知識ではなく氣づきによって、変わる生き方
心理セラピー・セッションで主にやっていることは、クライアント様の経験から氣づきを得ていくことです。
氣づきは知識とは異なります。弊社のクライアント様は、勉強熱心な方が多く、読書好きだったり、また弊社サイトの記事を繰り返し読んで下さる方も多いです。
しかし、多くのクライアント様が「足立さんが書かれていることの意味はわかるのですが、何度読んでも何も変わりませんでした」とおっしゃいます。そしてそれは、或る意味当然のことです。
記事も、或いは他の書籍や動画も、最大公約数的な原理原則しか言えません。人生が変わるには、その人の日常生活に即した氣づきが不可欠です。ですので、弊社のセッションは他よりも長めに時間を設定しています。
氣づきは言葉にしてしまえば、何の変哲もない当たり前の、特別に変わったことではありません。ですから他人からすれば「そんなの当然じゃない。どうしてわからないの?」と思われることも多いものです。だからこそ、他人は「あんたわかってないわねえ」の余計なおせっかいを焼きたがります。
氣づきは今のその人に、そのタイミングで必要なことです。
そして知識ではなく氣づきが、人生に変容を起こします。知識は脳が記憶するものです。不要になれば忘れてしまいます。氣づきは脳内に新たな神経回路を作り、脳そのものが「変わっていく」ことです。脳には可塑性があり、即ち粘土のように変わることができます。それには氣づきと、氣づきに基づいた、それまでとは異なる判断選択の積み重ねが不可欠です。人生が変わるのは知識ではなく氣づきとは、こうした意味です。
私は氣づきの言語化のお手伝いや、ヒントになるようなたとえ話はたくさんしますが、氣づきそのものを「与える」ことはできません。
氣づきとは自分の世界地図が拡大すること
氣づきを得るとは、「自分の世界地図が拡大する」と言い換えても良いでしょう。私たちはそれぞれ脳の中に、固有の世界地図を持ち、現実を推し量っています。そしてどの地図も土地そのものを正確に写し取ったものはなく、「正しい地図」は存在しません。
ただ、望むところへ行くために、自分の地図が役に立つものになっているかどうかが問われます。
大阪から東京へ行きたいのに、途中の名古屋で地図が途切れていたら、名古屋から東京まで地図を拡大する必要があります。
名古屋までの地図が「悪い」「間違っている」のではありません。目的地へ到達するのに充分な用を足せない、だから拡大する必要がある、ということです。
そしてしばしば人は、自分の地図を拡大するのが面倒だから、「東京を名古屋まで引きずってこよう」としてしまいます。しかしこれは、やろうとするだけ骨折り損です。
そのままの自分を受け入れるとは、向上心を放棄することでは決してありません。今現在の自分の地図をそのまま見ること、それ以上でもそれ以下でもないと受け入れることです。そしてその上で、生きている限り自分の世界地図を拡大し続けることです。何故なら、生きるとは学びの連続だからです。
自尊感情が高い人とは、世界地図を拡大する習慣を身に着けている人でもあるのです。
「世界地図の拡大」の図解
では、世界地図を拡大するとはどういうことか、例を挙げます。
例えば社会人になりたての時に、わがままで横柄なお客さんを接客したとします。まだ学生気分が抜けてないその時期、どんな人でも経験の量が絶対的に少なく、まだまだ世界地図は狭いです。そうなると、「わがままで横柄なお客さん」が狭い世界地図の大半を占め、自分を圧倒します。
「今日もまたあんなわがままなお客さんが来たらどうしよう!」
「私この仕事向いていない・・・!」
わがままなお客さんの存在=問題
そして「この問題を取り除いてほしい」「この問題を被っている私は被害者」の状態です。

2、3年もたつと
「いてんねん、そういうお客さん。どこ行ったって一緒や!」
とかつて先輩に言われていた事を、自分も言えるようになります。

問題の大きさは変わっていません。
わがままなお客さんをその時は「嫌だなあ、面倒くさいなあ」と思いはしても、前もってびくびくしたり、後々まで引きずってくよくよしたりもしません。
わがままなお客さんへの対処方法が身に付き、「世の中にはそういう人もいる」という事実を受け入れられているからです。
そしてこれが「世界地図が拡大する」ということです。実際、こうした経験を経てこそ、私たちは成長します。
こうしたわがままなお客さんを好きになる必要はないですし、理解しようとすらしなくていいのです。
ただそういう人と直に接しない限り、私たちは「対処方法」と「事実の受容」を身につけることはできません。私たちは誰しも、前もって地図を拡大しておくことはできません。
例えるなら、一平社員としてどんなに優秀であっても、管理職としてのスキルを前もって身につけておくことはやはりできません。どんなに心優しい人でも、親になってみなければ親としての在り方を身につけることはできないのと同じです。
過去を否定せず「その時の自分」を大事に
心ある人ほど「あんなことを言ったり、したりしなければよかった」と、時には数年経ってから思いが至る、そんな経験があるでしょう。ただその当時はわからなかった。仮にその時誰かから「そんなことするもんじゃないよ」と横から言われたとしても、しぶしぶ従っても納得はできなかったでしょう。
後からわかるのは、当時よりも自分の地図が広がったからです。
「あの時は申し訳ないことをした」と反省することと、過去の自分を「ダメじゃん!」と否定することは異なります。
歌手の中森明菜が30歳の時、デビュー曲からそれまでの歌をセルフカバーしたアルバムを出し、それについてのインタビュー記事がありました。インタビュアーが「セルフカバーした曲の方が、当時よりも歌唱力が優っているのでは」と質問したところ、明菜は「それは歌唱力ではなく理解力の問題です」と答えました。
「16歳の子供の頃に理解した歌の世界と、今の30歳の自分とでは理解の仕方が違う。『ああ、こういうことを悲しいと思うんだな』『こういうことも寂しさなんだな』ということは、歳を重ねてこそわかることもある。しかし、16歳の自分が精いっぱいその時の自分で歌ったことは、特別肯定もしないが、否定もしない」といった内容でした。
その時その時の全力を出し切った、その自負があればこその言葉です。明菜がデビューした1982年は、アイドル豊作の年と言われ、数多くのアイドル歌手がデビューしました。しかし明菜は16歳のデビュー当初から、アイドル扱いは事務所やレコード会社がしていたとしても、やはりただのアイドルではなかったのです。
そしてまた、それはとりもなおさず、将来歳を重ねた自分が、30歳の自分を否定はしない、ということでもあります。
自分だけの氣づきを重ねて「自分は自分で良い」の自己受容に
「ああ、こういうことを悲しいと思うんだな」「こういうことも寂しさなんだな」が明菜だけの氣づきです。他人と比べることではありません。
自分だけの氣づきを積み重ねてくと、自然と「自分は自分で良い」と思えるようになります。他人と年収や社会的地位などの結果で比較することはしなくなります。比較とは、同じ物差しで自分と他人を推し量ることです。SNSでのフォロワーが多いとか、より有名どころから仕事のオファーが来たとか、家が立派だとか。そのようなことは、この世で唯一無二の自分の心にとっては全く無意味です。
誰と比べる必要のない、比べようがない氣づきが、真に自分を解放します。そしてこれは、自分が経験しないとわかりません。
「だって」と自己受容は正反対
頭もよく、勉強熱心なクライアント様であっても、深い氣づきにならない、脳の変容が起きず、中途半端に中断してしまうケースもあります。常識的で礼儀正しく、周囲からは「あの人はいい人ね」と言われるだろうクライアント様であってもです。
それは「だって」で生きることを根本的にやめられないからです。私の前ではいい顔をしていても、自分自身から、或いは自分の周囲の責任を負うべき人々から、様々な言い逃れをして逃げてしまうと、自我という心のダムが脆いままになってしまうからです。
「だって」は責任転嫁であり、責任の否認です。以下のリンクの記事に詳述しましたが、否認は最も原始的な心理的防衛の一つであり、これをやっている間は自我が成熟しません。そして受容は、成熟した心理的防衛です。
自我という「心のダム」様々な心理的な問題は、自我という「心のダム」が未熟で脆く、弱いか、大きくて強く、しなやかで成熟しているかに帰結します。この「心のダム」を様々なストレスから守ろうとして、ほぼ無意識的に行うのが心理的防衛[…]
自尊感情が高まると「だって」を言う自分に耐えられなくなります。
人間は弱いので、自尊感情が充分に高まる前は、つい「だって」で逃げたくなるものかもしれません。「だって」の接頭語が付かなくても、「世間の目が」「同調圧力が」「会社が」「夫が」「息子が」なども同じです。「ああ、それじゃダメだ。でもつい『だって』が出てしまう」と葛藤している人には、私はお手伝いができます。
そのことと、「だって」に何の疑問も持たないのは、全く似て非なることなのです。