「自分の育った家庭はおかしかった」と氣づくのは早くて30歳頃から
ご相談内容で最も多いのは、親との関係についてです。
「どうも自分が育った家庭は、おかしかったのではないか」と氣づくのは、私の臨床の実感では早くて30歳頃からです。子供の頃は他の家庭を知る由もなく、「そうしたものか」と思い込まされています。
若い頃は経験が浅く、多くの人に会っていないので、生まれ育った環境、特に親を相対化することができません。相対化できるようになるのは、様々な経験を積んだ中年以降でしょう。
そしてまた、昔と違って親が長生きします。また昔なら里帰りは数年に一度、電話がない時代なら、たまの手紙のやり取りだけでした。しかし今は交通と通信の手段が格段に便利になったために、成人後も関係性が密になりがちです。
昔は「自分の親はおかしかったのではないか」と子供が氣づく前に、親の方が死んでしまったり、何しろ関わらなければ知らないままというケースが多かったのでしょう。中年以降、子供が親の存在に苦しむのは現代病と言えるかもしれません。
どんな子供も「自分は愛情深い親に無条件に愛された」と信じたい
どんな子供も、親からの無条件の愛と承認、そして共感し励ましてもらえることを望みます。どれくらい意識的かは、その子によって異なりますが、全く望まない子供はいません。
仮に「干渉されたくない。放っておかれる位で丁度いい」と子供の方が思っていたとしても、人生の要所要所で、自分の頑張りや、或いは傷つきに共感してもらえなかったことは、知らず知らずのうちにダメージとなって無意識下に残ります。
しかしなおそれでも、子供は親を庇います。「そんな筈はない。私のお母さん(お父さん)は、無条件に私を好きで、愛してくれている」そう思わないと、自分の宇宙が崩れ去ってしまうからです。
これは親の庇護の元で、長期間育てられないと死んでしまう人間独特の本能でしょう。他の哺乳類も親を慕いますが、巣立ち後、人間のように親を慕い続けることはありません。
愛情や承認、共感の不足はダメージとして心の奥底に残り続け、実人生のひずみとして現れます。それに氣が付けるのは成人後、主に中年以降です。
愛情、共感、承認がないと勇気が挫かれる
人間関係において、いつも同じような問題を引き起こしてしまう、つい人の顔色を窺ったり、嫌われたくないばかりに「どちらにも良い顔」をして結果信頼を失ったり、「嫌です、やめて下さい」とはっきり言えず、自分を押し殺して迎合してしまったり。
或いは、努力もするし、決して能力が低くないのにどこか自分を信じ切れなかったり、「自分がどう思うか」ではなく「誰かから与えてもらった正解」を欲しがったり。このようなひずみが全くない人はいないでしょう。いずれも自尊感情が低いと起きがちなトラブルです。
これらのひずみが何故引き起こされたのか、はっきりとした原因はわかりません。本人の持って生まれた資質、学校教育、家庭の外で出会った人々など、親の責任ではないこともあるでしょう。
しかしそれでも、もし「自分の親が、愛情と共感、承認に富んでいたら、もっと違った自分だったかもしれない」と振り返るのは、単に親のせいにすることではなく、自分に何が起きたかを公平に検証しようとする姿勢です。
というのは、心の問題は勇氣のなさから生じることが多く、勇氣は思いやりと同じく後天的に育むものだからです。愛情、共感、承認のなさは、子供の勇気を挫き、ここ一番で自分を信じ切れず、思い切って一歩を踏み出せなくなります。仮に他の大人から愛され、励まされたとしても、それがないよりはずっとましですが、親の埋め合わせにはやはりなりません。
そして結果的に「指示待ち人間」になり、「言われた通りに、皆がしている通りにしておけば、私は責められない」生き方になってしまいます。
また真の愛、思いやりは、世間体など人からどう思われるかに囚われず、勇氣がないと実現できません。いじめの傍観者になるのも、勇氣がないからです。そしていじめの傍観者とは、いじめの共犯者です。
勇氣と世間体大事は正反対のものでしょう。今の日本人は「今だけ・金だけ・自分だけ」の自己保身に走る大人が大多数なのは、勇氣に欠けているからです。そして勇氣のないところに自由もまたありません。
大人の自分の目で、子供の頃の親との関わりを見直す
あからさまな暴力や暴言、食事を与えないなどのネグレクトなどは、いくら子供が庇ったとしても、周囲が気がつきやすいものでしょう。
それよりも実際には、「子供の希望や感情よりも、世間体を優先する」だったり、「親が子供に嫉妬する」だったり。これらは外側からはわかりづらく、そして親自身がいくらでも正当化し、自覚がありません。まだ判断のできない子供はそれを真に受けてしまう、しかし「自分を尊重されなかった」傷は自覚はなくても残り続けます。
時々ある事例で、「中学生になっても、母親がブラジャーを買ってくれなかった」があります。ある女性は、同級生の女の子から「〇〇さん、もうブラジャーした方が良いわよ」と言われ、母親に告げたけれどすぐに買ってくれなかったとのこと、しかも同級生から二回も言われ、その度に母親に言ったけれど色々理由をつけてすぐに用意しなかったそうです。
ご本人は「当時の自分は『ブラジャーなんて面倒くさい』くらいにしか思っていなかったので、母親がすぐに用意しなかったことをどうとも思ってなかった。しかし大人になって振り返ると、子供が『面倒だから着けたくない』などとは関係なく、母親が用意するべきもの。子供の同級生に指摘されるのは、母親として恥ずかしいと思わなきゃいけない」と話していました。
そして「あれは巧妙な嫌がらせだったのではないか」と氣づかれました。またそれに類することで「靴下に穴が空いていても、そのまま履かせて買い替えない」「靴がボロボロでも知らん顔」などがあったとのこと。「当時は『家にはお金がない』と散々言われたから、我慢しなければいけないと思い込んでいた。しかし今振り返ると、両親ともに趣味に結構なお金をかけており、子供の靴や靴下代が出せないわけはなかった。父親も気づかぬふりをして同罪だった」
子供の頃は世間を知らず、何にどれくらいお金がかかるかなど知らなくて当然です。その子供の無知と、親を無条件に信じていることに乗じて、子供に恥をかかせ、自尊心を踏みにじる行為は枚挙に暇がありません。
繰り返しますが、子供は無意識のうちに親を庇います。「自分の親が、わざと自分に嫌がらせをした」と認めるのは何よりも怖いのです。ですから上記の例で言えば「うちはお金がないから仕方がないんだ」と自分に言い聞かせ、自分と親を庇います。
しかしもし「同級生から指摘される前に、ブラジャーを買ってくれていたら、靴や靴下を、傷んでしまう前にその都度買い替えてくれてたら、どう違っていたか」を考えると、「本当に欲しかったもの、必要としていたもの」がわかるでしょう。
勿論、服や靴は媒介でしかありません。「いつもあなたのことを氣にかけているよ。お母さんはあなたに決して恥ずかしい思いはさせないよ。あなたが大事だから、いつも身ぎれいしていてほしいよ」・・これが「必要としていたけれど、もらえなかったメッセージ」になるでしょう。そういうメッセージを子供の頃に、要所要所で受け取っていたら、今の自分とは何が違っていたでしょうか・・・?
恨みや憎しみを感じる自分を許可する
このように、大人の目で「子供の自分にあんなことを言ったりしたりするだろうか?」と振り返ってみます。すると、知らず知らずのうちに自尊心を踏みにじられていたことに氣づけるでしょう。自尊心が踏みにじられ、自尊感情が下がると人は理不尽なことをされても、「嫌だ、やめてくれ」と言えなくなります。自分を蔑ろにされていることすら氣づけず、「力がありそうな者」にただ服従するだけになってしまいます。
「No」と言えるためには、テクニック、ノウハウだけ知っていても駄目なのです。「やめろ!ふざけるな!」と叫ぶ心を養っておかなければ、ただただ言いなりになるだけです。親の方が本音では人を信じず、子供を信じず、恐れ、「自分に服従させておきたい」がために自尊心を踏みにじり続けることも、充分あります。
ただ、こうした振り返り、検証をすると、親に対する怒り、恨み、憎しみを感じるでしょう。その感情を抱く自分にOKを出さなければ、この作業を最初からしようとしません。
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親への恨みは、本能を脅かされるものなので、他人である恋人や配偶者よりも根深いものになりがちです。元が他人、そして大人になってから「自分も相手を選んだ」のであれば、責任の一端は自分にもあり、だからこそ「次はこうしよう」という改善点にできます。一時は恨んだとしても、「もっと素敵なパートナーに出会うために、別れて良かった」と自分に言い聞かせることもできるでしょう。
「あんな女、早く死ねばいい。私はこんな女なのよ、がっかりしたでしょ⁉」
槇村さとる「イマジン」
「どうして?それも加奈子の一部だろう?」
「あんな女」とは母親のことです。心を病んだ母親の度重なる狂言自殺に、業を煮やして叫ぶ加奈子に、恋人の男性は「それも君の一部だ」とそのまま受け止めます。「あるがままの自分を大切にする」とは、それを自分で自分にやることです。
「死んでしまえばいい」と激しく憎むのは、肉親だからこそです。そして普通の心ある人なら、親を憎むこと自体が辛いのです。親の葬式に出たくない、親の戸籍から抜きたい、と人知れず思いつめる人も、実はそう珍しくありません。
親のパターンに巻き込まれず、ひずみを若い世代に連鎖させないために
成人後、親との関係性を見直す意義は、
①親以外の人間関係、特に自分の配偶者や子供にひずみとして現れていないかを検証する。
②今なお続く親との関係の中で、子供の頃と同じパターンに苦しめられるのを防ぐ。
主にこの二点のためです。ただ単に親を恨み呪い、挙句の果てに「あんな親だったから、私がこんなでも仕方がない」と開き直るためでは決してありません。それをやれば、自分で自分の品性を下げてしまいます。
特に②は、親は自分のパターンを変えようとすることは滅多なことでは起きません。寧ろ繰り返すたびに更に巧妙になり、強化されます。自分の心を守れるのは自分しかいません。「彼を知り、己を知れば、百戦して危うからず」孫子の兵法の最も有名な言葉ですが、「百戦して危うからず」には中々ならないのは、相手と自分を良く知ることが難しく、奥が深いからです。
冒頭に書いた通り、親が長生きする現代では、子供の方が親に苦しめられる期間が長くなりがちです。どんな関係にせよ、相手と自分を良く知った上で「どこまで関わるか」を決められるのは自分だけです。そして関わる際には、親のパターンに巻き込まれない、その自分を育て上げるのは、強い意志と努力が要ります。ただただ「だって」「どうせ」を言い続ける、被害者意識に埋没しておきたい人には残念ながら不可能です。
そして①のように、ひずみを若い世代に知らず知らずのうちに連鎖させないためにも、怒りや恨みを感じることを恐れず、そして乗り越え、ひとつひとつ修正していく。それが自分と向き合う作業なのです。