「何故」マスクをしなければならない「のか」
コロナ騒動から4年目の夏になり、マスクを外す人は増えつつあるものの、やはり炎天下でもマスクを外さない人は、目測では3割前後はいるようです。
念のためですが、いわゆるコロナ脳のお客さん対策や、ワクチンシェディングの臭いの被害を若干でも和らげるためなど、マスクをせざるを得ない人の場合を除きます。
よく言われるように「騙される人は何度でも騙される」ものです。他人がわかりやすいように説明しても、頷きはしてもその時だけで、自分の頭で考えることをしなければすぐに元の木阿弥です。
見出しに書いた通り、洗脳されっぱなしの人は「何故」マスクをしなければならない「のか」の内、「何故」「のか」が抜け落ちています。理由も何もなく、「マスクをしなければならない」「マスク=感染対策=善」と刷り込まれると、「マスクをしない=悪」になり、「マスクは個人の判断で」と国から改めてアナウンスされても、自分で判断することがもうできません。
「正解」という思考停止にする教育
貼付の画像はSNS上で出回っている物です。
日本人の中でも騙されなかった人、そして「騙されたふり」を潔しとせず、抗い続けた人はこの項目の逆をやっています。集団の中では変わり者扱いされてきた人が多いでしょう。
日本の教育はひたすらあらかじめ決められた「正解」を答えさせます。合っていれば褒められ「成績の良い頭の良い子」と評され、間違っていれば「成績が悪い頭の悪い子」の烙印を押されてしまいます。
基礎の基礎、読み書きそろばんや、誰がどう見ても答えは一つしかない地名などは、決まった正解を求められるのは当然です。しかし、現実の世界に決まった正解はありません。ある一定の組織や社会で決められたルールや、原理原則はあってもです。そのルールも「ルールだから正しい」とは限りません。
時折SNS上で「高学歴の人が何故こんな子供騙しのコロナ詐欺に引っかかるのか」という議論がなされました。それは「高学歴なのに」ではなく「高学歴だから」です。
「これが正解ですよ」と提示されたとおりにすると「○○ちゃんはお利口さんね、偉いわね」と言ってもらえます。子供は承認を欲しがりますし、そうやって優越感を得るパターンが染みついてしまった人は、「マスクをすれば、ワクチンを打てば、偉いわねと言ってもらえる」に自分から嵌りこみます。優越感と権威付けには密接な関係があります。
権威を信じず自分の目で見て自分の頭で考える人は、学歴とは無関係に、少し調べればコロナの嘘がすぐにわかった筈です。承認を得ることが、生きる動機になっていないから権威付けに引っかからないのです。
そしてまた、健康管理は徹頭徹尾、自分自身がするものであり、善行でも何でもありません。人に言いふらしたり、SNSのアイコンに「接種しました」フレームを付けてアピールするようなことではないのです。「感染しない!させない!」が神をも畏れぬ思い上がりであることと、根は一緒です。
あらかじめ決まった正解を答えさせて褒め、間違っていれば×とされるのは、サーカスの動物を調教するのと同じで、真の教育とは言えません。
日本の教育は、元々どんな子供も持っている探求心、疑問に思う好奇心を削ぎ落し、「こうしておけば私は怒られない」のサーカスの動物にしてしまいます。それが日本だけがワクチン接種を続け、国民が中々マスクを外さない、それに疑問すら持たない結果に現れています。
ですから大人の私たちこそ「決まった正解があるもの」「正解も完璧もないが、ある一定の水準が求められるもの(仕事はまさにこれです)」「正解も完璧もなく、永遠に途上であるもの(思いやり、勇氣、視野の広さなどの人間のあり方や、芸術や技など)」の区別ができ、また疑問を持つ力と探求心を失ってはならないのです。
そして子供に「失敗してもどうということはない事柄(今日着ていく服を自分で選ばせるなど)」で、自分でやらせてみる、即ち試行錯誤させて「自分で答えを見つける」経験を積ませることが、子供をサーカスの動物にさせないために大変重要です。「答えは誰かからもらうものではなく、自分で探すものだ」と体得させるためです。
人は一旦信じたことや好意を持った相手を疑うことにストレスを感じる
騙されないためには疑問を持つことが必須です。しかし疑問を持つ、疑うのは脳にとっては負荷が掛かります。信じる方が楽であり、また信じることに脳は快感を得ます。「あなたを信じます」と言う方が甘美で麗しく、「あなたを疑っています」とは通常中々言えません。しかし「現実は本当にそうか?」と知ろうとしなければ、人は何度でも自分から騙されます。
問題を問題視しないと、人は問題に取り組まない何でもそうですが、問題があることが問題ではありません。問題とするべきことを問題視しているかが重要です。しかし一方で、人はそれよりも目先の安楽さ、ストレスがない方に飛びついてしまい、「スト[…]
またどんな人も、一旦相手を「いい人だ」と思ったり、またその人が魅力的で、自分に親切にしてくれると尚更、好意と信頼を寄せます。
下の図のマスローの欲求段階説の「所属と愛の欲求」は、三番目に根源的なものです。
自分はどんなに孤高の人間のつもりでも、誰かに自分をわかってもらいたい、共感し合いたい、愛し愛されたい、と潜在的に望み、そしてそれを得られると「快」を感じずにはいられません。所属と愛の欲求は犬猫にもあります。欠乏欲求は本能なので、理性である程度自制はできても、消してしまえるものではありません。
一旦好意と信頼を感じた相手を疑うことは、所属と愛の欲求が脅かされる、つまり本能が脅かされるので激しい抵抗が起きます。詐欺師が感じが良く親切なのは、人間のこの心理を知り尽くしているからです。
遠い関係性の人だったら、「あれはおかしい」とすぐ気づくことでも、好意と信頼を寄せた相手だと、見て見ぬふりをするか、「あの人のことだから、何か事情があるに違いない」と自分から歪曲しがちです。時には「私が悪いことをしたかな?」と自分を責めてまで、その関係性を失うまいとします。
最終的に騙されていたことに気づくと、「可愛さ余って憎さ百倍」になるのは、この「快」を失うことに対するストレスが非常に大きいからでしょう。
「自分から騙される」3パターン
それでは、「自分から騙される」3つのパターンを以下に見ていきましょう。
1.愛情と承認が不足しているほど、「優しくしてくれる人」に騙されやすい
人間の心理には「返報性の原理」があります。好意を寄せられると、その相手に自然と好意を返そうとします。笑顔であいさつされると、こちらも自然と笑顔であいさつを返そうとするなど、人間関係の潤滑油にもなります。また「恩に報いたい」と自然に思うのも返報性の原理です。
しかし、この返報性の原理を悪用する人も少なくありません。ナンパ師がその典型です。自信なさげな、愛情と承認に飢えた女の子ほど格好のカモにされやすいです。それでいて、自分の虚栄心や支配欲を満たせる程度には、性的に魅力のある女の子を狙います。
ターゲットにした女の子を、ちやほやし、持ち上げ、有頂天にさせます。そこには真の愛はおろか、好意すら存在しません。
しかし、女の子の方は、常日頃愛情と承認に飢えていればいるほど、それを満たしてくれる(ように思える)相手に好意を感じずにはいられなくなります。これがナンパということです。
また40年ほど前、豊田商事事件というお年寄りをターゲットにした詐欺事件がありました。
騙されたお年寄りの中には、豊田商事会長が、押し寄せたマスコミの前で刺殺され、大々的なニュースになってもなお、自分を騙した豊田商事の若手社員を「あんないい子はいなかった。自分にこんなに親切に、優しくしてくれた若者はいなかった」とかばう人もいました。
寂しいお年寄りの心の隙につけこむ悪質な行為ですが、つけこまれた方は中々その洗脳を解きにくいのです。
2.「善人願望」があると「善人を演じる人」に騙されやすい
自尊感情が低い状態とは、言葉を換えれば自己愛(ナルシシズム)が肥大化している状態です。つまり「ほれぼれとする自分しか愛せない。自分を『いい人』だと思っておきたい。自分の中の怒り、恨み、憎しみを認めたくない」状態です。
社会人になって責任ある立場になったり、子育てを通して、「憎まれ役を買わざるを得ない」経験を通して、自分の「善人願望」を少しずつ脱することが出来ます。しかしこれもまた、人によりけりです。
「あるがままに見る」とは人間のエゴにも目をつぶらないこと自尊感情高く生きるとは、「嫌なこと、怖いこと、難しいことはシャットアウトして現実逃避し、ルンルンの毎日を送る」のエセポジティブになることではありません。むしろその反対で、誰に[…]
自分を「いい人」だと思っておきたい、これが「自分の周りはみんないい人だと思っておきたい」に転じやすいのです。本当に「自分の周りはみんないい人」であれば、まず安心ですし、「私はいい人に囲まれている。何故なら私がいい人だから」とまた自分の善人願望を満たせます。そうすると、「善人を演じる人」の格好のカモになってしまいます。
同調圧力の強い日本のような社会では、「いい人でいた方が、社会からはじき出されない」と思い込んでいることも多いでしょう。人間は社会的動物なので、「社会からはじき出される」と、どんなに一匹狼のつもりでも生きていけなくなります。
しかしこのことと「いい人と思われたい。悪く思われたくない。人からどう思われるかが氣になる」から○○するのは、やはり打算です。本来なら「人からどう思われようと、相手や状況にとって良いと判断したことをする」でなくてはなりません。本当に「いい人」で「いい人ぶる」人はいません。
コロナ騒動の3年余りで、以前は「人が大事、愛が大事、心が大事」と唱えていた人ほど、知らぬ存ぜぬで口を拭って逃げてしまいました。コロナの嘘とワクチンの危険性に声を挙げた心理関係者(カウンセラー、セラピスト、コーチ、セミナー講師など)は、私が知る限りほんの数名です。このことに私は大変失望しています。
善人ぶっておいた方が、多くの人を釣りやすい。情けないことですが、これが現実です。
3.自分に正直に生きていないと「この人についていけば安心」の権威付けに騙されやすい
「私は私でいい」と思えるためには、自分が嘘偽りなく生きている実感が何よりも大事です。嘘をつかない、約束を守ることも勿論そうですが、より大切なことは言行一致していることです。即ち「言ったことはやる。やりもしないことは言わない」ことです。
言行一致していないと、自分に不正直に生きていても氣づけなくなります。自分に正直に、自分をごまかさないからこそ、この世の嘘に「これはおかしい」と直感できます。直感とは心の中にいる神様の声です。自分に嘘をついていると、その直感が働かなくなります。ですから、自分をごまかせばごまかすほど、「マスクをして遊び歩く」自己矛盾に氣づくこともなく、マスメディアや政府の嘘に自分から巻きこまれてしまいます。
コロナの嘘に抗い続けた人は、人から非難されることよりもずっと、「自分が嘘に耐えられない」のです。自分の中にいる神様を裏切れないのです。
そしてまた、嘘をつくと、他人を騙して自分はいい目をしているようですが、実は「自分はまがい物である」という暗示を自分に入れてしまいます。嘘をつくことそのものが、他人を傷つけるのみならず、自分への虐待になります。
自分をごまかすとどこか自分の判断に自信を持てない悪循環になり、「権威のありそうな人」「自信たっぷりに振る舞っている人」に「この人についていけば安心」とすがってしまいたくなります。
権威付けに騙されるのは、「自分は思考停止・判断放棄して、堂々と意見を言ってくれる人の後ろからついていきたい」の安易な依存、責任放棄がベースにあります。
具体的には「NHKが嘘をつくはずがない」「国が推奨しているのだから大丈夫」「『ワクチンは危険だから打たないで』の家族の訴えよりも、医者やTVに出てくる自称専門家やタレントが言うことを信じる」に現れています。
騙す方は、人が如何に権威に弱いかを知り尽くし、そのテクニックをTV・新聞・自治体の広報誌・大手ポータルサイトニュースで発揮しています。騙されたくなければ、何と言ってもTV・新聞を見ないこと、見るのであれば「どのように騙そうとしているか」の心構えが必要です。ただ受け身でボーっとTVを見ていると一発でやられてしまいます。TVのコメンテーターに、それらしい肩書の人や、好感度の高いタレントを起用するのも「人は権威に弱い」心理を突いています。
コロナの嘘に騙されなかった人は権威に疑問を持っている人が多いようです。しかし口では権威が嫌いなようなことを言っても、心の底では「政府にお世話されて当然。お世話してくれない政府に文句を言う」依存心がある人はやはり騙されてしまいます。
子供の方がコロナの嘘や、ワクチンが危ないことに直感で氣づけるのは、権威や体裁に囚われず、心が本能と直結し、物を見る目が曇っていないからでしょう。人は経験を積めば賢くなれるとは言いきれません。
「何故」「どのように」思考する習慣がある人は騙されにくい
TVを受け身でボーっと見ていると一発で騙されると上述しましたが、騙されなかった人でこの意味における受け身の人はいません。主流メディアが決して取り上げない海外の情報を、主にツイッターから「自分から」取りに行く、マスクが「何故」有害無益か、mRNAワクチンが「どのように」危険かを知るにはこの能動的な態度が不可欠です。
ツイッターをやっていても「何故」「どのように」を知ろうとしない人は、いつまでたっても「マスクをしないと感染対策にならない」嘘を信じ込んでいます。2019年以前には誰もそのようなことをしていなかったのに。
冒頭でも触れましたが、「マスク・ワクチン=善」には、「何故」「どのように」が入り込む隙がありません。そして一旦こう刷り込まれると「マスクをしない=悪」になってしまいます。散見する「手首マスク」は、マスクを埃や排気ガスまみれにする不衛生で非科学極まりないことですが、「マスクをしない=悪」と刷り込まれると、こんな言い訳がましいポーズを取りたくなるのでしょう。これも自分に正直に生きていない態度なのです。
一方で「マスクやワクチンが如何に危険か」を訴えるには、「如何に」つまり「どのように」の思考がないとできません。騙されなかった人は、常日頃から「何故」「どのように」の思考が習慣化されていたでしょう。
そしてコロナの嘘を訴えていた人は、SNSやブログなどを駆使していました。今の社会ではまずその手段を取るでしょう。しかしネットの情報は自ら取りに行き、能動的に「知ろうとする」姿勢あってのものです。TVをボーっと見て「知った氣分になる」とは正反対の姿勢です。最初から最後まで受け身の人、SNSは「何が本当か」の情報を得るためでなくリア充自慢のツールでしかない人には、こうした大事な情報ほど流れ去って行くだけのようでした。
SNSに限らず、ネットや書籍の情報は「能動的に、知りたいことを知る」姿勢がある人に届きます。それがない人にはどんなに発信しても最初からスルーされます。自分の判断基準を自ら育て続けるのが勉強であり、自ら勉強しようとしない人は、騙されて殺されます。子供の頃の探求心や好奇心を殺してしまわないことがいかに大事か、それはその子の生涯の生死に関わるからです。
シンプルに考える大切さ・打算的ではないこと
以下の画像は割と最近、SNSで出回り、多くの共感を呼んだものです。
私が新型コロナワクチンを1回も打たなかった理由は、新型コロナウイルスよりも、長期の安全性が確認されてない新機序のワクチン…
騙されないためには、難しいことがわかることではなく、このようにシンプルに考えることが大切です。シンプルに考えるためには、「面倒だからみんながやってる方に乗っかる」「だって○○がそう言ったから」「反ワクと思われたくない」などがあってはできません。即ち打算的でない生き方と自己決定が自分のものになっている必要があります。
打算的でないとは、損得勘定ではないことです。損か得か、楽ができるか(肩の力を抜いて「楽に」やることとはまた別です)を選択の動機にしないこと。前後のつじつまを合わせて考える、「こんなこと今までやらなかったでしょ」の疑問を持ち続ける、「この目的、行きつく先はどこか」を考え調べる、そして何よりも「嘘に耐えられない自分」であることが、騙されて殺されないために不可欠なのだと、この3年半を経て強く感じています。