強迫観念的な完全主義
心が健全な人でも、自分に厳しい人はつい他人にも厳しくなりがちです。しかし、毒になる親の完全主義はそれとは違った、常軌を逸した強迫観念的なものです。「このタイプの親は、まるで『子供さえ完璧であれば自分たちは完璧な一家になれる』という幻想を信じていなければ生きて行けないかのようだ」(スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」)
部屋の整理整頓や身なりを清潔にすることだけでなく、学校の成績や、人前での振る舞い、行儀に完璧であることを子供に要求する親もいます。こうしたことを過度に子供に要求するのは、子供の発育に応じて、自制心や規律を身に着けさせるためではありません。「ちゃんとできない」子供を欠陥品と見ているのです。誰でもない親からそのように扱われれば、子供は自己否定感を募らせて当然です。
言うまでもなく、子供は発育の途上にあります。成人しても、「一生勉強、一生修行」であることには変わりありません。つまり「大人も、子供は尚更、完璧、完全でないことを、受け入れて行かないと誰も生きて行けない。私たちは神ならざる身」です。それを日々体験することにより、私たちは自分や他人への寛容さ、長い目で見ること、「良い加減」、優先順位付けや限界設定の大切さを実感します。そしてそれは、「他人様に迷惑をかけない心がけ」「人としてやってはならないことはやってはならない倫理観」とは区別して考えられればこそです。
「小さく弱かった自分」への憎しみを義理の息子に向ける義父
33歳男性 技師
九歳の時、母親が再婚した。義父となった相手の男は完全主義者で、日常の細かいことまで規則を作り、あらゆることを命令した。例えば、小さな子供の部屋はたいてい乱雑に散らかっているものだが、義父は子供の持ち物や子供部屋を毎日点検し、ちょっとでも散らかっていようものなら酷い言葉でなじった。兄弟の中でも特にターゲットにされ、頻繁に残酷な言葉を浴びせられた。義父は私を叩いたことは一度もなかったが、そのような言葉の暴力は、肉体的暴力に勝るとも劣らない傷を負わせたと思う。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」
フォワードはこの義父について、以下のように解説しています。
義父の心の中には、今でも小さくて怯えた少年が住んでいた。だから自分の子供の頃によく似た彼を見ると苛立ち、いじめずにはいられなかったのだ。はっきり見つめたくない、自分の劣っている点を彼の中に見ると我慢ならず、無意識の内にそれを叩き潰そうとしたのである。
前掲書 下線は足立による
この義父は幼い頃、体が小さくいじめられ、大人になってからボディビルをして筋骨隆々となったそうです。いじめられる自分を克服したくて、格闘技を習ったり、ボディビルをしたりする人は珍しくありません。ですが義父の場合は、結局は「弱虫の自分」を否定しただけでなく、義理の息子にもその怒りが向かったのです。
どんなスポーツでも、格闘技でも、真髄は「相手が自分より強いか弱いかが問題なのではない。どれだけ自分と真摯に向き合い、ごまかさず、大切にしきれるか」だと思います。以下の記事のジョコビッチの「自分の体のことは自分で決めるという原則は、どんなタイトルよりも大事」という言葉に端的に表れています。
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しかし、義父にはそれがわからなかったのでしょう。
毒になる親は、我が身が可愛く、自分が大好きかのようですが、本当のところは自分を愛していません。自分への不満、怒りを、「自分より弱い立場の他人、しばしば我が子を使って」解消しているのに過ぎないのです。
ですから、よく観察して見ればわかりますが、好き放題しているようでも、仕事やボランティアで世間の評価を得ているかのようでも、「何故こんな苦痛に満ちた人生を生きなければならないのか」という不満に覆われています。親のことを思い浮かべた時に、彼らの表情が「いつもつまらなそう」「しんどそう」「面白くなさそう」であれば、それが彼らの生き方の結果であり、本質です。口ではどんなに立派そうなことを言っていても、「明るく温かい雰囲気」「笑顔や笑い、愛情のこもったユーモア」「家族への感謝や思いやり」があったかどうかで見分けられます。これらは「生きる喜び」の発露だからです。仕事、趣味、ボランティア等は、彼らにとっては真の生き甲斐ではなく、身も蓋もない言い方をすれば、惨めな自分と向き合わず、逃れるための方便に過ぎないのです。
子供の失敗、不完全さ、乱雑さが愛を与えない理由に
「完全主義の親」は、子供の失敗や欠点にばかり注目していますが、時としてそれを、愛情を与えないことの理由にします。彼らはそうやって、子供に愛情を注ぐことで自分が弱くなるのを避けようとしているのです。
ダン・ニューハース「不幸にする親 人生を奪われる子供」
「子供に愛情を注ぐことで自分が弱くなる」とは、何のことかわからないのであれば、それは貴方ご自身が「愛すればこそ、自分が磨かれ、強くなる」ことを実感されている証です。
子供でも大人でも、失敗や欠点があるから、愛されないのではありません。失敗や欠点ーそれはしばしば自分の長所の裏返し(例えば、素直で氣持ちの優しい人ほど、悪意のある人から騙されやすい、など)であり、息長く努力して取り組むべき課題でもありますーとどう向き合っているかが問われるのです。「人それぞれ自由でいいじゃん」の中立を装った事なかれ主義や、「だって私は○○さんとは違うから」などと、尤もらしい、しかし卑怯な言い訳をして逃げていないかが大事であって、それは皆、死ぬまでついて廻ります。
完全主義の親は、まるで自分の中に「愛情のタンク」があって、自動販売機のように「子供が自分を満足させること」がコインとなり、そのコインを投入すれば、受け取り口から「愛情入りの缶」がガチャンと出て来るかのようです。逆に「子供が自分を満足させない」コインを投入すると、この義父のように「残酷な言葉入りの缶」がガチャンと出て来る。これは取引であって、愛ではありません。残酷な言葉だけでなく、「無関心を装って無視する缶」「親の氣に入る通りにするまでしつこく言われる缶」などもあるかもしれません。
打算、損得勘定で生きている人は、「自分に何かを与えてくれれば、その見返りに○○する」「自分が○○してやってるんだから、今度はあんたが○○しろ」、もしくは「できるだけ自分が傷つかず、損せず得ができる美味しいとこどりは何か」「相手の迷惑や、立場の弱い人にしわ寄せがいくなどどこ吹く風。奪えるものはとことん奪いつくす」ばかり考えているかのようです。これでは愛や思いやりを育みようがありません。利害打算と、愛や思いやりは相容れません。
毒になる親の完全主義は、「お前が完璧でないから、自分たちが迷惑を被っている」という、非常にエゴイスティックな打算に基づいています。自分に厳しい人が、ついつい他人にも「あなただってできるでしょう?私だってできたんだから」と自分と同じ水準を求めてしまうのとは全く異なります。
これでは家庭の中で、子供は居場所を失って当たり前です。
子供の反応は「成功か反逆か」
こうした過度な完全主義の親に育てられた子供は、二通りの道をたどります。一つは、自分も完全であろうとすることです。そうやって親からの承認と愛情を得ようとします。しかしこれは「100点取ったら愛してやる」に他なりません。そして「やってもやっても不十分」「いつも追い立てられていて、心が休まらない。焦ってばかりいる」「燃え尽きた反動で、ぐったりし、抑うつ的になる」などの悪影響が出ます。「家の片づけは余り口うるさく言われなかったが、二言目には『世間体が悪い』『世間の目が』とプレッシャーをかけられた」というケースも多いでしょう。
二つ目は、無意識の内に反逆し、「親の言う通りにしない」やり方です。これは「親の考えとは異なる自分の選択を、責任を持って遂行する」ことではありません。「親が氣に入るように『成功する』と、自分が親に屈してしまった氣になる」ために、自分では本当は望んでいない失敗と敗北の人生を選んでしまうのです。
この男性クライアントは後者でした。彼が職場で繰り返していたパターンは以下の通りです。
義父に植え付けられた完全主義のプレッシャーから「上手くできなかったらどうしよう」という恐れを抱く。
⇒ぐずぐずと先延ばしをして、その恐れを回避しようとする。
⇒先延ばしにすればするほど、やることが溜まる。
⇒何も手につかないくらい不安感が膨らみ、「金縛りになる」。
彼はまた、上司に義父を重ね合わせてしまい、そのため上司に対して反抗的になり、いつも衝突していました。職を転々とし、折角氣に入った今の仕事でも、このパターンを繰り返してしまっていたので、心配になってフォワードに相談しに来たのです。
フォワードは二ヶ月間、彼に会社を休むことを提案し、その間に彼はトラブルを引き起こした原因について、向き合うことができました。職場に復帰後は、上司と衝突することがあった際、それは実際の職務上の問題か、自分の心が引き起こしていることかの区別をつけられるように努力しました。職場復帰後、セラピーは八ヶ月続けたそうですが、職場の人達からは別人のようになったと言われるまでになり、心の落ち着きを取り戻したそうです。
「自分の親はそれほど完全主義ではなかった」場合でも、結果的に似たようなパターンが起きていないか、振り返るきっかけにして頂ければと思います。いずれにせよ「無実の罪悪感」とそれによるプレッシャーで駆り立てられて、自尊感情豊かな生き方になることはありません。
親からの過度なプレッシャーは、親自身が癒されていない証
「完全主義の親」を持つすべての子供が待ち望んでいるのは、「ベストを尽くせばいいんだよ。結果がどうであろうと、私は君を誇りに思っているよ」という親の言葉です。けれども、彼らがその言葉を聞くことは永久にありません。
前掲書
親自身が「結果が氣になるのは無理もないけれど、それ以上に、自分はベストを尽くせたか。その自分を誇りに思えているか」と自分に問いかけ、その通りに生きていなければ、このような言葉を我が子に言ってあげることはできません。言ったとしても、実感が伴わない空虚なものになるでしょう。
このクライアントの義父自身が、「体が小さくて内向的だったため、いじめられやすかったけれど、それでも頑張って生きてきた」子供の頃の自分を、自分自身が認め、受け入れられない限りは、「他人に完全主義を強要する」ことをやめられないのです。他人を蔑ろにし、踏みにじる人達は、そうやって自分を守っているかのようですが、死ぬまで一緒にいて、逃れることができない自分自身を誰よりもいじめています。
義理の息子のクライアントは、地道な努力の結果、その渦から出ることに成功しました。しかし、義父本人がその意志を持たなければ、誰も「自分をいじめ、結果その怒りを他人にぶちまける」ことを止められないのです。