐えずに済むように、あなたが変わって」をやりたくなり、またやってしまうものなのかもしれません。遠い関係性の人なら、最初から期待しないので、「そんな人もいるんだね」で済ませられても、近い存在であればあるほど、求めるものが大きくなり、その分怒りも湧きがちなのが世の常です。
見出しの通り、「全ての人が、人を愛し、尊重しているわけではない」大変苦い現実を受け入れて行く、これが失望に耐える力となるでしょう。人を信じたい、希望をつなぎたい人ほど難しい試練になると思います。
そして本当に悲しいことですが、自分の親が「愛することができない」人の一人であることを、認めざるを得ない時、身を切られるような辛さが生じるかもしれません。しかし、この「身を切られるような辛さ」を受け入れ、癒せて初めて、この女性クライアントは、父親や、父親のような男性に、愛を求めてさまようことがやめられるのだと思います。
「親から侮辱されたからと言って、私は価値のない人間ではない」
人は誰でも、侮辱され、馬鹿にされ、蔑まれれば、自分の人格を否定されたかのように傷つきます。親が子に対してなら尚更です。
しかし一方で、大人の理性を使って考えればわかりますが、誰かから何の謂れもなく侮辱されるのは、自分が価値のない人間だからでは決してありません。相手が良心と品位に欠けた、人間性に難のある人だからなのです。良心的な人でも、時には感情が爆発して、相手をなじることも人生には起きます。その時「この人でなし!」くらいは言うかもしれません。しかしそのことと、このクライアントの父親のような、「侮辱して相手をいたぶる」のは全く別のことです。
ですが元々素直で真面目な、氣持ちの優しい「良い子」ほど、そう考えられないことは往々にして起こります。「お利口さんの良い子」にならないことの意義は、正しく物事を判断するためでもある、と私は考えています。この女性クライアントが父親に対し、「出来が悪いのはどっちだよ」と口には出さなくても思えていれば、父親や父親のような男性に、愛を求め続けることはもうしなくなるでしょう。出来の悪い相手に、わざわざ愛を求めるのが矛盾するからです。
家族、血縁者であっても結局は人間対人間
侮辱という行為は、相手が誰であろうと受け入れてはいけないものです。そして誰に対しても侮辱しない人は、家族であれば尚更しません。それをする自分に耐えられないからです。良心の呵責と、罪悪感で動かされることの違いはここにあります。良心の呵責は、相手がどう思うかで選択するのではなく、「それをする/しない自分に耐えられない」からする、という動機になり得ます。
人を好意的に、肯定的に捉えたい人、悪く思いたくない人ほど、親から受けた侮辱を反射的に「なかったこと」にしようとしてしまいがちかもしれません。どんな毒になる親でも「全てにおいて悪い、ダメということはなかった。良いこともしてくれた」事実を見ることと、「されるがままに侮辱され続ける」は本当に別物です。衣食住の世話をし、学校へ行かせたから、その養育費を稼いだからと言って、子供を侮辱して良い免罪符には決してなりません。
相手を、親という立場を一旦脇において、人間としてどうなのかを見る練習を、意識的にやってみるのも頭の体操になり、効果的です。特別素晴らしい人であれとは要求しないけれど、最低限「人としてやってはいけない」ことをやっていないかどうか。子供の貴方にやったことは、多少形は変われど、特に遠慮のない、自分に反撃してこない、「安全で安心な」他人にもやっている、その可能性があります。
「その人を知りたければ、その人の交友関係を見よ」とも言われます。私たちはお互いに、否が応でも知らず知らずのうちに影響し合います。悪い方の影響をできるだけ受けない、その関係性を整えて行くのも、大人は自分だけの責任であり、そしてそれは「やって良いのだ」と自分に許可するのも、自分を大切にする道になると思います。

