知識ではなく気づきによって、変わる生き方
セラピー・セッションで主にやっていることは、クライアント様の経験から気づきを得ていくことです。
気づきは知識とは異なります。弊社のクライアント様は、勉強熱心な方が多く、読書好きだったり、また弊社サイトの記事を繰り返し読んで下さる方も少なくありません。
しかし、多くのクライアント様が「足立さんが書かれていることの意味はわかるのですが、何度読んでもピンときませんでした」とおっしゃいます。そしてそれは、或る意味当然のことです。
万巻の書物を読んでも、偉い先生のセミナーをいくつも受講しても、自分と向き合うことから逃げてしまったら、生きやすくはなりません。生きやすさのためには、知識を得るお勉強ではなく、日常生活において、自分が何に対してどのように感じ、考えているのかに向き合っていく作業が必須です。
知識として「知っている」ことと、自分の生き方になるのは天と地ほどの差があります。宗教でも思想でも、生き方にならなければ人生は変わりません。
お勉強が得意な秀才が、必ずしも自尊感情が高いわけではなく、自己否定感が強いことさえあるのは、知識と気づきは違うことが、本人にも周囲の大人にも理解されていないからでしょう。知識を得るだけの「お勉強漬け」にしてしまうと、実生活からの気づきを得る機会が、寧ろ減ってしまうかもしれません。
また私たちは、嬉しいことや楽しいことよりも、嫌なことや辛かったことの方から、より多くの気づきを得られます。「愚かさを通り抜けて初めて身につく」賢さがあります。たとえどんなに愚かな自分であっても、その自分を決していじめず、ダメ出しせずに希望を持ち続けられる人は、このことがよくわかっています。
心理セラピーとは「気づきを得て、自分の世界地図が拡大すること」
気づきを得た瞬間、困難な出来事は「降りかかった災難」から「リソース(資源)」に生まれ変わります。
気づきを得るとは、「自分の世界地図が拡大する」と言い換えても良いでしょう。私たちはそれぞれ脳の中に、固有の世界地図を持ち、現実を推し量っています。そしてどの地図も土地そのものを正確に写し取ったものはなく、「正しい地図」は存在しません。
ただ、望むところへ行くために、自分の地図が役に立つものになっているかどうかが問われます。
大阪から東京へ行きたいのに、途中の名古屋で地図が途切れていたら、名古屋から東京まで地図を拡大する必要があります。
名古屋までの地図が「悪い」「間違っている」のではありません。目的地へ到達するのに充分な用を足せない、だから拡大する必要がある、ということです。
そしてしばしば人は、自分の地図を拡大するのが面倒だから、「東京を名古屋まで引きずってこよう」としてしまいます。しかしこれは、やろうとするだけ骨折り損です。
この「世界地図を拡大すること」が、当Pradoのセラピーの根幹の一つです。
そのままの自分を受け入れるとは、向上心を放棄することでは決してありません。今現在の自分の地図をそのまま見ること、それ以上でもそれ以下でもないと受け入れることです。そしてその上で、生きている限り自分の世界地図を拡大し続けることです。何故なら、生きるとは学びの連続だからです。
自尊感情が高い人とは、世界地図を拡大する習慣を身に着けている人でもあるのです。
「世界地図の拡大」の図解
では、世界地図を拡大するとはどういうことか、例を挙げます。
例えば社会人になりたての時に、わがままで横柄なお客さんに当たったとします。まだ学生気分が抜けてないその時期、どんな人でも経験の量が絶対的に少なく、まだまだ世界地図は狭いです。そうなると、「わがままで横柄なお客さん」が狭い世界地図の大半を占め、自分を圧倒します。
「今日もまたあんなわがままなお客さんが来たらどうしよう!」
「私この仕事向いていない・・・!」
わがままなお客さんの存在=”問題”
そして「この”問題”を取り除いてほしい」「この”問題”を被っている私は被害者」の状態です。
2、3年もたつと
「いてんねん、そういうお客さん、どこ行ったって一緒や!」
とかつて先輩に言われていた事を自分も言えるようになります。
”問題”の大きさは変わっていません。
しかし”わがままなお客さん”をその時は「嫌だなあ、面倒くさいなあ」と思うかもしれませんが、前もってびくびくしたり、後々まで引きずってくよくよしたりもしません。
”わがままなお客さん”への対処方法が身に付き、「世の中にはそういう人もいる」という事実を受け入れることができているからです。
そしてこれが「世界地図が拡大する」ということです。実際、こうした経験を経てこそ、私たちは成長します。
こうした”わがままなお客さん”を好きになる必要はないし、理解しようとすらしなくていいのです。
ただそういう人と直に接しない限り、私たちは「対処方法」と「事実の受容」を身につけることはできません。「対処方法」と「事実の受容」がこの場合の気づきです。
気づきは自己承認/ジャッジしないことの重要性
気づきは言葉にしてしまえば「当たり前のこと」です。上記の例で言えば「わがままなお客さんはどこにでもいるもの。客商売では避けて通れない」と言ったことです。
そして気づきを得るとは、時として辛かった経験に向き合い、そこから学んだ自分を認めていくこと、即ち自己承認をしていくことです。
承認と評価は異なります。承認は事実を認めること、評価はその事実に「良い/悪い」のジャッジをすることです。
私たちの選択や行動は、その時の状況に応じて、ふさわしかったかどうかの評価を受けることはあります。私たち大人は、何を言ったりしたりしてもいいわけではありません。
そのことと、心の中で起こることはまた別です。心の中で起こること、特に感情をジャッジすると、とても生きづらくなってしまいます。どんな感情にも、恨みや憎しみでさえ、良い/悪いはありません。
ジャッジはダメ出しの否定だけではありません。ほめることも実はジャッジです。「ほめて伸ばす」というやり方がありますが、これは鞭の代わりに飴で動かしているだけで、結局は操作です。「『ほめられる』という飴欲しさに○○する」になりかねません。飴がもらえようともらえまいと、それが大事だからする、これが真の自発性であり、自尊感情豊かに生きるあり方です。
そしてまた、感情と同じく気づきにも「良い/悪い」や「優れている/劣っている」はありません。つまりジャッジはないのです。そしてまた、他人と比べてどうこう、というものではありません。その時のその人に必要なものです。
ジャッジしないということそのものが「そのままの自分でよい」という暗示になります。逆から言えば、ほめるにせよダメ出しするにせよ、ジャッジは「そのままの自分では不十分だ」という暗示になります。
「評価を下す」という言い回しがあります。評価はその内容が何であれ、原則として上から下に「下す」ものです。
気づきは自分で自分の歩みを承認すること。そこには客観視するもう一人の自分が、自分を対等の立場に置き、励まし続ける態度があります。
セラピストはクライアント様の気づきを言語化するための補助は多く行います(ですので、セラピストの精進の一つとして言語能力を磨くことがあります)。しかし気づきそのものは、クライアント様ご本人が発見するもの以外の、何物でもありません。
気づきは見識に、見識は境地に
やがて気づきは、知識ではなく見識になります。
見識とは
見識とはその人格、体験、もしくはそこから得た悟りなどによって発せられる判断、考え方のこと。
義の何たるかを知り、真の利を知るものを見識という。
自分自身を以て物事の本質を見定めて判断をするものであり、クイズなどでいくら解答できようが、それは知識であって見識とはならない。
同様に一般的な批判、批評などは知識を用いているだけで見識とは異なる。
自分自身の内部より発する考えでなくては見識ではない。
ただし、たとえ人の意見を採用したとしても、その採用が自分の信念、思想に基づいたものであれば見識といえる。
尚、一般的には判断の結果に間違いの少ない人を見識のある人という場合が多い。
私たちが大小取り混ぜた無数の判断の連続と言う人生を生きていくに当たり、必要で役に立つのは知識ではなく見識です。
そして見識が積み重なると、それは境地になります。一旦境地になると、めったなことではもう後戻りはしなくなります。
境地とはその人だけのもの。人と比べるもの、比べられるものではありません。また誰にも奪われず、誰にも与えることもできません。
自分と向き合い気づきを得る習慣を通して、人はおのずと、自分を他人と比べなくなります。他人と比べることは全く無意味なことだからです。
一生学び続けるとは、死ぬまで気づきの連続という生き方をすること。年齢のせいにしたり、外側から与えられた「生きがい(仕事や趣味や子育てなど)」の有無に振り回されず、死の直前まで気づき学び続ける能動的な姿勢です。
何が起こっても、世界は美しい
辛かったことから気づきを得る、これを繰り返すことで、無条件に自分を信じ、困難を前もって恐れなくなります。自分を信じるとは、世界を信じるということであり、世界地図が拡大するということです。
世界に対する信頼感と、自尊感情は表裏一体です。
自尊感情が豊かな人が、困難、妨害、挫折にめげずに前に進み続けることができるのは、
「世界は無条件に信じるに値する」
「美しい世界がこの世のどこかにあるのではなく、何が起こっても世界は美しい」
と思っているからです。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」
V・E・フランクル「夜と霧」
雨雲の向こうにはいつも青空がある、今目に見えていなくても、それを知っているからです。