同じ「ねばならない」であっても
義務も責任も言葉にすれば「ねばならない」です。しかし、そこに込められている感情は異なります。
人は信念が強くなればなるほど、信念通りにはならない現実に懊悩し、また他人の無理解、無関心にさらされ、孤独にもなります。
納得のいかなさを受け入れるのは誰にとっても容易ではありません。だからこそ人は思考停止し、自分の信念など持たず、目先の損得や自分が傷つかないことに飛びつき、もしくは周囲に合わせて流されて生きてしまいます。それが楽だからです。しかし、それは他でもなく自分自身を失うことであり、一時しのぎにはなっても「生きてはいても生き生きとは生きていない」人生を自分から送ってしまいます。
もし貴方が、仕事や用事をこなすだけで、毎日の生活が楽しくなく、空いた時間をお手軽な憂さ晴らしに費やし、仮初めの安心はあっても心の奥底に虚しさを感じているのなら、それは自分自身を全うする責任から逃れ、義務感で生きているのかもしれません。
義務感が生きる動機になっていると
私たちは或る程度のことは、義務感で縛られないと中々やりません。学生の頃、テストがなければ苦手な教科は勉強せず、今よりもずっと低い学力になっていたでしょう。学校の勉強だけでなく、何かの技術を身に着けるには、地道な反復練習が必須ですが、これも中々好き好んではやりたがりません。最初は義務感でお尻を叩かれ、或いは自分でお尻を叩いて練習しますが、後になって、「地道な基礎練習を怠らない大切さ」がわかります。そうすると、他のことにもそれを応用するようになります。
また税や社会保険料は、殆どの人は義務感で納めます。しかし、額面が増えても手取は増えず、生活が苦しくなればこそ、否が応でも政治に関心を持つようになる、義務感はこうした「放っておけばやらないけれど、大切なことに向き合う」ための動機にもなります。
こうした技術的なことや、部分的なことなら義務感が動機でもそう問題はありません。ですが生きることそのもの、もしくは対人関係の動機が義務感であれば、それは自分や他人の心を損ないます。そして動機は氣づきにくく、ずっと続くことなのでより深い心の傷になるのです。
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誰だって義務感で、嫌々、しぶしぶ向き合われたくありません。近しい相手であれば尚のことです。親や配偶者にそうした態度を取られれば、癒えがたい傷を心に負います。そのことと、際限ない「私にかまってちょうだい」には、自分が限界設定をして適切な「No」を言うのはまた別のことです。これは自分に責任を持つ態度です。
「真剣に向き合ってもらえない辛さ」を相手に訴えようとしても、まるで通じなかった経験が、この記事を読まれている方の中にはおられるかもしれません。その相手は、特別に冷酷とか、腹黒いとも限らず、「どこにでもいる、まあまあ常識的な人」に見えることもあるでしょう。逆に普段は口が悪く、すぐに怒鳴り散らすような人であっても、いざと言う時には真剣に向き合ってくれる人もいます。
「その時たまたま、余裕がなくて」ではなく、常にそうだった、もしくは「あんたが後ろ向きすぎる。被害者意識が強すぎる」など、最初から言い分を聴こうとせずに裁かれてしまい、それ以上何も言えなくなったことがあったかもしれません。これはその相手がナルシシズムをどれだけ脱しているかにかかってます。氣持ちが優しいなどの、性格の問題ではありません。
ナルシシズムとは「自分しか見えていない」⇒「あなたのために」にならない
ナルシシズムと言うと「何て私は、僕は、素敵なの、ああうっとり」と鏡を見て悦に入っている様を思い浮かべるかもしれません。但しそれだけではないのがナルシシズムの根の深さです。
ナルシシズムは全員持って生まれてきます。生まれたばかりの赤ちゃんは「自分しか存在しない」状態です。お母さんと自分の区別がつきません。お母さんの姿が視界から消えると、火が着いたように泣き出す赤ちゃんは、「自分の一部がなくなった」恐怖で泣いています。ですから、お母さんの姿が見えた途端に泣き止みます。
赤ちゃんは「こんな夜中に泣いたら、お母さんを起こしてしまうから可哀そうだ。朝まで我慢しよう」などとは考えません。赤ちゃんはそれで良いのですが、大人になっても、どんなに自分が辛くて不安だろうと、毎夜毎夜、深夜の長電話やLINEに他人を付き合わせていれば「自分の都合しか考えない自己中な人」になります。
ナルシシズムとは見出しの通り、「自分しか見えていない」状態です。以下の画像はカラバッジオの「ナルキッソス」です。ギリシャ神話のナルキッソスは、水鏡に映った自分の容姿に恋をし、溺れて死んでしまいます。この絵の通り、ナルキッソスは自分の姿しか目に入っていません。周囲の世界を見渡すことを一切していないのです。

ナルキッソスが自分に恋をして溺れている間、周囲の人達は働いたり、学んだり、様々な人と苦楽を共にしています。そうした社会の様相に、全く関心を持たないのがナルキッソスの心象風景なのです。
自分しか存在していないのなら、「あなたのために」になりようがありません。
義務感とは「それをしなければ都合が悪いからする」
「自分しか存在していない」ナルシシズムとは、他人や、自分に起きる事象を、自分の延長と捉えることです。つまり「自分にとって都合が良いか/悪いか」としか捉えない、ということです。
ですから、自分にとって都合が良ければやりますが、都合が悪い、損をする、メリットがなくただ面倒と感じると途端にやらなくなります。それでもやらざるを得ないと、「嫌々、しぶしぶ」の義務感になります。
嫌々、しぶしぶの義務感とは「それをしなければ、自分が都合が悪いからする」です。マナーやルール、常識と呼ばれるものは、本来は相手を思いやり、互いに円滑に交わるためのものです。普段は余り意識していないかもしれません。しかし「それをしなければ、自分が爪弾きにされるから、人から悪く思われるから」では、相手のためではありません。結局は我が身可愛さです。
また例えば、よそのお子さんが迷惑行為をしていて、それを勇氣を出して叱ったところ、「そんなことをすると怒られるよ!」とその子の親や祖父母が子供に言う、ということがあります。何とも不快な氣持ちが残るものです。その大人自身が「怒られないために○○する、しない」の打算、言葉を換えれば体裁で生きていることの現れです。世間体大事は、一見尤もなことのようですが、結局は我が身可愛さに過ぎません。
愛とは責任・尊重・配慮・知(関心・理解)の4条件が満たされること
ナルシシズムは全員持って生まれてくる、と上述しました。ナルシシズムは小さな芯の部分は誰にでも残ります。小さな見栄と呼ばれるものです。例えば、それまで身なりを構わなかった人が、好きな異性ができた途端にお洒落に精を出すようになる、好きな異性の前では「恰好を付けたくなる」。或いは、本当は寝坊して遅刻したのに正直に言うのが恥ずかしくて「電車が遅れて」と言い訳する、などです。本人が反省して再々繰り返さなければ、騙されたふりをしてやり過ごすのは、こうした小さな見栄は、許容し合わないと誰も生きて行けないからです。
小さな見栄を超えたナルシシズムを克服することが、万人にとっての一生の心の課題と言っても過言ではありません。古代のギリシャ人は、ナルキッソスの神話に託して人間の普遍的な課題と教訓を残してくれたのでしょう。
では、ナルシシズムを克服するにはどのようにすれば良いのでしょうか?答えは、自分の損得ではない、良心・価値観・品位に基づいた「見返りを求めずに、これが大事だからする」が動機になることです。
「正しい/正しくない」から「何が大事か」へ私たちの心が深く傷つくのは、大事なものやことを傷つけられた時です。「どうでもいい」とはある種の救いで、どうでもいいことには私たちは余り悩みません。価値観のない人はいません。しかし多[…]
見出しの「愛とは責任・尊重・配慮・知(関心・理解)の4条件が満たされること」とは、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」からの引用です。鈴木晶の翻訳では、尊重を尊敬としていますが、尊敬には「その人が素晴らしいから」と言った評価が含まれます。尊重も尊敬も、英語ではrespectです。尊重には相手への評価に左右されない、「大事にすること」そのものなので、私は尊重の訳語を当てました。
相手を尊重している時、損得勘定は働きません。利害損得があるから大事にするのは尊重とは言いません。自分の都合で利用しているだけです。良心がないと言われるサイコパスでさえ、利用価値がある相手は下にも置かずに大事にします。悪人であっても、自分のお氣に入りの車や時計は大事にするようなものです。尊重とは、人を車や時計の物のように扱うことではなく、代わりのない、たった一人のその人として大切にすることです。それは自分自身も同じです。
姉は自分自身をとても大切にしていたと思う。その大切な自分自身のすべてを仕事に投入していたのだから仕事は命懸けだったのだろう。人と比べるのではなく、与えられた仕事を燃焼してやり遂げたい、と誰よりも強く思っていた。脚本ばかりでなく、エッセイや小説などいろいろなことに挑戦したのは、自分を大切にするためにやったのだ。
向田和子「向田邦子の青春」
没後40年を過ぎても、エッセイ集が売れ続け、ドラマ「阿修羅のごとく」が再演され、向田邦子の冠が付けば名立たる俳優やスタッフが結集します。彼女の持って生まれた才能だけでなく、この利害損得を超えた、命懸けの仕事ぶりがあればこそでしょう。責任感は愛とはこうしたことです。
向田邦子のドラマの登場人物は、だらしなさや情けなさも大いにあり、それが身近な人間関係のいざこざの元になっています。しかし「人間はそうしたものだ」という一種の諦観と、それらも含めてのその人、という愛ある視線を私は感じます。お利口さんぶらない、きれいごとでごまかさない厳しさを伴った愛が、長年支持される理由でしょう。
自分や相手を尊重すればこそ、時として相手にとって耳の痛いことを言わなければならないこともあります。泣く思いをさせることもあります。泣く思いをさせる方がずっと辛いです。少し前の大人なら、こうした当たり前にわかっていたことが通用しなくなりました。これは自分の怠惰と臆病さに負けてしまった、愛のなさだと私は思います。違う角度から言えば、少々耳の痛いことを言われた時に、多少ムッとする程度に留まらず、話をすり替えて揚げ足取りの逆切れをする人は、「責任感は愛」がわからない人なのです。
使命とは神様との約束・利害損得を超えていること
自分の使命を知りたい、と思う人は多いでしょう。
ただ、責任や困難から逃げ続ける人に、天から使命が下りてくることはありません。物事には順序があります。愛に裏打ちされた責任を果たし続ける人が、さらにその愛をより高い次元のものに向けた時に、自分の使命を悟ります。
使命感とは、自分や、自分の家族さえ無事に暮らせればいいという狭い意識とは相反するものです。この狭い意識こそがナルシシズムです。ナルシシストは、家族の無事は願っても、よそのお子さんがコロナワクチンで死んでも他人事にしてしまいます。それは家族が自分の延長だからであって、真に家族を愛しているからではありません。本当の愛は、自分も、家族も、見ず知らずの他人も区別を付けません。ただ、果たすべき責任の優先順位があるだけです。
様々な困難や、時として世間からの批判や中傷に屈することなく、損どころか自分の命の危険すらある事柄に、努力、情熱、才能を注ぎ続けられる人は、もしかすると、この世に生まれて来る際に、神様との約束をしてきたのかもしれません。
神様との約束だからこそ、裏切ることはできないのです。神様との約束は、「これだけやるのだから、その見返りとして、これこれを下さいね」の取引ではありません。何があっても無くても、無条件に守るものです。神様との約束を守り抜くこと自体が報いである、その生き方ができる人にこそ、使命が授けられるのだと思います。
