「仲間外れにされたくなかった」が生む悲劇
時折中学生ぐらいの子供が、遊び仲間に万引きや売春を強要されていたという痛ましいニュースがあります。
その時、その子供は判で押したように「仲間外れにされたくなかった」と言っています。その子にとって、万引きや売春を強要される屈辱よりも、仲間外れにされることの方が耐えがたかったのです。
人間はそれほど、孤独を恐れ、仲間外れにされることを恐れます。そしてその恐怖に付け込んでくる人は、絶えてなくなることはありません。また自分からその恐怖におびえ、「嫌われたくない」といい人を演じてしまう、言うべきことをはっきり言えず迎合してしまう、そうした悩みもまた枚挙に暇がありません。
2022年7月現在、屋外でさえ大多数の人がマスクを外さないのも、「はみ出し者になるのが怖い」「皆と同じことをしておけば安心」が動機になっているのでしょう。その代償としての熱中症や、子供たちの健全な発育が阻害されると、地上波TVでさえ報道しているにも関わらず。
自由と責任はセットです。仲間外れを恐れるがために、自由と尊厳を自ら放棄してしまう、それは自分の人生に責任を負ってません。私たちはそのためにこそ、孤独に耐える力、自分を蔑ろにする人を一蹴できる心の強さを養う必要があります。
大勢のマスク民の中でも、マスクを外せる人は、孤独に耐える力を日々鍛えています。そしてそれをやるのは自分しかいないと知っています。言い訳しながら、或いは思考停止してマスクをしておく方がずっと楽です。本当の自立とは、「だってみんなが」の言い訳をわが身に許さないことです。
すべての人間の悪は孤独であることができないことから生ずる。
三木清「人生論ノート」
自分を大事にする、いじめない、仲良くするのは、この心の強さを養うことと同義です。
大人は自分を蔑ろにする人を一蹴できなくてはならない
中学生の事件は、まだ自我が未熟な段階であり、同情すべきものでしょう。被害に遭った彼ら彼女らを責めるのは余りにも酷です。
しかし、大人の場合は情状酌量してもらえません。誰も代わって自分を守ってはくれない大人は、そういう人は自分で一蹴できなくてはなりません。これが例えば、相手が避妊をしない、安易な借金を申し込んでくる、しょっちゅう深夜の長電話に付き合わせるなども同じです。
ただそれでも、すぐに判断を下せる人はむしろ少ないのは理由があります。以下の図のマスローの欲求段階説の「所属と愛の欲求」は本能であり、この本能を脅かされると生きていけないかのように感じてしまうからです。
欲求段階説の内、欠乏欲求は本能であって、承認欲求や所属と愛の欲求は犬猫などの高等な哺乳類にも見られます。ペットの分離不安、飼い主にべったりになるのは、所属と愛の欲求を満たそうとしているからです。
一旦相手に好意を持ち、信頼してしまうと、それを覆すのは本能が抵抗します。周囲の人がどんなに説得しても聞く耳持たずになるのはこのためです。ナンパ師や詐欺師が人当たりが良く親切なのは、人間のこの本能を知り抜いているからです。
ナンパ師・詐欺師でなくても、家族、友人、恋人の縁を切るのは痛みが伴うので、自分が傷ついても相手に譲り続けて関係を維持しようとし、しかしやがて疲弊する、そうした経験はほぼすべての人がしているでしょう。
本能そのものは消えませんが、大人の場合は理性を使って考えることができます。この理性を使って考える頭の体操をしておかないと、本能に引きずられてしまいます。
嫌いな人に嫌われる意義
私たちは嫌いな人に嫌われる必要があるのです。それが自分の身を守ることであり、引いては相手をも守ることになります。
嫌いな人とは、価値観が合わない、気が合わないだけではありません。価値観や相性だけでなく、マナーや常識、誠実さなどを含めた人間性を見極めることも大変重要です。人間性に難がある人も「嫌われる必要がある人」です。
お店でイメージするとわかりやすいでしょう。外観やディスプレイなどで、ターゲットとなるお客様像をしっかり打ち出しておくと、そのお店に来てほしいお客様が来店します。互いの価値観が合っている、ということです。
ターゲットではないお客様がそのお店に入ってしまうと、そのお客様の時間を無駄にするだけでなく、場合によっては恥ずかしい思いをさせてしまいかねません。お店側が「私たちのお店はこういう店ですよ」としっかりアピールするのは、来てほしいお客様に来て頂くためだけではなく、ターゲットではないお客様の時間を無駄にしない、恥をかかせないためでもあります。
「価値観が合わない」のは相手が悪意の人か善意の人かを問いませんが、悪意の人に最初から来店されないようにするのも仕事の内です。
例えば万引き犯はその場の出来心のこともありますが、それよりも下見をしてカモになる店を予め選んでいます。販売員が店の隅でおしゃべりに興じ、商品陳列が乱れていても知らん顔、そうした店は「さあ、万引きしてください」と自分から言っているようなものです。
逆に陳列や清掃が行き届き、一歩入ると「いらっしゃいませ」と目を見て挨拶される、そんな店では万引きは中々できないでしょう。
万引き犯に「ここは無理だな」と思わせる店づくりも仕事の一環です。間違っても万引き犯に好かれてはいけません。人間性に難がある人に嫌われるのは、万引き犯に嫌われるのと同じです。
そして現実にはあり得ないことですが、もし全ての店が万引き犯に嫌われれば、万引きをする人もいなくなります。嫌いな人に嫌われることは相手をも守ることとは、相手に悪事をさせる機会を与えないという意味です。
人の地金は危機の時に現れる
価値観が合う、合わないは、そう苦労せずに見極められますが、人間性を見抜くのは意識的な努力の積み重ねが要ります。単に目先の自分の都合、損得勘定、快不快だけで人を見ていては、人間性を見抜く目は鍛えられません。
例えば学生の頃出会った先生で、大人になっても記憶に残るのは怖かった先生ではないでしょうか。記憶に残るのは、それだけエネルギーを掛けてくれたからです。生徒に迎合的だったり、嫌なことは言わないけれど、本気で叱ることもなかった先生は、ほとんど覚えていないでしょう。
私が高校生の時、体育の先生で永松先生という方がいらっしゃいました。当時もう定年間際でしたから、今は亡くなられていると思います。大変怖い先生で、「永婆(ながばあ)」とあだ名されていました。
ある時私が体操服を忘れ、その旨先生に告げた後、別のクラスの友達に借りようとしていました。先生は私の後を追いかけてきて、予備の体操服を持ってきてくださいました。その時何を言われたか正確には覚えていませんが「探したじゃないの」みたいなことを言われ、怒った顔で私の背中を掌で叩きました。
その時はただ怖かっただけでしたが、今思うと、授業前のお忙しい時間を割いて、私のために体操服を用意され、わざわざ私を探そうとされたことを申し訳なく、愛情がなければできないことだったと、当時の先生の年齢近くなって思い至るのです。
その時はわからなくても、時間が経った後振り返って「あれは中々できることではない」とわかること、また逆に、その時はやり過ごしていても「あれは不誠実な態度だ」とわかることもあります。
人は過去の人との関わりを振り返り、生の経験から洞察を深めることができます。
殊に人の本性が出るのは危機の時、困難が生じた時です。大きなことでなくても、永松先生のエピソードのような小さなことでも現れます。永松先生は、私のことを知らん顔をして放っておくことも、やろうとすれば出来たのです。
危機の時、メッキは全部剥がれ落ち、その人の地金が現れます。そして人は、その時のその人が取った態度をよく見ていて、忘れません。そして不思議と、そのことをペラペラとは話さない傾向にあるようです。
人は危機の時の態度をよく見ている、それは自分も見られている、ということです。
ですから、「人からどう思われるか」を気にする方が全く無駄な作業であり、その暇があれば、自分の良心と勇気を磨く努力をする、危機の時に卑怯な態度を取らないかどうか、自分に問いかけた方がずっと建設的でしょう。自分を等身大以上に見てもらいたいという厚かましさがあると、評価評判に自分から振り回されます。
洞察力が鈍る「人を悪く思ってはいけない」の思い込み
また、いわゆるいい子で育った人にありがちですが、「なるべく人を良いように思いたい」の裏返しで、「人を悪く思ってはいけない」「『あの人はダメだ』と思ってはいけない」と思い込んでいることがあります。そうすると、他人の狡さ、卑怯さを見て見ぬふりしてしまいかねません。そしてそのことに、また狡い人が付けこんできます。
全てにおいてダメな人はそうそういないでしょう。しかし、「あの人があの時取った態度は卑怯だ」「あれは巧妙な弱い者いじめだった」等がわからないと、わが身を守れません。
ある人が取った態度が人間性にもとることだったかどうか、一つ一つ検証する姿勢が重要です。自分だけでは判断できない時は、自分よりも成熟した視野の広い人に相談するのも良いでしょう。鬱憤晴らしだけに終わらない、こうした相談は自分の判断力を磨くためにも大いにするべきだと思います。
自分はお人好しでつい騙される、利用されがちだと思う場合は、「人を悪く思ってはいけない」という思い込みがないかどうか、一度振り返ってみることをお勧めします。
嫌いな人に嫌われてこそ凛とした自分に
世の中には確かに「あの人の事を悪く言う人はいない」という人格者もいます。しかしだからと言って、その人が優れた業績を上げているかはまた別です。大きな仕事を成し遂げた人ほど、凡人の目にはわからない面があります。そして人は皆、自分の尺度で物事を推し量ります。「名将は名将を知る」「名人は名人を知る」のことわざ通り、名将でなければ、名人でなければわからない境地もあります。
「泣いて馬謖を斬る」ならぬ、「泣かずに馬謖を斬る」非情さも、責任の重い人には求められます。そして凡愚の人は、そこだけを見て「なんて非情な」と非難します。
そしてまた「凡人であってはいけない」こともありません。自分が凡人であることを弁えられれば、それで充分であり、その態度もまた誰もが取れるものではありません。
これまで見てきたとおり、私たちは嫌な人には嫌われる必要があります。その「嫌な人」が、単に自分の目先の都合、快不快、損得勘定だけで「あの人嫌い」になっていないかどうか、永松先生が私に取った態度が、「あれこそが思いやりであった」とわかるかどうかだと思います。
特別に悪い人ではなかったとしても、人間存在の襞がわからない、薄っぺらな人も大勢います。そうした人にわざわざ好かれようとする必要もありません。そのことと、挨拶やするべきやり取りはして、円滑な人間関係を築くのはまた別です。
嫌いな人に嫌われてこそ、その覚悟ができればこそ、「何とかして嫌われまい!」という無駄な努力をせず、肩ひじ張らずに凛とした自分になれるのだと思います。