失望の原因は無意識の内に持つ相手への期待
誰しも「まさかこの人、こんな人だと思わなかった!」と驚き、時に失望した経験があることでしょう。寝食を共にしている夫婦でさえ、結婚後10年20年経ってもそう思うことは起きます。
「こんな人だと思わなかった」の中身は自分の期待です。そして期待は無意識の内に持つものなので、期待とは違った事態に直面した時に、その中身が露わになります。
そして人は自分が動くのが面倒なため、「私が失望しなくて済むように、私の期待通りになるように、あなたが変わって」をやりたくなってしまいます。ですから立場を変えれば「あなたに勝手に期待されて、私がその通りにしなかったら勝手にがっかりされても困るわ」になります。
譬えその時限りの「ごめんなさい。氣をつけます」になったとしても、行動を改めてもらうためのお願い、注意、時には叱責が、やはりその人のためにも必要な場合と、その人の信念や人格的なことで「言ったところでどうにもならない」場合と、大きく二通りに別れるでしょう。これもすっぱりと分けられるものではなく、重なり合う部分も生じます。
今回は「いつの間にか持ってしまう相手への期待」の二つの原因と、それを踏まえた人間関係の距離感について取り上げます。
原因①「相手が自分にとって一番良かった時」を基準に考えてしまう
どんな人でも「相手が自分にとって一番良かった時」を基準に考えてしまうので、付き合いが長い人ほど「こんな筈じゃなかった」になりやすいです。他のご老人には「歳を取ったらまあこんなもの」と受け入れられても、自分の老親には中々そう思えず、ついイライラしてしまうのは「若くてしっかりしていて、自分よりも賢く元氣だった頃」の親を基準に考えてしまうからです。これは免れがたい人情なので、家庭の事情は様々とは言え「介護はできるだけプロに任せた方が良い」理由の一つにもなります。
また成人後、別々に暮らしているきょうだいに対して、何かの折に「こんな兄(姉・弟・妹)じゃなかったのに」と思うのも、幼かった頃に無邪氣に遊んだ懐かしい思い出があると、それを基準に「こんなはずじゃなかった」が湧き上がってきます。普段接する機会が少ないと、尚更「昔の良かった頃の記憶」を基準に考えがちです。
特に家族・肉親、恋人など「失ったら自分が非常に孤独になる」相手や、「かつて自分に良くしてくれた人」ほど、「相手を失いたくない⇒相手は自分にとって不可欠な存在⇒何故ならあんなに良い関係だったから」というロジックで脳に保管されます。恋人同士の別れ話が揉めるのも、このロジックが強固かつ意識出来ていないからだと思われます。
この人間の心理をよくよくわかっているのが詐欺師やナンパ師、また昨今問題視されているホストです。ごく普通の社会人であっても、「天使の仮面をかぶった偽善者」はどこにでもいます。一目見て横柄で嫌な人、というのは、その時は困りますが実はそう怖くありません。最初からこちらが用心するからです。
これは誰にでも起きることなので、知った上で「今現在のその人を見る」「人は『天使の仮面』に騙されるもの」という心がけが、正しい判断の助けとなります。
原因②過度な一般化「○○だから※※だろう」
付き合いが余りない人であっても、こちらの無数の思い込みで「こんなはずじゃなかった」はしばしば起こります。「この人は○○だから※※だろう」という過度な一般化です。
「看護師さんは白衣の天使」
「獣医さんは心が優しいに違いない」
「母親だったら我が身に代えても我が子を守ろうとする筈」
「日本人ならこんな子供だましの詐欺、説明すればわかる筈」
「心理関係者なら目先の我が身可愛さより、日本の未来を担う子供を優先する筈」
実際には看護師さんでも獣医さんでも、優しい人もいればそうでない人もいるでしょう。育児放棄する母親、我が子の健全な発育より、世間体大事の親は昔から少なくないですし、詐欺のからくりについて説明したところで「その場は頷きはしても、そもそも最初から聞く氣はない」人が大多数だったのが、残念ながら令和の日本人でした。勿論「自分が先生と呼ばれて人からちやほやされたい。反ワクと思われるなどもってのほか」の、目先の自己保身に走った心理関係者はごまんといます。
また人は、つい自分を基準に物事を推し量ります。知能などの能力の差は受け入れていたとしても、責任感、自発性、正義感、勇氣、思いやり、行動力などの人間性については「まさかここまでひどくはないだろう」の正常化バイアスは中々氣づきにくく、それを克服するのは右から左には行きません。だからこそ失望もまた深くなります。
これらも失望するごとに、自分の思い込みを正していかないとどうにもなりません。そしてここでも失望に耐える力を自分が養っておかないと、「あの人のことだから、きっと何か事情があるに違いない」などときれいごとで覆い隠し、自分から見て見ぬふりを続けてしまいます。
危機の時に現れるその人の本性
予め危機を望む人はいません。しかし危機は悪い事ばかりではなく、その人の本性が否が応でも剥き出しになります。天使の仮面が剥ぎ取られます。例えば職場で、普段は良い事ばかり言っていても、面倒なお客さんが来ると雲隠れする上司などが典型です。普段は「いい人」で通っていた人が、誰かが体調不良等で辛い思いをしていても全く無関心だったり、逆に意外な人が身を挺して助けようとしてくれたり、その人の地金が現れます。
「まさかこんな人だと思わなかった!」は、ショックな出来事ではありますが、自分が揺さぶられ、意識が攪拌される、あたかも台風が海底から海水を大きくかき混ぜるようなことです。葛藤とはこうしたことです。波風立たないのは傷つきませんが、長い間の見て見ぬふりは澱みを生み、いつの間にか水が腐ってしまいます。
その時は見たくない、触りたくない澱みが水面上に浮かび上がってきても、勇氣を出してその澱みを取り除けば、きれいな水に生まれ変わります。危機がその人の本性を剥ぎ取り、現し、「こんな人だと思わなかった!」とショックを受けるのは、私たちの人間関係を見直すためにやってくるとも言えるでしょう。
「ここは譲れない」を相手が犯していないか・判断保留と観察
但し水の澱みは取り除けますが、人間関係における澱みは網で濾して捨てることはできません。その中身をよく精査し、それを知った上でどう距離を取るのかを一回一回自分が決める必要があります。
人間関係においては「6~8割共感でき、受け入れられればOK。後の2~4割は片目をつぶる」などとよく言われます。単純に「8割共感できればOK」とするよりも、受け入れがたいポイントについて、時間を掛けて熟慮することをお勧めします。「まあ、人間だし、そんなこともあるよ」「経験がない人には中々わからないと思うよ」とある程度「お互い様だよね」と許容できることか、「これは許容するべきではない」のかの見極めです。「これは許容すべきでない。譲れない」が、その人の輪郭そのもの、その人が何者であるかの現れです。八方美人は自分で自分の顔を失います。
すぐにはわからず、自分でも迷うことも多いでしょう。ですので判断を保留しつつ観察します。これは意識しないと中々やりません。白か黒かで決めつける方が脳は楽だからですし、また観察は意識的になることそのものです。
例えば「コロナの嘘とワクチンの危険性を知っていて黙っていた心理関係者」を私は許しがたく思っているのですが、その中でも「最初から情報を取るだけ取って、自分は知らんぷりを決め込む」のと、「発言する勇氣が中々出せず、また何をどう伝えれば良いのかわからず葛藤していた」のは異なります。後者であれば今後も長い目で見ますが、前者はとても受け入れられないと一つ一つ腑分けしていきます。最初から最後まで卑怯な態度と、勇氣を出せずに葛藤していたのは違う、ということです。また相手がどちらのタイプかも、直接訊けることではないので、時間を掛けて観察します。
「これは譲れない、許容できない」ポイントがわかった後は、その人とどの程度付き合うかを決めて行きます。これは関係性、自分とその人以外に関係する人(独身者の恋人同士と、子供がいる夫婦では状況が違います)、それまでのいきさつ等で千差万別です。
しかし何であれ、「自分の心が壊れない」ことを最優先して頂ければと強く思います。自分の心が壊れてしまっては何もならないからです。
一人の人に負わさない・人間関係にもリスク分散を
ところで、今はSNSで多くの人が自分の活動や意見、信念を発信し、私も参考にし、学ばせてもらってます。ネット以前の社会では、何かを発信するにはマスコミに取り上げてもらうか、ビラ配りや街頭演説などいずれにしても中々ハードルが高いものでした。
当然の成り行きですが、SNS上の人氣がある人ほど、周囲の期待もまた増えます。そしてその人が期待通りに振舞わないと、ファンであればあるほど苦言を呈するのもよく見かけます。直に接していないからこそ、多面的にその人を捉えず、自分の都合の良い理想像をいつの間にか作り上げてしまっているのかもしれません。恰も「女優さんはトイレに行ったり、鼻をかんだりしない」と思い込んでいるようなものです。
どんなに優秀で、人目を引く人であっても、私たちと同じ生身の人間です。一人の人に期待を負わせすぎないことも、その人を大事にする一環だと思います。投資ではリスクを分散することが大鉄則です。一つの銘柄に全財産を突っ込むのは自殺行為です。人間関係も、同じ考えを応用し、一人の人に負わせすぎない心構えが、結果的に相手も自分も守るでしょう。
自分の変化と共に人間関係も自ずから変わります。「ああ、この人、私をわかってくれる!とうとう見つけた!」とその時は思っても、現実にはいつまでも同じ思いができるわけではありません。人間関係も新陳代謝があって当然との前提に立ち、「うーん、ここは違うかな・・」という面を相手が見せても、余程のことでない限り議論にしたり余計なおせっかいは焼いたりせず、「人間だし、そんなこともあるよ」と許容できる友人が3人以上いれば充分なのでは、と個人的には思います。
それくらいの余白を持った心のあり方が、良い意味のゆとりを生み、それは心の成熟と関係していると思います。