【ケーススタディ】完璧になろうとする子供・家庭の惨めさに抗うために

過度な完璧主義に「駆り立てられる」のは恐れが原因

過度な完璧主義や、過集中など「駆り立てられる」のは恐れが原因です。人の動機は二つしかない、愛か恐れかだ、と言われます。私たちは、恐れから何かをすることも避けられませんが、やはりそこには自由はありません。「愛は自由の子」だからです。

仕事や作品に「これで良し」と満足してしまわず、「もっと改善できることはないだろうか?」と最後まで手を入れようとするのは、仕事や作品への愛着があればこそです。しかしそれでもなお、仕事は相手あってのものであり、時間や予算の制限、そして優先順位が伴います。青天井で資源をつぎ込むのは、道楽であって仕事とは言いません。

仕事に「制限の中での完璧を追求する」のと、「自分が完璧でなければ氣が済まない」のは明らかに異なります。「自分が完璧であろうとする」のは、子供の頃、安心でき、心からくつろげる家庭環境ではなかったからかもしれません。自分の不安を打ち消そうとして、「完璧であれば不安を感じずに済む」をやっていたかもしれないのです。

化学研究所勤務 41歳男性

それまで順調に出世してきたのだが、最近、仕事の上で何かを決定しなくてはならない時に決められなくなってしまった。現在ある大きなプロジェクトの最中なのだが、仕事にまったく集中できなくなり、部下も沢山いて責任が重いのでパニック状態だ。

子供時代から成績優秀でずっとエリートだった。それが今、まるで金縛りにあったように身動きが取れなくなってしまった。この突然の変化は、その頃父親が肝硬変で入院したことが引き金になっていた。両親はともにアルコール中毒だった。家では学校の勉強に没頭することによって、家庭内の騒動に対抗しながら成長した。そして何でも一番でないと満足できない少年になった。

学校でも家でも、完璧な少年だった。先生も祖父母も両親も称賛した。社会に出てからも優秀な化学者、結婚後も完璧な夫、子供ができたら完璧な父親、・・・。そしてついに、常に完璧であることに疲れ果てた。

スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」 下線は足立による

親がアルコール中毒ではなくても、暗く冷たく、安らぎや思いやりのない家庭に「対抗しようとして」頑張り続けてしまう人は少なくないでしょう。このクライアントはなまじ勉強ができ、努力を厭わない性格だったため、このような心理的防衛をし続けてしまったのだと思われます。

「ぐれる」というわかりやすい抵抗ばかりではない

親への反抗と言えば、いわゆる「ぐれる」ことと連想されるかもしれません。地域によるのかもしれませんが、最近は不良らしい不良をすっかり見かけなくなりました。私の家の近所では、中学生も高校生も、皆同じ髪型、同じソックスを履いています。私が高校生だった40年前は、髪型は皆バラバラでしたし、こっそりパーマをあてていた子も、男女問わずチラホラいました。先生方も、大方は「お洒落したい盛りだし」と見て見ぬふりをしていました。

型にはまったお利口さんばかりであれば、大人は手がかかりません。しかしそれが、良い結果になるのかどうかは全く別です。

心理的防衛の基本は「戦うか/逃げるか」です。「ぐれる」はわかりやすい「戦う」心理的防衛でしょう。

このクライアントは「完璧な子供」であり続けることによって、戦い、かつ逃げていたのでしょう。しかし41年間ずっと戦い、逃げ続けて無理が生じないわけがありません。アラームが鳴りっぱなしの人生に疲れ果てて当然です。

「何から自分を守ろうとしてきたか」

このクライアントには「家では学校の勉強に没頭することによって、家庭内の騒動に対抗しながら成長した」という自覚があります。自分では中々氣づけないケースの方がずっと多いでしょう。

人は「完璧であろうとするなんて、無理が生じて当然だよ。仕事は必ず、誰か代わりがいるものだから、一旦前線から下がって、ゆっくり休養しないと」などとアドバイスしたくなるでしょう。それも決して間違ってはいません。

このクライアントは休養と共に、「何から自分を守ろうとして、こんなに頑張ってきたのか」「こんなに頑張り続けてまで、抗い、振り払わなければならなかったものは何だったのか」を時間をかけて自分に問う作業が必要になるでしょう。

「完璧で感心な子供」であり続けなければならないと、彼の潜在意識は信じ込んできました。ですから、それだけを「もうやめろ」と言ってもやめられません。何のためにそれをしなくてはならなかったかを、意識化し、顕在化させてこそ、「今はもうそれは必要ない」と自分に納得させることができます。

「こんな暗くて惨めな家庭はうんざりだ」の自分の本音

彼の両親は共にアルコール中毒でした。片方の親だけでなく、両親ともにそうだったのであれば尚更、子供は「子供らしくいられる」居場所を失って当然です。

どのような出方にしろ、毒になる親とは「責任と共感性のある自立した大人」になり切っていない人たちです。ですので、子供は知らず知らずのうちに「親の親」をさせられてしまいます。親自身の人生の「不満と不安」の格好の捌け口にさせられるのです。そしてそのことに対する悲しみや怒りを、心の奥底に押し込めて生きてしまいます。

このクライアントは何に対して抗ってきたのか。見出しの通り「こんな暗くて惨めな家庭はうんざりだ」であったのではないかと思います。彼の責任ではないのに、そうした家庭で生まれ育たなくてはならなかった悲しみ、虚しさ、悔しさ、そして誰にもそれを打ち明けられなかった孤独や重圧を解放する、即ち嘆くプロセスが必要です。

この嘆きが、自分が心の奥底に、長い間押し込めてきた本音です。

また重要なことは、そうやって自分を守ろうとしてきた自分自身を、充分に労うことです。こうやって自分を守らなければ、もしかすると自分自身もアルコール中毒になっていたかもしれません。フォワードによれば「アル中の親を持つ子供の四人に一人は自分もアル中になる」とのことです。これも裏から言えば、75%の子供はアル中にはならない、ということでもあります。彼は75%の内の一人でした。

今の時点でSOSを出してくれなかったら、もしかするとガンになったかもしれません。ガンもストレスから発症します。ギリギリのところでストップをかけてくれた自分にも「ああ、良かった。助かった」と労えると尚良いでしょう。

「暗くて惨めな家庭」が嫌で嫌でたまらない⇒自分が何を真に欲しているのか

この本音を解放するとは、一方で、大人の理性ある自分が「それを見ている」ということです。

自分が感情を爆発させて嘆き悲しんでいる最中、理性的なもう一人の自分が「それを見ている」、多くの人にそうした経験があるでしょう。「ああ、私はこのことがこんなに嫌だったんだ」と、良い悪いではなく納得する、それが上述した意識化し、顕在化させるということです。

このクライアントの場合、「両親ともにアルコール中毒の、暗くて惨めな家庭」が嫌で嫌でたまらなかったわけです。それから自分の心を守る唯一の活路が「完璧な子供」になることでした。潜在意識は融通が利きません。「これしかない」と信じ込むとそれだけが唯一の方法だと信じ込んでしまいます。そして彼の場合、周囲からの称賛により、承認欲求を満たせていたため、中々手放せなかったのでしょう。

理屈を言えば、彼が欲しているものは、裏を返すと「明るく温かい家庭、もしくは人生」になります。これを真に自分が欲しているか、よくよく自分に問い直します。人は「自由とその裏返しの責任から逃れたいがために、不幸でい続ける」も本当によくやるからです。有体に言えば、人は自ら「悲劇のヒロインでい続ける」のです。

「明るく温かい人生」とは、彼の場合、アル中の両親に対する許し難さは消えなくても、不幸だった子供の頃の自分に、大人の自分が報いてあげる、その息の長い努力をすることになります。その努力を理不尽で面倒だと思っている間は、「SOSを出している我が子を厄介者扱いする親」と、結局は同じことを自分にやってしまいます。別の言い方をすれば「アル中の親のせいで、自分の人生は台無しになった」の言い訳が、今後はできなくなる、ということです。

すぐにどうこうはできなくとも、「親から与えられた苦しみのために、自分の人生には様々なひずみや皺寄せが起きてしまった。残りの人生はそのひずみや皺寄せをなくし、バランスの取れた生き方をする。そして子供の頃の自分に『もう大丈夫だよ』と自分が言ってあげられる、その努力をする」と、心から思えてこそ、次の一歩を踏み出せます。

道義的責任は彼の親に100%ありますが、「対処する責任」は大人である以上、私たちにはついて廻ります。「降りかかった火の粉は自分で払う」です。自分が払わなければ、火の粉に焼き滅ぼされてしまいます。毒になる親は対処する責任を放棄し、その尻拭いを我が子に押し付けてきた人々です。自分は同じ轍を踏まない、その決意をしなければ、辛い思いを耐えてきてくれた子供の自分に報いることができません。自分も親の共犯者に成ってしまいます。

「手は何もできない。けれども最後まで合掌できる」ヘルマン・ホイヴェルス神父

ここまで読まれた方の中には、もしかするとこのクライアントと同じく、「頑張って能力を高め、評価を得ることで、辛かった家庭環境に『対抗しようと』してきた」方もいらっしゃるかもしれません。心身の健康に留意し、年齢を重ねても勉強しつづけて、世の中のために役立とうとすること自体は、素晴らしいことです。そのようなことは最初から考えない、楽して得して美味しい思いができれば良いという、情けない大人よりずっとましでしょう。

この記事の最後に「頑張って能力を高め、『人の役に立つ、完璧で感心な人』になるだけが、明るく温かいあり方ではない」一つの例を紹介したいと思います。

最上のわざ ヘルマン・ホイヴェルス神父

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれど休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元氣いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役立たずとも、
親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。

おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、
真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それを謙虚に承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

ホイヴェルス神父(1890-1977)は、1923年に来日して後、上智大学の第二代学長を務め、諸大学で長く教鞭をとりました。宗教劇「細川ガラシア夫人」始め、多くのエッセイを残し、日本のクリスチャンにも、そうでない人にも、多大な精神的影響を与えました。

このような功績を成し遂げた人が、最晩年「手は何もできない。けれども最後まで合掌できる」と言いきれたのです。

或る見方をすれば「何もできなくなっても、最後まで両手は合掌し、祈ることができる」この心がけで壮年期から生きればこそ、死後も多くの人々の心を打つ作品を残せたのだと思います。

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第1回 自尊感情とは何か。何故大事か
第2回 全ての感情を受け止め、否定しないことの重要性
第3回 「何が嫌だったか」を自分に質問する。目的語を補う
第4回 期待通りに成らない現実を受け入れざるを得ない時
第5回 小さな一歩を踏み出す・最低限のラインを決める
第6回 人生が変わるのは知識ではなく氣づき

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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。