心を傷つける、嫌な人に出会わざるを得ないのが人生
人間の悩みは究極的には人間関係になります。
どんなに自分が良心に従った真っ当な人生を生きようとしていても、寧ろそういう人なら尚のこと、嫌な人からの攻撃に遭ったり、悲劇のヒロインを装ったかまってちゃんに延々とまとわりつかれたり、理不尽なことが起きるのが人生です。
子供が全面的に親を信頼し、親を好きでいたいその心に親の方が胡坐をかいて、事あるごとに子供の心を抉ってくる、そのため子供が親から離れようとするとなだめすかし、子供がそれを信じてしまうとまた同じことを繰り返す、そんなことも残念ながら起きてしまっています。
そしてそうした人に出会ってしまうことそのものよりも、「また~されたらどうしよう。あんな嫌な思いをまたしたらどうしよう」の恐れの方が、私たちの人生を縮こまらせ、その結果、愛や、友情や、励まし合うことを経験できなくなるかもしれません。しかしそれでは何のために、この世に生まれたかわかりません。
誰にでも起きうる「また~されたらどうしよう」の恐れを、どのように対処する力に変えていくかの考えるヒントです。
対処する力が(まだ)ないと思っていると、新たな出会いを恐れるように
例えば営業・販売や集客の仕事をしている人で、「新規顧客を月に〇人獲得!」と目標を書いて机の前に貼りだしても、心の底から「よし、やるぞ!」と思えていない、集客にどこか身が入らない場合、「またあんな嫌なお客さんが来たらどうしよう、いやだなあ」という恐れがブレーキになっているかもしれません。
頭では「常識的なお客さんが99%で、あんな嫌なお客さんは1%いるかいないかだ」とわかっていても、その1%を恐れて「じゃあ、いっそお客さんが来ない方が楽で安心だ」をやってしまうのが心の不合理なところです。
その恐れが後ろ向きで悪い、ということでは決してありません。誰だって嫌なことをされれば嫌だと思うものですし、その感情を否定したりごまかしたりすると、余計にエネルギーが湧いてこなくなります。
「私はどんな人が嫌で、恐れているのか」を掘り下げ「今ならどう対処できるか」をシュミレーション
まず、「どんなお客さんが来たら嫌だと思っているのか」に正直に振り返ることから始めます。
「もう来てほしくないお客さん」の具体例(Aさん、Bさん、Cさん等)をピックアップします。いくつかのパターンに分かれる筈で、「Aさんはこういうところが嫌だった。Bさんはこうしたところがすごく困った」など、具体的にどのようなことをされて嫌だったかを振り返ります。
具体的に嫌だったところ(店のスタッフを見下す、他のお客様の迷惑を顧みない、わざと注文をころころ変える、など)が、こちらの落ち度のせいではないのであれば、それに嫌悪感を感じる自分で良かったと承認することがとても大切です。それは自分の良心が反応し、正しく判断していればこそだからです。
そしてまた、他のスタッフはそのお客さんを大して氣にしていないかもしれません。しかし他人と比較して、「私は心が狭い」などと自分を責める必要はありません。「これこれの態度を取る人を私は嫌だと感じる」それが等身大の自分で、そのこと自体に良い悪いはありません。
それから今ならどう対処できるかを、自分の頭でシュミレーションしてみます。もし自分だけでは思い浮かばない時は、しかるべき先輩、同僚や上司に「○○さんなら、こういうお客さんにはどう対処されてますか?」と相談して、知恵を拝借するのも良いでしょう。相手を逆上させずに上手にお引き取り頂くのは、それなりに経験が必要ですから、経験者から謙虚に学んでも良いのです。これまでの自分から幅を広げるためです。
例えば「店のスタッフを見下す物言いをする」なら、相手にそれを変えろと言っても無駄なので「空威張りをして満足する器の小さな人だ」と割り切る、「他のお客様の迷惑を顧みない」なら、「それをされると他のお客様にご迷惑が掛かってしまいますので、○○して頂けないでしょうか?」と丁重にかつはっきりと伝える、などです。
そして細かなテクニックよりも、寧ろ「自分は何のため、誰のために仕事をしているのか。こちらを振り回して疲弊させる人は本当に『お客様』なのか。自分のエネルギーを注ぐべきことは何か」の原理原則の方が、対処のためにはより重要でしょう。その原理原則の心構えがあると、毅然とした態度を取りやすくなり、嫌なお客さんに自分から振り回されることが減ってくる筈です。
「今なら、ああいうお客さんが来ても対処できる」と自分に自信を持つことが肝要です。そのためのレッスンとして「嫌なお客さん」と接したのだ、直に経験しないとやはり自分の力にならなかったと過去の出来事を受け止められれば、もう恐れは解消しているでしょう。そして念押しですが、それでも今後も「嫌なお客さん」に接すれば、その度ごとにやはり嫌な感情は起きる、それはそれでいいのだと思えることも合わせて大切です。
上記は集客の例でしたが、職場の人間関係や、恋愛や家族関係でも根本は同じです。「こちらを振り回して疲弊させる人に、二度と戻ってこない人生の時間を使って良いのか」を自分に問わなければ、毅然とした態度を取る決意はできません。関わらざるを得ない場合でも、この態度があるかないかで結果は変わってきます。
トラウマを克服するとは「対処する力がかつてと違って自分にはある」と思えてこそで、その結果、もう嫌な記憶が再々浮かび上がらなくなります。
共感性が高く人を疑わない人ほどカモにされやすい
ところで、人を振り回して自分の虚栄心や支配欲を満たしたい、時には悪意を持って人に接しようとする人は、必ずターゲット、つまりカモになる人を探しています。
カモにしても反撃されたり、自分の立場が悪くなったりしない人を、無意識の内に選んでいます。お店のまだ若く経験の浅そうなスタッフはカモにされやすく、ベテランはカモにされにくい、などです。冒頭に書いたように、親が我が子をカモにしていることもあります。
そのような卑怯なことを最初から考えさえしない人にとっては、このこと自体が受け入れがたいかもしれません。
そして中でもカモにされやすいのは、共感性が高く心優しい人、そして人を疑わない人、人から嫌われることを恐れ、評価評判を氣にする人、面倒見がよく人のために一生懸命頑張ってしまう人、どちらかと言えば氣が弱いお人好しなどです。共感性や氣持ちの優しさを変える必要はありませんが、ある程度人や物事に疑問を持ち、自分で考える、何でも鵜呑みにしない習慣を身に着けること、そして嫌われる勇氣を養うこと、適切な「No」を言えるようになるなどが自分自身の課題になるでしょう。
「No」を適切に言えるために「No」と言うこと。これを難しく感じる人は少なくありません。「Yes」より「No」を言う方が、エネルギーと相手の体面を傷つけない知恵が要ります。だからこそ、人は簡単に「『Yes』と言っておく」に[…]
また共感性が高い人ほど「共感=善」で、共感しないのは不親切で相手を傷つける無礼なことだと思い込んでいるかもしれません。しかしこれも、場合によりけりです。このサイトの記事で度々書いていますが「一回一回判断する」即ち「今は共感が必要で大事か、寧ろ共感しない方が相手をつけ上がらせないか」を考えて選択する、この意識的な頭の使い方がとても重要です。
言われたこと全てに返事をしなくても良いのです。明らかな悪意のある言葉は無視して取り合わないくらいの心構えで構いません。「えー、私そんなことしません!」「どうしてそんなこと言うの?」など、反応するから相手が喜ぶのです。
相手がお客さんなど氣を遣わなければならない相手で、あからさまな無視はできない場合は、最初は「はい」「そうですね」などと短い言葉で相槌を打ち、段々言葉を減らして頷きだけにし、その頷きも深くから浅く、そして回数を徐々に減らす、目線も少しずつ外す、いわゆる「ラポールを切る」テクニックが有効です。ラポールを切られると相手は違和感を感じ、それ以上話を続けにくくなります。
自分がその人との関りで何か疲弊している時は、共感や優しさや献身が仇になっている、いわゆる「クレクレ星人」を相手にしている可能性があります。「クレクレ星人」は底なし沼でキリがなく、「もう充分よ、ありがとう」と言うことは決してありません。その場合は「どんなに陰口を叩かれようと、自分がカモにならない」決意が最も重要です。
心の問題はその人自身にしか解決できない・「救ってあげたい」の罠
支配したり、構ってもらってエネルギーを奪い、奪うだけでなく自分と一緒に引きずり下ろそうとする人は、俗にエネルギー・イーター(エネルギーを食べる人)などとも言われます。
真の幸福とは自立あってのものです。自分が自立するのが面倒だから、怖いから、でも一人ぼっちが嫌だから「私と一緒に不幸になって」をやるのです。まず「そのようなことは自分と相手のためにも決して受け入れない」強い心構えが重要です。
如何にも悲劇のヒロインのような人でなくても、ふとした隙に相手の心に自分の心のゴミを投げ込む、そうすると自分の心からゴミがなくなったような氣になる、こちらには何の言われもないのに心を抉るようなことを突然言ってくるなどです。これもその度ごとに「自分にも反省するべき点があって、相手の腹立ちが高じて嫌味な言い方になってしまった」のか、「ただのゴミ投げ」なのかを判断します。よくわからない場合は、「他人に置き換えて考えてみる」と判断がつくでしょう。友人から「こんなこと言われて・・」と相談されたらどう答えるかを、想像してみます。
相手を独り占めしたい、支配欲を満たして万能感を得たい。それをすることで孤独や無力感を忘れたい。成熟とは「人は皆孤独で、自分の限界や無力さを噛み締めながら生きている」のを承認することです。自分が背負うべき孤独や無力感を、他人に負わせようとするのを受け入れてはいけません。あたかも、健康管理は徹頭徹尾その人本人がするもので、「他人に風邪を引かさないために、何の症状もないのにマスクをしたり、治験中のワクチンを打つこと自体が間違い」なのと同じです。
そのことと、その人の孤独や無力感に共感し、励ますのは別の話です。他人は共感し、氣持ちの整理の手伝いをし、時には「少し休んでもいいんじゃない?」とそっと言ったり、「こういう考え方、やり方もあるよ」の提案はできますが、それをやるかどうかはその人自身です。「でも、だって・・」と同じことを繰り返す人は、そこから抜け出す意志が今はないのだと判断を下せないと、自分の方がエネルギーを奪われてしまいます。
共感性の高い人ほど「見ていられない」氣持ちになるものでしょう。その氣持ちは大事にしつつ、「救ってあげたい」には罠がある、「救ってあげようとして自分も相手も疲弊するだけだった」経験がある人は良くわかると思います。
これも「自分には限界がある」という、自分自身の幼児的万能感を打ち砕いていくプロセスが必要で、最初からわかってやれる人はいないでしょう。
「自分がこの人とどこまで付き合うか」を一回一回決める・決まったマニュアルはない
上述した「クレクレ星人」は、関わらないのが一番です。しかし同居家族だったり、職場の人などでそうも言っていられない場合は、「自分がどこまで付き合うか」を決める必要があります。それをこちらが決めないと、「クレクレ星人」はどこまででも境界線を乗り越えてきます。
「また~されたらどうしよう」の恐れが湧き上がってくる時点で、その相手とはもう付き合いたくないのです。その本音に正直になりつつ、「どこまで付き合うか」「どのように自分の境界線を乗り越えさせず、自分が疲弊しないか」。これは「どんなに言っても変わらない」相手に対しても全く同様です。
浅い付き合いにも意味はあります。深入りしないことが互いのためのこともたくさんあります。その分、自分で自分をあやし、楽しむ習慣が必要で、それがないと自分の方が相手に期待をしては裏切られを繰り返して疲弊してしまいます。
そしてこれには予め決まったマニュアルはありません。人間も状況も千差万別であり、かつ流動的だからです。
私の心理セラピーにおいても、決まったマニュアルはなく、原理原則があるだけです。クライアント様にも「決まった正解を欲しがるのではなく、自分で答えを導き出せる効果的な質問を自分にする」その意義と習慣を身に着けて頂く、この連続なのです。