親子の役割逆転による子供の「燃え尽き症候群」
以前の記事にも、子供が「親の親」をさせられ、過剰な負担を強いられて燃え尽きてしまう例を紹介しました。
「やってもやっても不十分」「早く大人にならなければ」の焦燥感ワーカホリック(仕事中毒)や、何事も根を詰めすぎ、肩や背中の凝りが慢性化している場合、もしかするとそれは焦燥感が原因かもしれません。心因的な症状は、心の奥底の原因を取り除[…]
いつの間にか、「相手に一生懸命尽くして、頑張って、燃え尽きてしまう。或いはいつか不満が爆発する」多くの人にそうした経験があるでしょう。「これだけ頑張っていれば、いつか相手はわかってくれるだろう。この頑張りが報われるだろう」
不満を溜め込んで、鬱になったり、体の症状に出るよりも、爆発して外に出した方が良いのですが、但しそれは、親きょうだいや、配偶者、恋人の前だけに限られます。一番やってはならないのは、「自分に依存し、自分を信じて決して裏切らない」弱い立場の子供相手にぶちまける、或いは全く関係のない第三者に嫌がらせをするなどです。
努力が要らない人生はありません。
しかし自分の人生を振り返り、しばしば「燃え尽きてしまう」のであれば、それは衝動強迫かもしれません。衝動強迫とは、無意識に「今度は上手くやれるだろう」と同じパターンを繰り返してしまうことです。人は何らかの衝動強迫を持っていますが、自覚できている人はほぼいません。傍から見れば「何遍同じことを繰り返すの?」ですが、自分では中々氣づけないか、「わかってるんだけど、でも・・」になります。
「私には衝動強迫なんてありません!」ではなく、自分にどんな衝動強迫があるかを知り、それは何を求めてのことだったかを意識化する。このことそのものが「あるがままの自分を受け入れる」一環です。このプロセスなくして、繰り返すパターンだけをやめようとしても上手くいきません。衝動強迫については、後に詳述します。
精神的に自立できない母親のケース
ところで、片方の親が子供を虐待している場合、もう片方の親が真剣に止めようとするケースばかりではありません。見て見ぬふりや、虐待する親に同調したり、以下に挙げる例のように子供を置き去りにして実際にいなくなってしまうケースもあります。どちらの親も、精神的に大人になり切れないまま親になってしまったのですが、「いなくなってしまう」親は、常日頃から子供に「かまってもらう」をやっています。
或る看護師の女性は、自分の母親について以下のように述べてました。
母はうつと不安感が強く、よく精神安定剤を飲んでいた。父が子供たちをあざけったり怒りを爆発させたりし始めると、母はその場に子供たちを置いたままいなくなってしまった。母は外部の人間、たとえばバスの運転手とか商店の人などにも、自分の考えをはっきり述べることができないように見えた。きっと自分の面倒も充分に見られない女だったのだと思う。
私は小さな時からそういう母を手伝った。自分のことを後回しにして母の世話をしたこともあった。そしてそれは私のパターンになった。私は子供の時からいつも人につくしてばかりいて、自分は報われない人生を生きてきた。そのパターンは恋愛をしても同じだったし、結婚しても変わらなかった。職場でも、よく仕事を押し付けられて一手に引き受けてしまい、頑張り過ぎて”燃え尽き症候群”になってしまったことがある。
ダン・ニューハース「不幸にする親 人生を奪われる子供」
「親子の役割逆転」の典型的な例です。子供は自分の家庭が全宇宙なので、何とかそれを維持しようとします。真面目な頑張り屋ほどそうなります。父親も母親も、親としての責任を果たそうとしていないと、子供は本来なら親が果たすべき責任を自分が背負ってしまうのです。
そしてこのパターンが、「尽くしてもらって自分の寂しさや虚栄心の埋め合わせをしたい。或いは責任を他人に押し付け、自分は楽して得をしたい」狡い人間に付け込まれる原因になってしまいました。
この女性の例では、親子ともども境界線を確立できず、責任のありようが逆転していました。娘の方が自分の限界設定をし、「相手のナップザックを自分が背負わない」意義が腑落ちする必要があるでしょう。これも頑張り屋ほど陥りやすい罠です。
「こうすれば親から『必要とされる』」と思っていなかったか
また別の女性は、子供の頃からよく家の手伝いをし、高校生の時には共働きの母親に代わって夕食を作っていました。洗濯物を畳んだり、アイロンがけをすることもありました。家事自体は嫌いではなく、また家事のスキルが身に着いたことは良かったと思うものの、結局彼女は、親から愛された実感を持てないままでした。
特に母親からは事あるごとに自尊心を傷つけられ、また悩みや辛さを訴えても、決まって「あんたが後ろ向きだ。被害者意識が強すぎる」などと碌に話も聞かずに裁かれていました。その割には当の母親は、父親や親戚の愚痴や悪口を、娘相手に夜中まで滔々と話していました。それでも彼女は、母親が氣が済むまで頷きながら話を聴くのです。ここでも親子の役割逆転が起きています。
「あんなに家事を頑張っていたのは、親から『必要とされている』と思いたかったのではないか」と彼女は話してくれました。母親の愚痴を嫌がる素振りを見せずに聴いていたのも同じでしょう。
しかし本来なら、家事をすれば、愚痴を聴いてあげれば、子供が親から「必要とされる」のはおかしなことです。そのようなことをしなくても、子供は無条件に愛され、必要とされていると実感できなければなりません。彼女は心の奥底で「私は親に必要とされていない。存在を歓迎されていない」と感じ取り、それを打ち消すために頑張っていたのかもしれません。
子供がいつまでも母親任せではなく、年齢に応じて家事を分担し、家事能力を身に着けて行くのは、自立のための大切なスキルです。家事は学校の勉強や部活動とはまた違う、段取り力や、創意工夫の発想力を磨き、「自分の衣食住の世話は自分でできる」自負心を養います。ただそのことと、「家事をすれば親から必要とされる」のは全く違う問題です。
この女性もまた、付き合った男性は「私からデートに誘い、プランを立てるのを、ただ待っている。巧妙に『誘わせようとする』」タイプばかりで、交際中も「私は都合よく利用されているんじゃないか」との思いが拭えなかったそうです。別れた後も「一生懸命頑張ってたけれど、へとへとになってしまい、楽しい思い出が残らなかった」とのことでした。交際中に楽しいことがあったとしても、「利用された感」「報われなかった感」の方が勝ってしまうと、その記憶を打ち消してしまいます。
親からもらえなかったものを他人に求めてしまう「衝動強迫」
この二人の女性の例のように「あなたは何をしてもしていなくても、大事な存在で、私たちにとって必要な存在だよ」というメッセージが、本当は欲しかった。その本音を自分の意識にのぼらせ、自分自身が受け入れないと、「燃え尽き症候群」は治りません。しかしそれは、「親からはもらえなかった」悲しい事実と向き合うことになるので、葛藤耐性が低いと簡単にはできなくなります。自分から見て見ぬふりをし、そして他人に求め続けることを延々と繰り返します。
子供は親から愛情、共感、承認、無条件に受け入れられること、失敗しても温かく励まされること、悩みや辛さを受け止めてもらうことを望みます。意識はしていなくても、これらが「要らない」子供はいません。
愛情、共感、承認が親からもらえないまま、親、もしくは他人に「今度こそ、上手くいくに違いない。こうすればもらえるに違いない」と無意識の内に求め続け、やめられない、これが衝動強迫になり、自身の囚われの原因になります。
人は自由に生きているつもりでも、知らず知らずのうちに何かに囚われてしまうものです。その囚われがちょっとした心配事など、一過性のものであればさほど問題ではありません。しかし自分の人生を通じ、例えば「深い共感が欲しい」との願いが去らず、それが囚われになっていないかを振り返る、そのプロセスを経ないと私たちは真の自由人にはなれません。
他人に求めていたものを自分ができるようになると
例えば深い共感が親から欲しかったが得られず、他人に求める衝動強迫になっているとしましょう。この深い共感とはどのようなものか、掘り下げて考えます。これにあらかじめ決まった正解はありません。自分にとってどうなのか、ということです。
表面的な「良かったね」「凄いね」「残念だったね」などの、結果で喜ばれたり慰められたりではないでしょう。何を大事にして頑張っていたのか、その姿勢そのものに共感され、大切に受け止めてもらうことが欲しかった。「お母さんはあなたが言わんとすることは100%理解しきれないけれど、あなたがそれを大事だと思って、一生懸命頑張ってることはわかるよ」といった、価値観や信念、生き方に共感してほしかった。このように掘り下げます。
そして残念ながら、実の母親にはそれを求めても得られないでしょう。また全ての人にできることでもないでしょう。ですから次に、自分が他人に対して、こうした生き方・あり方への共感ができるようになりたい、と決意します。
自分が何かの機会に、他人に対してこの深い共感ができ、それを相手がわかってくれた時、相手の心が慰められたと感じられた時ーこれもその人の感性によるので、万人に通じるものでもありませんー何よりも自分自身が、「深い共感を他人に求め続ける」衝動強迫から自由になっていきます。
衝動強迫があってはいけないのではなく、それがどのようなものかを掘り下げ、他人に求めるのではなく、自分の生き方に昇華する、そのきっかけにすることができます。そうしてようやく、「燃え尽き症候群」から解放される。この息の長いプロセスを踏むこと自体も、自尊感情を高めて行く一環です。